◆会報第57号より-06 八幡宮Q&A⑧

シリーズ「石清水八幡宮の歴史Q&A」・・・⑧
第8回(最終回)


Q: 明治になって神仏分離がなされた際、田中家以外の祠官家はどうなりましたか。特に菊大路家(善法寺家)にかかわることがあればどんな小さなことでもいいので教えてください。

A: 明治になって祠官家といわれる家々は、一たん祠官という立場を離れ、還俗した上で改めて奉職するという形をとりました。善法寺家では幕末期の当主であった善法寺弘清という方が菊大路纓清(きくおおじふさきよ)と名を変え、男山八幡宮の禰宜となり(明治5~10年)、退職後は八幡町の町長に任ぜられるなど、地元の名士として活躍されたと聞いています。新善法寺澄清という方は、維新後に南武胤(みなみたけたね)と改名し、今は林姓の方が後を継いでおられます。
また田中家では、幕末期の検校であった田中昇清という方が、維新後に田中有年と名を改め、菊大路纓清氏と入れ替わるようにして明治11年から主典として奉職されました(明治19年死去)。そこへ田中家の親戚筋である大阪天満宮の神官・滋岡家から養子に入られたのが、現宮司の祖父にあたる滋岡豊丸、後の田中俊清氏です。その後、副島知一宮司の時代(昭和12~32年)が間に挟まりますが、以後は文清→弘清→恆清と、代々田中家の系統が宮司職を継いでいるのはご承知の通りです。田中家の菩提寺は八幡源氏垣外にある律宗の法園寺で、その近くに田中家代々の墓地があります。一方、菊大路纓清の後には基清という方がおられ、石清水八幡宮の常傭(後に雇)として職員名簿に記載があります(大正9~13年)が、それ以後は当宮の公的な記録から見えなくなります。聞くところでは、戦時中に菊大路基清氏は消息不明となり、後嗣もおられなかったため、ついに絶家となってしまったとのことです。但し、菩提寺の善法律寺(律宗)には、善法寺家(菊大路家)代々のお墓があり、同寺の関係者にお聞きしたところでは、今も親戚筋の方が、時おり大阪の方からお参りに来られるとの由です。
(回答者:石清水八幡宮禰宜、西中道氏) 


この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

by y-rekitan | 2014-12-28 07:00 | Comments(0)
<< ◆会報第57号より-05 御園... ◆会報第57号より-end >>