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◆会報第55号より-05 御園神社①

シリーズ「御園神社考~その1」・・・①
渡来人の里・那羅郷(ならごう)

 大田 友紀子 (会員) 


はじめに

 日本の歴史における「日本人は何処から来たのか」という問いかけは、いつも私の心の中にあります。
京都大学名誉教授の上田正昭氏は、日本列島への集団渡来のうねりを5つの画期で話されています。無論、それは中国大陸の動乱と係わり、敗れた氏族は命がけで海を渡り、新天地を求めて、日本列島に上陸しました。その場所は日本海沿岸の多くの地域に渡っており、高句麗の故地からの人々が新潟県や福井県の海岸沿いに上陸して、「高志国(こしのくに)」を建て、後の沼河比売(あなかわひめ)の伝説などを生み出し、記紀神話にて語られています。
 朝鮮半島での動乱により祖国を出て、対馬・壱岐の島づたいに九州へと辿りついた人々の中には、交易などで親しい関係にあった勢力を頼っての亡命もあったでしょう。その頃にそもそも日本という国は存在していません。あったとしても、それは、同族が造り上げた共同体を主体としたゆるやかな国で、「早い時期の渡来人(弥生人)の子孫のものであり、縄文人の子孫ではないと推定される。」(『犬から探る古代日本人の謎』田名部雄一著)と思われ、奈良時代の初期、九州の豊前(ぶぜん)国(現福岡県・大分県の一部)の戸籍台帳の大宝2年(702)の項では、93パーセントを占める波多氏及びその係累が記載され、八幡の漢字の訓読みを「やはた」とし、「や」は「多くの」、「はた」は「波多」氏で、八幡神は多くの波多氏の氏神であった、とされています。
 波多氏は「後になり、自分のルーツを中国へもって行き、秦の始皇帝のなにやらの子孫だと称するようになり「秦」の字が使われるようになった。」(『秦氏についての諸問題』大和岩雄著) と書かれています。
 大宝元年(701)、粟田朝臣真人(あわたのあそんまひと)が遣唐使として長安の都に行き、「日本」からの使者である、と告げた時に「日本」という国が認知されたのです。長きに渡って「多民族のゆりかご」であった日本列島に、律令国家が誕生したのは、奈良朝初期ですから。
 日本の伝統的な集落は、見上げる向こうに神が住む山があり、その近くを河が流れ、その恵みを受けて水田の開墾に適した土地に、広い道を通じての人の行き来があり、その中心地には春と秋に神を迎えて神祭をする社(やしろ)が鎮座する、そのすべてが揃うと「郷(さと)」と呼ばれます。
 中心となる社での祭祀は、その集落の共同体のつながりを強固にするのみでなく、豊な実りをもたらし、集団生活の営みを約束します。むやみに争うことをしない、お互いに「分」をわきまえて暮す知恵を持ちつつ、日本列島の温暖な気候と程よい湿地が豊かな民俗性を生み出し高めたことなどを、古代の那羅郷の成立に踏まえて、御園神社の歴史を見て行こうと思います。

那羅郷の成立と御園(みその)神社

 御園神社が鎮座するのは、八幡市東部の上奈良地区の集落東方で木津川堤防の南です。◆会報第55号より-05 御園神社①_f0300125_22154864.jpg参道の前を横切る道はかつての「奈良街道」で、この集落は古くは「那羅郷」と呼ばれていました。『八幡市誌』では「久世(くぜ)郡那羅郷」に比定されています。那羅郷の名は、『日本書紀』欽明天皇26年夏5月の条に「高麗人(略)山背国に置り。今の畝原(うはら)・奈羅・山村の高麗人の祖なり」の「奈羅」とあるのが初見です。古代の山城国の成立にとっての渡来人の功績は偉大で、◆会報第55号より-05 御園神社①_f0300125_2220583.jpg木津川沿いに住み着いた高麗人の集落は、平安時代の『三代実録』元慶6年(882)12月21日条には、久世郡内の栗前野・美豆野と並んで奈良野が従来からの狩猟禁止を重ねて禁じ、農業を妨げることのないようにとの勅が出されたことが記されています。
 『和名抄』には朝廷御用の菜園として、瓜(うり)・茄子(なす)・大根を栽培して献上していたとあります。今は、野菜の献上はなくなりましたが、この伝統の遺風は、御園神社の秋の例祭を「御園の青物祭(あおものさい)」ともいう別称として残っています。それは現在も地域の人々が「ずいき神輿」を奉納していることからも察しられます。この地が野菜の栽培に適した土壌であったので、古来より当時の朝廷と係わりを持ちますが、そこが木津川水上交通の要衝の地であったこともあり、日々とどけられる献上野菜は平城宮の河港である泉津(現木津川市木津)からは、馬の背に載せ替えられ、奈良坂を越え運ばれて行きました。
 那羅郷の成立に深く関わった木津川は、またの名を「泉川(いずみがわ)」とも言い、崇神天皇の時代に起った「建波迹安王(たけはにやすおう)の反逆」時の記述にその河名の由来が語られています。
 建波迹安王は、孝元天皇の皇子で、母は河内青玉繫(かわちのあおたまかけ)の娘・埴安媛です。崇神天皇の異母兄になります。その妻は吾田姫(あたひめ)といい、その名から九州の隼人との関係も見え隠れしています。その叛乱は、南山城地域一帯に及びました。そして、その決戦地が和訶羅河(わからがわ=木津川)で川を挟んで「挑みあった」とあり、その結果「号(なづ)けて伊杼美(いどみ)と謂(い)ふ」と記されて終ります。その頃の木津川の呼称が「和訶羅」であったことが判り、『日本書紀』では「輪韓」の字が用いられていて、その字より朝鮮半島との関わりを感じさせられます。「大きく湾曲した河」の意味です。
 南山城の地に居住していた古代氏族の動向により、あっけなく叛乱は収束したようです。その勝利で、大和政権は南山城の地を押さえることに成功したと思われます。その時、那羅郷の人々はどのように対処したのでしょうか。大勢を見て一時的にせよ、朝廷側に付いたのかもしれませんが、その少し先に、有智(うち)郷(現内里の集落)があり、隼人族の祖先神といわれている彦火々出見命(ひこほほでのみこと)を祀る内神社が鎮座しているのは、歴史的にみると、とても面白いと思います。
 日本的な集落の姿を那羅郷に当てはめると、男山丘陵・木津川・水田地帯・奈良街道・御園神社となりますが、末社として、「木(=貴)船」社が祀られていることがとても重要だと思えます。
 平成19年に京都府指定文化財に御園神社の本殿が指定されて、同23年に本殿の彩色復元が行われた時に、貴船社も同時に彩色をほどこされているのです。末社にもいろいろあって、「地主神はその土地をもともと領有してきた神である。ところが、その土地に中央の大神が祀られるようになると、地主神はその座を大神に譲り、末社として仕えるようになった場合もある。」(「日本の神道文化研究会主宰 三橋健氏」)といわれています。那羅郷が成立してしばらくして祀られた社の神は、木船社であったのかも知れません。
 高麗からの渡来人の里であった頃は、無論、その人たちが奉祭する神が祀られていたことでしょう。そして、その地に移り住んできた賀茂氏の一族が支配するようになり、京都北部に栄えた賀茂氏の氏神である   賀茂社の祭神の母神・玉依姫(たまよりひめ)である木船の神が祀られるようになったのかも。ちなみに、玉依姫とは、玉は霊(たま)、「依」は依り付く、神霊が依り付く巫女王(みこおう)の意味を持つ名であるとされています。
 その神の祭祀を行う賀茂氏も謎の氏族といわれ、出自がはっきりしません。『新撰姓氏録』によれば、賀茂川上流に移る直前まで、山城の国の岡田の賀茂(木津川市加茂町)に居住していたといい、そこには岡田鴨神社が鎮座しています。さらに、それ以前は大和の葛城地方に本貫地を持っていたとされ、そこで葛城襲津彦が新羅から連れてきた秦氏と接点を持ったのでは、といわれています。
 また、秦氏は婚姻関係で藤原氏とも繋がっていて、桓武天皇の2度に渉る遷都を影で支えたのは秦氏であるとされ、長岡京の造都を推進した藤原種継(たねつぐ)の母は秦氏の娘です。種継は藤原不比等(ふびと)の三男宇合(うまかい)の孫にあたり、桓武擁立に尽くした藤原百川(ももかわ)の甥です。式家に恩顧を感じた桓武天皇の随一の寵臣でしたが、暗殺されます。その死によって長岡京は廃され、平安京へと都が遷って行くのです。長岡京の守護を兼ねて、御園神社に春日三神が祀られますが、桓武天皇の勅命を受けた藤原継縄(つぐなわ)には、祭神の勧請についてはその胸に期すところがあったように思われます。
  (京都産業大学日本文化研究所上席特別客員研究員)
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by y-rekitan | 2014-10-28 08:00
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