◆会報第55号より-02 安居頭諸事

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《講 演 会(会員発表)》

「安居頭諸事覚」を読む

2014年10月  八幡市ふるさと学習館にて
谷村 勉(会員)


f0300125_9383743.jpg 10月16日(水)午後1時半より、ふるさと学習館において、標題の研究発表が行われました。司会は、安立俊夫さん。谷村さんは、八幡における武家の祭りとされる「安居神事」とその頭役の在り様を古文書をもとに具体的にお話していただきました。参加者は37名でした。以下に、その概要をご自身に紹介していただきました。

江戸時代の安居神事の背景

 江戸時代、八幡八郷は守護不入、検地免除の珍しい地域でありました。検地免除とは税金をかけないということですから、これはかなり裕福な土地柄であったと推定できます。他の寺社領と違って社務をはじめ社士、神人、安居百姓など山上山下惣衆は直接徳川家康から朱印地(三百六十通の朱印状)を与えられ、それぞれ各自が領主のようなものであり、特異な所領形態だったといえます。慶長十五年(1610)九月二十五日付、家康朱印条目は地下人が安居神事を執行し、その役料として朱印地が与えられた事を示すものです。
 安居神事の祭は「寿永元年(1182)源頼朝が、鎌倉に八幡宮を勧請するにあたり、高田蔵人、菅原忠国に代幣使を勤めさせたことに始まるとされる」とも言われ、安居神事の祭は将軍家の命(武家の沙汰)を受けて行われる神事であり、武運長久天下泰平を奉祈しました。

安居神事の概要

 まず安居頭屋に祭壇の御壇が築かれ、山上から招いた御師により神霊が勧請されます。十二月十日、安居頭人は差符の儀によって「安居頭役」と「堂荘厳宝樹預」の二通の差定を受けます。次いで社務、所司をはじめ郷中の町民、百姓などを饗応する。いわゆる「コナシ」というものを順次行います。十四日に「宝樹」と呼ぶ松の大木を頭屋祭壇へ運び入れ、十五日に「ヤーハンヤー」の掛け声とともに宝樹を曳き進めて、猪鼻坂から山上へ曳上げ本殿前に立て、猿と呼ぶ少年が宝樹を駆け上り一ノ枝を切り、頭屋祭壇に納めて神事は終了する。といった次第です。

安居神事の中断

 戦国時代、毎年かどうか判らないものの、安居神事は継続していました。この時代には「荘厳頭」と「僧供頭」と呼ばれる両頭の下に六種類の「宝樹」とそれらの「安居頭役」が置かれました。しかし、江戸時代は「一本の宝樹」と「一人の安居頭役」に略されたようです
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  豊臣政権になって、太閤蔵入地の実施により直轄地になったようで、天正十七年(1589)から慶長四年(1599)まで十年間、安居神事は中断しました。領地召し上げにより経済的な余裕をなくしたからです。

安居神事の復活

 秀吉、前田利家の死後、最大の実力者になっていた徳川家康は関ヶ原合戦直前の慶長五年(1600)五月、八幡神領の朱印地を確定し、検地免除も保証した為、安居神事は復活しました。この家康の決断には、お亀(相応院・尾張藩祖義直の生母)と志水家の奔走も大きく貢献したようです。慶長五年七月に豊臣家奉行衆が家康に突き付けた弾劾状「内府ちがいの条々」によれば、その最後の項目に「内縁之馳走を以、八幡之検地被免候事」とあり、内縁とはお亀を指し、彼女の奔走によって検地免除になったことを示しています。また「安居御神事諸事記」に「慶長五年の冬、志水小八郎忠宗安居を勤めらる、…」とあり、慶長五年に安居神事が復活した事が分ります。

「安居頭諸事覚」の内容

 「安居頭諸事覚」は安永元年(1772)に書かれた安居の頭としての手順書です。
 まず安居頭屋台所諸事覚と書かれ、九月十六日から始まります。
「朝食後達所の一臈来たり、祝儀の式を行う。頭人は玄関まで出迎え、塗膳足打にて料理を出し、酒三献の後大盃を出し、頭人、若頭人、親類中戴く。同日、正明寺より安居田之米納の案内があり、米納の前日に達所、小綱、仕丁、宿坊へ頭人から案内人を出す」とあり、米納の日には頭人裏付上下にて銀掛、升取を連れて正明寺に行っています。f0300125_10365337.jpg郷中からは五十石の安居合力米が支給されました。この合力米五十石は慶長十六年に紺座町・片岡道二、橋本町・落合忠右衛門の闕所により、合わせて八十七石を没収した中から安居料として提供されたものと推測しています。
 折方之覚の項には社務中や所司中などへの進物、饗応料として渡すべき米の量や金銭の額が指示されています。文中の米の量を合計すれば二十一石一斗八升になり、次の銭ニて渡ス折方進物振舞料では公文所への折方銭十五貫文など合計三十七貫六百文、それに歩金五両弐歩、白銀百拾一匁を銭振舞料として各所に渡すように指示されています。そのほか「宝樹」や「飾りつけ」の費用など不明な部分も多々ありました。今回「安居頭諸事覚」を読んで興味深かったことが二つありました。志水家への進物と猪鼻坂の安居木差符所の存在です。
 尾州江遣ス飛脚之事の項に下記のようにあります。f0300125_1048872.jpg
「・進物の品々用意可有事、・御礼並びに升形の箱弐ツ、塩鮭、状、箱等渋紙惣包すへし、絵府付へし、樽弐ツは菰に包へし」と進物の拵を取決め、「御祈祷の札」は杉原紙に包み水引にて結ぶなどと規定している。また「・樽弐ツに入候酒は名護屋(ママ)にて買候て樽に詰候様に可申合、樽一ツに五升入名護屋にて封印をおして酒屋之名を樽に書候事は無用とて可申合事」とあり、酒は名古(護)屋で買い求め、樽は五升入りであり、同時に安居御供物や塩鮭一尺を進上しました。名古屋では「御礼乗せ候台や塩鮭乗せ候台、木具台弐ツ」も調達しています。f0300125_10521464.jpg飛脚の発足は三日か四日頃勝手次第に出発し、発足の前の晩には夕飯を振舞い、また発足の朝飯料として白米壱升五合を渡す。この役を担う飛脚に優遇の姿勢が伺えます。
 志水甲斐守は慶長の末頃、尾州家に入り代々国家老を勤めています。12月、安居神事執行の際、江戸時代を通じて毎年志水家に進物を行い、八幡の惣衆は感謝の意を表したのでした。

 
 次に安居木差符所ですが、猪鼻坂の中間点にあります。f0300125_10595954.jpg寛延四年辛未(1751)に描かれた石清水八幡宮境内全図には猪鼻坂がはっきり描かれています。二ノ鳥居を過ぎて神幸橋の手前からカゲキヨ塚に至る坂道ですが、境内全図の実物を見て「安居木差符所」と書かれた箇所が判りました。ここで宝樹を四、五尺切る神事が行われました。「安居頭諸事覚」には猪鼻坂で神事の道具類や酒樽壱斗などが準備される様子が書かれています。柏村直條によって選定され、八幡八景の第三景「猪鼻坂雨」として詠まれた名所猪鼻坂も今は安居神事と共になくなり、その面影は見当たりません。
最後に安居神事終了の翌十六日、「安居祈祷神札は御箱に入れたまま郷当役中へ返納するが、来春の江戸年頭御礼に下向する其宅に頭人麻上下着用にて持参する」とあります。
江戸年頭御礼では社士惣代が安居祈祷神札を持参して毎年春二月に将軍に拝謁しますが、尾州候と志水家にも年頭御礼の挨拶を行います。

【主な参考文献】
  ・中世神社史料の総合的研究  研究者代表 鍛代敏雄
  ・神社継承の制度史   石清水八幡宮の祭祀と僧俗組織 西 中道
  ・男山考古録        長濱尚次


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by y-rekitan | 2014-10-28 11:00 | Comments(0)
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