◆会報第54号より-02 神国論

f0300125_273775.jpg
《講 演 会》
神 国 論 の 系 譜
― 石清水八幡宮と天下人 ― 

2014年8月  文化センターにて
鍛代 敏雄 (國學院大學栃木短期大学教授)


 8月31日(日)、文化センターにおいて、鍛代敏雄氏による標題の講演が行われました。お話は多岐にわたりましたが、テーマに沿って、その概略を紹介します。参加者は50名でした。
天下とは何か

 織田信長以来、秀吉・家康は天下人といわれます。その「天下」とは何でしょうか。よく天下は国家のことではないかといわれますが、それは違います。「天下」とは、京都をふくんだ畿内というエリアを指し、そこを支配する人が天下人となります。
 天下=京都を支配するのですから朝廷、公家も天下に含まれ、足利幕府も一つの天下です。戦国期には京都から地方に流浪する将軍が現れますが、彼らは自身が京都にもどることを「天下を再興する」と表現しています。京都に戻って政治を行うことを「天下再興」と唱えるのです。従って、信長が上洛して政権の実権を握るので天下人と称されるのです。
 秀吉の場合は、京都に聚楽第(じゅらくだい)を築きましたが、大坂を首都とする構想がありました。大坂城を築き、天満に御所を設けようとし、そこに天皇を招くということですから首都移転構想だといえます。大坂は畿内ですから、秀吉も天下人と称されるのです。

ほんとうは八幡様になりたがった太閤秀吉

 秀吉は八幡神になりたかったようです。彼は源氏の出身ではありません。氏素性と云う点では、農民ですらなく、貧民窟の出であるという説すらあります。その彼がなぜ八幡神になりたかったのでしょうか。
 秀吉は、自分が「新八幡(いまはちまん)」として祀られることを遺言に書きました。神として祀られたいという願望をもっていたのです。宮中の女官たちが著した「御湯殿上日記(おゆどののうえにっき)」慶長4年3月5日条にその記述があります。そこには、秀吉は阿弥陀になりたいと記されているのです。阿弥陀とは、神仏習合の当時にあっては八幡神にほかなりません。
 鎌倉時代、浄土教の一宗派である時宗(じしゅう)の一遍(いっぺん)が八幡宮に参詣にやってきます。その時の絵が「一遍聖人絵伝」として残っていますが、彼は八幡神を阿弥陀仏として拝んでいるのです。八幡大菩薩が阿弥陀如来であったのです。この考えは、平安時代の終わりぐらいから認識される様になってきました。

神仏習合の変遷

 このような神仏習合の考え方は、奈良時代に始まります。奈良の東大寺に鎮守八幡(ちんじゅはちまん)があります。
 聖武天皇が東大寺を造立する際に、宇佐から八幡神を勧請(かんじょう)しました。その時代から八幡大神=八幡大菩薩であったのです。宇佐神宮自体が最初から宮寺(みやでら)として成立していますが、その分神が奈良に遷されて、東大寺の大仏を鎮守する神として鎮座されたのです。
 また、9世紀になると、八幡神に応神天皇が合体(同体)するようになります。つまり、八幡大菩薩を拝むことは応神天皇を拝むということになるのです。そして、平安時代の終わり頃、それに阿弥陀様が同体化するのです。そのように信仰の対象が変わるのは、寺の意思によるもので、信仰を拡張していくことに狙いがありました。
 東大寺も神話を創ってゆきます。東大寺はもともと華厳宗で、その最高仏は毘廬遮那(びるしゃな)仏でした。それが中世になり真言宗が広まるにつれ、その影響下に入るようになります。すると、真言宗の最高の仏である大日如来に天照の神を同体化させるということが行われるのです。毘廬遮那仏が本地(ほんじ)で、天照大神は毘廬遮那仏の垂迹(すいじゃく、生まれ変わり)であるととらえられるようになるのです。
 では、なぜこのような考えを寺の僧侶が生みだし、広めようとするのでしょうか。それは専ら経済的な理由によります。というのも、平家政権の成立以来、武士は自分の所領を増やしながら経済力を高めていきます。その所領とは、社寺が荘園として保持していた土地でした。寺社の荘園が武士に奪われてゆく中で、何とか信仰の対象を拡大させ、信仰を通して収入の道を確保しなければならなくなるのです。
 そのような経済的な理由の中で、寺側が神社を取り込んでゆくことが起こるようになります。東大寺が伊勢神宮の天照大神を取り込んで復活しようとするのはその一つの例です。

寺と神社の関係

 寺と神社の関係を、東大寺とそれを鎮守する八幡神の関係で見てみたいと思います。
 聖武天皇が宇佐から勧請した八幡神は、現在では手向山八幡(たむけやまはちまん)とよばれています。元々、今の所にあったのでなく、鎌倉以来この地に鎮座することになります。従って、秀吉が知っている東大寺と手向山八幡の位置関係は今と同じです。
 『洛中洛外図(らくちゅうらくがいず)』を見て下さい。f0300125_2135793.jpg京都の七条に秀吉が造らせた方向寺(ほうこうじ)の大仏殿と秀吉が自身祀られるために造った豊臣廟(とよとみびょう)の位置関係を比べて下さい。多少のずれがありますが、東大寺と手向山八幡とほとんど同じ位置関係であることがわかるでしょう。廟(びょう)は墓ではありません。神として祀る所です。
 石清水八幡宮は、院政期において、天下第二の宗廟といわれるようになりました。天皇の祖先神である応神天皇を神として祀る所であるからそのようにいわれるのです。
 東大寺の場合、大仏は国家の安泰を祈願し、それを守護するのが手向山八幡です。同じように、京都の方向寺の大仏が国家鎮護の仏であり、豊臣廟がそれを鎮護する神という関係になるのです。
 この寺(仏教)と神社(神道)の関係は戦国時代以来一貫しているようです。つまり、寺は来世の後生安全を祈る所であり、神社は現世の平和なり安穏・利益を憑(たの)む所である。ポルトガルから来た宣教師も、日本には二つの宗教施設があり、寺が来世利益を、神社が現世利益を祈願する宗教施設であると述べています。
 当時、奈良の大仏は松永久秀によって焼かれてしまっていたという事情もあって、天下人秀吉は、京都に大仏と豊臣廟を造ります。つまり、来世の安穏を保障する寺と、現世の平和を保障する豊臣廟という神社を建てるのです。秀吉は、先にも触れたように「新八幡」として祈るよう遺言しています。八幡神は阿弥陀仏と同体ですから、現世も来世もともに安穏であることを保障する意図で二つの建造物を造ったのです。

徳川家康の場合

 徳川家康は源氏であると自称しますが、私は賀茂氏の流れにあると思います。葵の紋は実は賀茂氏の紋です。松平の発祥地も賀茂社領です。しかし、源氏の系図を取り込んで、松平―徳川をそこに流し込んでしまうのです。源氏になったからにはその氏神である八幡信を崇敬しなければなりません。しかも、天下を支配した以上、京都を守護する石清水を保護し崇敬するのは当然です。
 中世用語に「守護不入」という言葉があります。家康は八幡の地を「守護不入」の地にします。中世から、八幡は守護不入の土地です。家康は、室町幕府の将軍が八幡を「守護不入」にしたのを受け継ぐのです。
 守護不入とは、権力者が関与できない土地という意味です。ドイツ語ではアジールという言葉に相当します。そういう意味で、八幡は近世になっても中世がそのまま連続するということになるのです。
 家康は、秀吉の没後に豊臣廟を破却してしまいます。秀吉は、八幡神であることが否定され、豊国大明神という新たな神号が後陽成天皇より下賜されます。家康の画策によるものです。源氏長者を受け継ぎ八幡神を崇敬する第一人者としては当然の措置だといえます。

仏を鎮護する八幡神

 さて、八幡信仰を考える時、やはり東大寺の守護神として宇佐から八幡神が勧請されたということが象徴的な意味をもちます。そこから神話が生まれるのです。つまり、東大寺の大仏は鎮護国家として重要な働きをしますが、それを守る鎮守神として八幡神が鎮座されるのです。
 鎮守八幡は東大寺にとどまらず、南都北嶺の寺に勧請されるようになります。東寺にも八幡神が鎮守されますが、これは空海の意思によるところが大きいといえます。その後、奈良の薬師寺、大安寺、西大寺にも鎮守八幡が勧請されてゆきます。つまり、旧仏教の主要な寺院に鎮守八幡が鎮座されていくのです。仏法を鎮護するために八幡神を勧請したということに他なりません。八幡神が仏法を鎮護するという神話を信奉しているからです。

いくさの神

 八幡神は平和をもたらす神であるとともに軍神でもあります。いくさの神であったという事は言うまでもありませんが、なぜそうなったのか。次に、そのことに触れたいと思います。
 「神国」という言葉にその謎を解くカギがあります。その前にはっきりさせておかなければならないのは、「神国」は宗教思想というよりも政治思想に近いもので、「国体」(国家体制)という言葉に近い概念です。
 古代に編集された国史である「六国史(りっこくし)」は、『日本書紀』に始まります。その神功皇后(じんぐうこうごう)紀(仲哀天皇期)に「三韓征伐」の神話があり、その中に「神国」という言葉がはじめて登場するのです。神話ですが、秀吉は事実として受け取ったと思います。
 「神国」という言葉は中国にも韓国にもありません。そういう意味では日本で生まれた造語です。
「三韓征伐」は神話ですが、当時、三韓の中の新羅が日本に服属し、日本に朝貢していました。そこには、当時の新羅がおかれた対外的な理由があると指摘されますが、そのような対外的な緊張の中で、「神国」なる言葉が造られたということです。
 その後、「神国」が使われるのは『三代実録(さんだいじつろく)』に記述される清和朝(858~876)です。
 清和朝といえば、石清水八幡宮が創られた時代です。これが重要です。その時代に起こった特筆すべきことに、貞観(じょうがん)の大津波(869年)があります。それは東日本大地震に匹敵する大地震です。また、この時代には、朝鮮半島から海賊が大宰府周辺に頻繁に出没します。つまり、清和天皇の時代は、「内憂外患」の時代であったということです。そんな「内憂外患」ではあっても、日本は「神国」だからそれを払拭(ふっしょく)してくれると清和天皇は思っていました。だから「神国」という言葉が使われるのです。そして、清和朝の時代には、神功皇后の胎内に応神天皇が宿っていたと考えられています。三韓征伐に赴いた神功皇后の胎内に応神天皇が宿っていたということは、応神もともに戦っていると認識されたということです。従って、八幡神は応神天皇であり、軍神でもあるのです。f0300125_8433947.jpg
 神功皇后と清和天皇の年代記に、「神国」という言葉が使われるのは、二つの時代がまさに「内憂」なり「外患」の時代であったということです。そういう時代だからこそ「神国」という言葉が再生産され、いくさの神としての八幡神が強調されるのです。同時に、清和源氏が八幡神を自らの祖先神として敬い、彼らは武士ですから、いくさの神として更に意識されることになるのです。

秀吉の朝鮮出兵構想

 秀吉は、軍神としての八幡神の性格を充分に理解した上で朝鮮出兵(侵略)を企てるのです。
 秀吉の朝鮮出兵は失敗に終わりました。兵站(へいたん)基地のない戦いだったからです。また、元(蒙古)が中国全土を支配したように永年かけて地域を統治することもありません。従って勝てる見込みもなかったのです。
 但し、秀吉の朝鮮出兵は、明をも支配する構想を当初から持っていました。それは神国思想に基づいていたからです。秀吉の神国思想は、秀吉に限らず、豊臣政権を担う大名や武将、農民や漁師に至るまで浸透していました。それをうかがう史料があります。
 朝鮮出兵に従軍した松浦(まつら)氏家臣の吉野が書いた日記です。そこには、日本は、中国からはるかに隔たった僅かの島に過ぎないと述べ、「九牛が一毛たりといへども日本ハ神國たるによつて神道勇猛」と書かれ、神功皇后の三韓征伐の話を持ちあげているのです。彼らは神功皇后の話を事実として受け取っていました。
 また、秀吉自身が自分をどんな権力者(政治家)だと思っているかを示す史料があります。
 おそらく朝鮮出兵の前年だと思いますが、前田利家に送ったかな書きの消息(しょうそく、手紙)が残されています。すなわち、秀吉は利家のことを劉邦(りゅうほう)に仕えた樊噲(はんかい)になぞられえました。劉邦は後に漢の高祖(漢王)になる人ですが、樊噲は、劉邦の窮地を救うなどして功高く、のち、漢王の将軍となるのです。だから秀吉自身は、劉邦であって、皇帝になりたかったのだと思います。それは信長も同じでした。
 信長は、正親町(おおぎまち)天皇から関白や太政大臣、将軍の位を進められますが、すべて拒否しています。ルイス・フロイスが記した通り、信長は自分のことを神体であると述べています。天道で定められた神であるというのです。『信長公記(しんちょうこうき)』は信長の弓衆、太田牛一(おおたぎゅういち)が書いた信長伝として知られていますが、太田は信長を神として崇めています。
 秀吉も信長の後を追い、中国の皇帝のごとき天子=神になりたかったということです。そのための朝鮮出兵であったと考えられます。秀吉は関白になったではないかと、反論する人がいるかもしれません。しかし、これは単なる便法です。秀吉は小牧長久手の合戦で家康に手ひどい敗北を喫しました。そこで、秀吉は旧来からの権威にすがり、つまり関白の位になって家康を大名の前でひれ伏させる作戦に出たのです。秀吉にとって関白や太閤の位はそのためのものでした。

「神国」論の成立と展開

 「神国」論が最初に登場するのは古代です。但し、それは定着することはなかったと思います。それが本格的に形成されるのは、院政期です。白河上皇は、自身が病におかされた時、国王である自分が弱るのは国家が弱ることだと考え、それを救ってくれるのが「神国」だと述べています。これは、白河による神国宣言論だと思います。
 ただし、強調しておきたいことは、「神国」とは何かという説明は一切行われていないことです。「神国」論の定義がないのです。これは白河に限らず、天下人の信長・秀吉・家康も全く同じです。日本は神国だから負けないといっても、その神国たる理由も実態も何も明らかにしない。そこに、「神国」論の特徴があるとも言えます。
 「神国」論は、抵抗勢力に対する武器にもなります。比叡山衆徒による強訴に悩まされた白河法皇は、「神国」論によって彼らを調伏することを願いました。頼朝も「神国」論を持ち出し、後白河法皇に平氏追討の院宣を出させるのです。つまり、「神国」論は戦争を正当化するために持ち出されるのです。
 けれども、世の中が落ち着くと武力を強調した「神国」論を持ち出すものは少なくなります。「神国」論が勢いをもつのは、「内憂」なり「外患」が持ち上がったときです。
 では、平和な時代に、国家をすべる論理とは何か。それは、「神国」を基盤にした王法と仏法が二輪のごとく支え合っているというものです。ここで、王法とは、朝廷を中心とし、武家政権をも巻き込んだ政治勢力であり、仏法とは寺社を中心とした宗教勢力のことです。
 最後に、天下人である家康の墓がどこにあるかということに触れます。それは、日光東照宮の奥に「東照宮奥社」として存在しています。つまり、家康は死後、穢れた存在ではなく、聖なる神として崇められる存在となったのです。冒頭、秀吉が神として祀られることを遺言したと述べましたが、同じ天下人の家康も「神国」を体現する「神君」として崇められ祀られたということです。

 鍛代さんは、他にも、「八幡」が例えば郡上八幡や近江八幡などと地域の後に置かれるのは、八幡神が地域の鎮守として機能していたこと、あるいは、江戸時代の年号は漢王朝の年号が踏襲されたように、秀吉も家康も漢の時代を理想化したこと、さらに、秀吉時代に八幡は直轄地にされ、安居の祭りは行われなかったことなどにも言及されましたが、それらは紙数の関係もあり割愛させていただきました。
                                     (文責=土井三郎)


<<< レポート一覧へ        次の《講演会》レポートは⇒⇒

by y-rekitan | 2014-09-28 11:00 | Comments(0)
<< ◆会報第54号より-01 八角堂 ◆会報第54号より-03 地誌... >>