◆会報第56号より-02 中世大山崎

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《講 演 会》
中世大山崎の商業活動について

2014年11月  松花堂美術館講習室にて

福島克彦 (大山崎町歴史資料館館長)

 11月12日(木)、松花堂美術館を会場に、11月例会「標題の講演と交流の集い」が開かれました。歴史教育論をふくむ軽妙洒脱なお話に引き込まれる2時間半でした。そして、史料をもとに具体的にお話され、事実は小説より奇なりを実感する講演会でした。当日配布されたレジュメをもとに、その概要を紹介しますが、今回はできるだけ臨場感を持たせた紹介を試みたいと思います。参加者は33名。

はじめに

 大山崎油売りをめぐって二つの誤解があります。
 その一つは、大山崎には中世より「油座」があったというものです。ところが、鎌倉・室町時代には「油座」という表記がありません。油売りは大山崎神人という身分によって、その特権が守られていたのです。ちなみに、「油座」は豊臣秀吉が初めてそれを使用したことが文書で残っています。
 では「神人」とは何か。大山崎の神人は、離宮八幡宮の神人であるとともに、石清水八幡宮の神人でもありました。油の生産・販売を担っていた人たちですが、たんなる商人ではありません。石清水八幡宮なり離宮八幡宮の神に仕えるという理由で特権を要求する。そして特権を守るために神社に立てこもって(閉籠)、流血も辞さない。神社の側にとってそのような穢れは断じて許されない。それを見越して自らの要求を通そうとするのですから、したたかな存在でもあります。
 大山崎の神人は、名字を名乗り、秦や源、菅原の姓(カバネ)を持つなど身分は高いのが一般的です。そして、離宮八幡の神人であると同時に酒解神社の神職を兼ね、荘園の現地経営にも携わる。また、守護大名の被官でもあるといったように身分を使い分け、自らの暮らしを高めていきました。f0300125_1332586.jpg
 もう一つの誤解は、斎藤道三が大山崎の油売りであったというものです。司馬遼太郎の『国盗り物語』の影響で広がったようですが、岐阜県市編さんにかかる『春日文書』によれば、斎藤道三は美濃出身の武士で、父親が京都出身であったということです。あるいは、道三の父親が商人として油販売に関わっていたのかもしれません。
 以下、油売りに関する史料から、鎌倉・室町時代の大山崎の商業について考えてみたいと思います。

1 『離宮八幡宮文書』という史料

 貞観元年(859)に行教が国家鎮護のため、八幡神を山崎の地に勧請するということで成立したのが離宮八幡宮です。その後、男山にも遷座され石清水八幡宮になりました。それらの記事は『御遷座記録』などに記載されています。
 さて、『離宮八幡宮文書』という史料があります。現在、離宮八幡宮に所蔵されている中世、近世、近代の文書類で、大半が重要文化財です。貞応元年(1222)12月「美濃国司下文」が最古のもので、この頃から文書を収蔵したようです。その数320点強。中世の油販売や祭礼、都市行政、禁制などが収録されており、特に商業史料としては第一級の史料群といえます。

2 油販売の特権を示す史料

 『離宮八幡宮文書』の中で、まず油販売の特権を示す史料を紹介してみましょう。

(1)関所などの通行料を免除する文書
 中世は、交通網、ことに水路におびただしい数の関が設けられ、舟運にたずさわる者は関を通過するたびに関料や津料を支払わされていました。その場で荷を積み上げたり、積み変えたりする場所賃という意味合いもあり、支払わざるを得ない仕組みがあったのです。しかし、舟運関係者としてはできるだけ払わなくて通過したいものです。そこで、権力者の力をもって、通行料を免除する方策を考えたのです。具体的に史料を見てみましょう。

【史料1】足利義詮袖判御教書
   『離宮八幡宮文書』文和元年(1352)
        (足利義詮)
        (花押)

 八幡宮大山崎神人等申す、内殿御燈油荏胡麻(えごま)等諸関津料のこと、
右摂津国兵庫嶋、渡邊、禁野、鵜殿、楠葉、大津、坂本等関務輩、先例に背き、違乱をなす云々、はなはだしかるべからず、早く代々勅裁ならびに正和三年武家御教書に任せ、固く停止せしめるべくの状、下知件の如し、
  文和元年十一月十五日
 「袖判」とは、文書の袖(右側空白部)に花押(サイン)を書いたものです。足利義詮は尊氏の嫡男で室町幕府第2代の将軍です。「八幡宮大山崎神人」は離宮八幡宮の神人であるとともに、石清水八幡宮の神人でもあります。「内殿」は石清水八幡宮を指します。
意訳すれば、以下のようになります。
「石清水八幡宮に献上する御燈油をお運び申し上げるのに、兵庫嶋(神戸市)や渡邊(大阪市)、禁野(枚方市)、鵜殿(高槻市)などの関所の連中が先例に背いて関料・津料を払えといっている。これはけしからんことである。代々の勅裁(天皇からの命)、あるいは正和三年の武家御教書(鎌倉将軍の命)の通り、そういうことは固く停止(ちょうじ)すべきものである」
 ここでおもしろいのは、室町幕府自らの命令であることをストレートにいわず、先例=勅裁(天皇の命令)や鎌倉幕府の命令を持ちだし、そのことで権威づけているということです。室町幕府が出来て間もないころの事情を反映しているのかもしれません。

(2)他の商売敵(かたき)となる商業活動を抑圧するようしむける文書

【史料2】赤松円心書状『離宮八幡宮文書』 
八幡宮大山崎神人等申す、播磨国荏胡麻商買のこと、去んぬる年その沙汰あり、書下をなすのところ、
これを叙用せず、剰(あまつさ)え買い置くところの荏胡麻等、中津川方百姓権守左近二郎・左近三郎以下のため、抑留せられ云々、はなはだもってその謂れなし、所詮抑え置くところの商買物においては、これを返付し、彼百姓等に至っては、不日(ふじつ)召しまいらせらるべきなり、さらに緩怠(かんたい)あるべからず候か、恐々謹言
            (赤松)
 正月卅日       円心(花押)
 (赤松則祐)
 赤松帥律師御房
 意訳すれば以下のようになります。
「八幡宮大山崎の神人が次のようにいっている。播磨国で荏胡麻の商売については、以前文書でもって命じたにもかかわらずそれに従わず、あろうことか、大山崎の神人たちが買い置いたものを中津川の百姓である左近二郎・左近三郎が抑留(不法に自分の手元に置く)という。はなはだもって道理に合わない。これは大山崎の神人たちの商売用の品々なのだからこれを返却させ、これらの百姓達はすぐに召し捕っていただきたい。なおざりにするべきではない。」
 ここでおもしろいのは、差出人が赤松円心で、受け取る側が円心の息子の則祐(のりすけ)であるということです。
 どういうことかといえば、赤松円心は室町幕府の重臣で京都にいることが多かった。だから大山崎の油神人が京都に出向いて幕府の重役である円心に泣きついたわけです。あなたの御子息が統治している播磨の百姓たちが、以前より、荏胡麻を買い取れるのは大山崎の神人だけであるという決まりがあるのにもかかわらずそれを無視して勝手に商いをしている。それだけでなく、私たちの買い取った荏胡麻を横取りしているのです。なんとかして下さい。」 
 訴えられた円心は、(賄賂をもらっていることもあって)大山崎神人のいうことを聞かないといけない。そこで、息子に大山崎の商売敵(しょうばいがたき)を取り締まれと命じたのです。
 もう一つおもしろいのは、これは地方の方々に対して禁止命令がでることの裏返しなのですが、播磨の中津川では、こうした取締りを破って荏胡麻を自由に販売しようとしたことです。禁止されたことをあえて犯す者がいることからたびたび相論が起きる。これは今も昔も同じといってよいでしょう。
 大山崎の神人の活動範囲および荏胡麻集積港があるのは、肥後・伊予・阿波・備前・播磨・摂津・河内・和泉・山城・近江・尾張・美濃と西日本全域に広がっています。ということは、それらの地域で大山崎の油神人と在郷商人とで荏胡麻の販売をめぐっての争いが繰り広げられていたということです。

(3) 大山崎の日使頭祭(ひのとうさい)の役をやってもらうかわりに油販売の特権を譲渡する。

【史料3】室町幕府御教書『離宮八幡宮文書』 応永21年(1414)  
 石清水八幡宮大山崎神人等申す、当宮四月三日神事日使頭役(ひのとうやく)のこと、油商売につき、成吉入道子息を差上せしめるのところ、難渋うんぬん、何様のことか、神事違乱におよぶの上は、厳密にその沙汰いたすべきの旨、あい触れらるべし、もしまた子細あらば、注申せられるべくの由、仰せくださるるところなり、よって執達件のごとし、
                  (細川満元)
  応永廿一年八月九日       沙弥(花押)
  (義範)
  一色兵部少輔殿
 要約すると、 
離宮八幡宮の四月三日の神事である日使頭(ひのとう)祭(さい)を経済的に負担する役を勤める頭役は、油商売を許す引き換えに、成吉入道の子息に指名したのに、しぶっていると聞く。何様のつもりなのか。しっかり勤めるよう命じなさい(以下略)というものです。
「成吉入道」というのは、丹後の武家です。
 ここでいえることは、離宮八幡の大事なお祭りを大山崎から遠く離れた丹後の者も担っているということと、離宮八幡の祭事を引受ける(経済的なスポンサーになる)かわりに、油販売の特権を与えるというギブアンドテイクの関係が見えてくるということです。
 以上三点の史料を吟味することで、次のことがいえます。
大山崎の神人は、朝廷や幕府と強い関わりを持ちながら、彼らの権威にすがって自己主張をしている。
こうした争論が続いている、ということは地方の反発も大きかったということを示している。
大山崎だけでなく、荏胡麻の販売をめぐって地方の動向もわかってくる。地域社会の商業の発達が見えてくる。

3 油をつくる、運ぶ、売る

 ここで、視点をかえて絵画資料から油売りの実態を見てみましょう。 図1から図4は、油神人のもとで働く油売りの姿を当時描かれた絵巻物などから抽出したものです。
どんな共通点があるでしょうか。以下、子ども達との授業を再現するように会場の参加者とやりとりをしました。
「天秤をかついでいるね。おけには何がはいっているの?」
「油だろうな」
「ひしゃくをいくつも持っているのは何故?」
「油を量るのに使うんじゃないかなあ」
「竿や腰に何かぶらさげている。何だろう」
「・・・・・」
「どうも火打石を持っているらしい。油かどうかを疑う客もいたでしょうから、その場で火をつけて証明したのでしょうね。それに現金を扱うのだから財布も持っていたでしょう。」(※)

4 油をつくる人々

【史料4】田端兵衛他請文『松田文書』寛正5年(1464)
丹波国小倉、栗作木本請文のこと、
      中村保人
  壱所    栗作道圓
      中村保人
  壱所    栗作岡源次郎兵衛
      舟橋保人
  壱所    栗作田端兵衛
      中村保人  左兵衛
  壱所    少蔵  道シュン
右此外、新木を立て申すことあるべからず候、次ニ京都へ油ヲ入て売り申すことあるべからず候、もし此旨に背き候わば、日本国中神罰各(おのおの)に罷りこうむるべき者也、殊ニ神方(かみかた)ヲ放し申されるべく候、仍請状件(よってうけじょうくだん)のごとし、
               田畑(略押)
 寛正伍年八月十九日       兵衛 ◯
               栗作
                 道圓 ◯
 上記の史料は、最近みつかったものです。「栗作」とは地名で、もともと丹波のこの地は朝廷に油や栗を奉納する土地であったのです。「木本」とは、油を作る人々や組織のこと。要約すると、
「丹波の小倉、栗作の油を作る者たち(道圓・岡源次郎兵衛・田畑兵衛・少蔵道シュン)の外の者たちが、新たに油をつくることはしない。また、京都に行って油を売ることもしない。そんなことをすれば日本国中の神罰をこうむることになる。以上のことを誓約します。」
ということです。
 ここで、おもしろいのは、「中村(なかむら)保人(ほにん)」「船橋保人」などと書かれていることです。中村保や舟橋保は、実は離宮八幡宮近くの大山崎の地名を指しています。つまり、道圓以下岡源次郎兵衛や田畑兵衛たちは、大山崎の油神人の傘下に収まり、その支配を受けながら油を作っていることを示している史料なのです。
 これを隷属とみなすか否かは意見が別れるところでしょう。都につながる大山崎の油神人と関係を持つことで、丹波の一地方で油生産に関わって暮らしを立てる人々がいたということです。これらの人々がやがて地方の商業を担う中心になることは大いに考えられることです。

 最後に、福島さんは、中世商業の教材化など、関西は歴史教育と地域史の連携が十分でなかったことを反省し、生涯学習や学校教育との連携を進めたいと述べ、今回この講演を引き受けることで、畿内と地方との関わり調べるよい契機となったこと、「事実は小説よりも奇なり」の格言通り、みなさんも史料から具体的な地域の歴史の姿を学びましょうと呼びかけてお話を結ました。  
                              (文責=土井三郎)               
(※)油売りの絵の時には出なかったのですが、講演の後、参加者の間で箒(ほうき)のようなものは何かということが話題になりました。福島さんの軽妙な発問に誘導されたというべきでしょう。ちなみに、『日本国語大辞典』で「油売り」をひくと上記のような絵が紹介され、「油のついた手をふく打ちわらを持っている」と解説されていました。参考までに(編集担当より)

一口感想より
大山崎の商業活動が油神人を中心にして発展していく様子を拝聴いたしました。耳新しい内容で非常に興味をもって聞かせていただきました。と同時に、講師の福島館長が、対象の方々にどう知っていただくか、理解してもらえるかを常に意識して活動されている姿に感動しました。(小林喜美代)
最近の教育現場で、何を教えるかよりどう教えるかばかりが強調されている現状を憂う趣旨の発言は、長年、教職に身を置いていた者として痛感されるものです。教師が歴史を好きにならないで、子どもが好きになる筈がない。わかるから、謎が解けるから面白い。そんな歴史教育を学校現場で追及してほしいし、今現場を離れ生涯学習の場にいて、皆とそれをわかちあいたいと思っている今日この頃です。(土井三郎)

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by y-rekitan | 2014-11-28 11:00 | Comments(0)
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