◆会報第53号より-04 縄文遺跡

シリーズ「2014年夏 古代の声を聞く」・・・その1
縄文遺跡を訪れる

 野間口 秀国 (会員) 


 この夏は期せずして日本の古代、縄文時代と弥生時代を学ぶ機会に恵まれました。本号と次号で学びの一部を書き留めて今後の学びの参考にしたいと思います。

 先ず本号では縄文時代についてです。8月2日の京都新聞に「三内丸山に直線の溝」の見出しの記事を見つけ、少なからずの驚きと共に二度、三度と読み返しました。それはまさに10日ほど前に青森県の日本百名山二座(八甲田山と岩木山)への登山を前にした7月21日に国の特別史跡である三内丸山遺跡を訪ねたばかりであったからです。
 既にご存知のように、この遺跡は青森市三内丸山にあり縄文時代の前期から中期(約5,500から約4,000年前)の大規模集落跡の遺跡です。遺跡の案内施設はとても充実しています。2002年11月に開館した「縄文時遊館(ビジターセンター)」では縄文人の生活や環境が体感できるギャラリーや体験工房などがあり、楽しみながら学べる施設となっています。館内の「さんまるミュージアム」で1時間ごとの定時ツアーの始まりを待つ間に縄文時代の予備知識を得てガイドのツアーが始まりました。

 館内での概要説明と諸注意が終わり外へとつながるトンネルを抜けるとそこには縄文の世界が広がっていました。最初の驚きはその広さもさることながら、発掘の歴史の説明で「そもそもこの発掘は県営の新野球場建設に先立つ緊急調査が目的だった。発掘と球場建設が並行してなされ、既に一部は建設が進んでいたが遺跡の重要性が理解されて当時の県の判断で野球場建設は中止された。」と話されたことです。
ガイドの方も青森県の英断だったと誇らしく話されておりいたく感動しました。

 以下は実際のツアーの順序どおりではありませんが、縄文の生活を偲ばせる竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、掘立柱建物跡やそれらが復元された建造物群は、外からだけでなく中に入って観察し学ぶことができます。
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 特に大型竪穴住居跡は、当時の集落の全員が入れたのではないかと思えるような広さで(長さ32m、幅9.8m)内部の天井も3階ほどの高さの建物です。目的は集会所、共同作業所、冬期の共同家屋など諸説があるようです。縄文時代もこの地は積雪が多かったのではと思うと、冬の共同家屋の可能性には最も納得ができました。 次に興味を引かれたのはお墓です。子供の遺体は丸い穴を開けたり口や底を欠いた土器の中に入れられて家の近くに埋葬されており、これまでに880基ほど確認されています。大人は楕円形や小判型の地面に掘られた穴に埋葬され、墓の道と名付けられた道路を挟んで向かい合うように同じ方向を向いて配置されています。数は約500基が見つかっており、墓の数から子供の生存率が低いことが伺われるようです。

 遺跡の北と南には盛土(もりど)がありました。盛土にはたくさんの土器や石器、土偶やヒスイ製の玉などが土と一緒に捨てられて、約1000年で丘のようになったもので、発掘時の様子そのままに見ることができました。この盛土はこの集落が長い年月にわたり争いが無く平和であったことを示すものであるとの説明がなされました。
f0300125_920431.jpg 遺跡を歩いていると否応なく気になる建造物がありました。それには直径が1mほどもある6本の栗の巨木が使われており、高さが約15mもありました。この建造物の用途も、高床建物、望楼、見張り台、祭祀の場などの諸説がありいずれも決め手には欠けるとのことでした。近くで見ると柱の大きさや高さに圧倒されました。ちなみに6本の栗の巨木は、この冬のオリンピックが開催されたロシアのソチから運ばれたものとのことです。

 冒頭の記事にある発掘現場の作業は訪問当日は休みでした。他にも書くことは多いですが、何かの機会にしたいと思います。まだまだ発掘作業が続く三内丸山遺跡を実際に見て、触れて、縄文を感じるひと時の夏の旅でした。暑い中を親切丁寧にご説明いただきましたガイドの方に感謝申し上げます。

<参考図書等>
 ◇ 東奥日報社刊 特別史跡三内丸山遺跡 
 ◇ 青森県教育委員会刊 特別史跡三内丸山遺跡ガイドブック
 ◇ 吉川弘文館刊 玉田芳英編 史跡で読む日本の歴史


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by y-rekitan | 2014-08-28 09:00 | Comments(0)
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