◆会報第57号より-04 わが町八幡

 《小特集》 
わ が ま ち 八 幡


日頃感じている八幡の歴史や文化に対する思いを何人かの方に書いてもらいました。

他所からみた八幡の魅力
戸崎 進(会員)

 「他所からみた八幡の魅力」と聞かれて、そんな簡単にあるもんじゃーありませんよネ。それはいつも何となく気に入って八幡へ遊びに行っている具合ですからね。
 強いて言えば矢張り一番は人や仲間が気に入っているのでしょうか。そして誘われる?ままに八幡についての話を伺いに寄せて貰っている間に情報に触れているという事なのでしょうか。なにも偉そうに言うことでは無く、いつもですが話の尻から忘れてしまっている始末ですから情けないことです。何かご質問は?と聞かれますがアレッと驚くほど覚えていませんからネ。自慢じゃありません。それでも自分勝手なことだけは僅かですが残っていることもあります。この歳になると余程の感動やショックを受けた時だけなんでしょうネ覚えているのは・・・。
 そんな不自由な私が感じる「八幡の魅力」は、よく紹介される『日本永代蔵第六巻第四章身代かたまる淀川のうるし』をはじめ井原西鶴作品に登場する八幡関係のことです。と言っても専門家ではないので限られた範囲のことですよ。ごく最近に「崩し字」を忘れないために目を通した『好色一代男はずかしながら文(ふみ)ことば』の中にも「瀧本流」と言う言葉が出てきます。このように広く読まれた版本にも触れられるということは、その当時は八幡と言う所を誰でも知っていたということなのでしょう。交通の要所、京との位置関係それに関わる商いと文化人の交流など諸々が作用していたのでしようネ。勿論、八幡(はちまん)さんの存在はその環境には切っても切り離せない存在なんでしょう。まだまだミステリーがあるでしょう。
 八幡とは?他都市とは違う、独自な魅力を追及して欲しいと願っています。
八幡の魅力・八幡の自慢 「八幡ブランド」を紹介します

 自然では…
① 三川合流② 男山(里山)③ 流れ橋④ 八幡八景
 建造物・庭園では…
① 石清水八幡宮(航海記念塔-五輪) ② 松花堂庭園(茶室・美術館)③ 正法寺④ 円福寺⑤ 伊佐家住宅⑥ 村の社寺多数
 祭りでは…
① 石清水祭② 太鼓祭③ ずいき祭④ 円福寺万人講
 特産品では…
① ナシ② タケノコ③ 竹筆④ 農産物(ふれあい市) ⑤ 宇治茶
 施設では…
① 文化ホ-ル② 生涯学習センタ- ③ ふる里学習館④ スポ-ツ公園⑤ リクリエ-ションセンタ-⑥ 流れ橋交流センタ-(四季彩館)

八幡の歴史の面白い逸話
竹内 勇(会員)

 都の守り神として宇佐八幡宮より勧請して創建された「石清水八幡宮」を筆頭に多数の名所・旧跡が残されている八幡市ですが、「洞ヶ峠」と「正法寺」の逸話をご紹介します。
 石清水八幡宮の建つ男山から続く男山丘陵の端、南山の洞ヶ峠は、摂津・河内・山城を見下ろせる要衝の地ですが、明智光秀と羽柴秀吉が山﨑の合戦で対峙したとき、筒井順慶は双方から加勢を依頼されました。
 大和郡山城主筒井順慶が戦況の有利な方に味方すべく「洞ヶ峠を決め込んだ日和見主義の順慶」伝説で有名です。しかし、光秀からの助勢の要請を断り、郡山城からは出陣せず、秀吉に味方し国を守ったと地元では言われています。
 大和信貴山城の松永久秀の台頭に苦慮していた順慶は、織田信長の支援で久秀を打ち破り大和一国を授かり大和郡山城主となりました。故に、光秀に加勢するとは思われませんが、先遣隊を出していたのであれば、戦国の世ですから強い方に味方するとの考えはあったかもしれません。
 梟雄松永久秀は、信長も一目おく優れものといわれ、四層の信貴山城は安土城のモデルと伝わります。信長は郡山城を除く大和の諸城を全て破壊し尽くしました。そんな信長を順慶が悪く思う筈はありません。そういう意味では、主君信長を討った明智光秀を順慶は恨みに思っていたかもしれません。
 現在の洞ヶ峠には、萱葺の茶屋(竹林庵)が健在で美味しいいなかぼたもちが名物となっています。南山洞ヶ峠から東へ美濃山丘陵が続きますが、山手幹線が開通して大きく開発され発展しています。
 正法寺と徳川家康との関係は、正法寺・志水宗清の娘亀女が息子の正信をタライに入れて行水させているとき徳川家康の一行が通りかかり、息子をタライに入れたまま運び去った力持ちの亀女を家康が見初めて側室に迎えられたとのことです。
 慶長5年(1600)に五郎太が生まれ尾張藩主義直となりました。そこで宗清も八幡宮の神職を辞し亀女の先夫の子竹越正信とともに尾張藩に仕えました。また、正法寺・八幡宮の隆盛には、尾張藩が庇護したことが大きいようです。
 相応院の千両の寄進で、寛永7年(1630)に七堂伽藍が整いましたが、現在、本堂・大方丈・唐門と「絹本着色釈迦如来像」が重要文化財に指定されています。
 亀女(相応院)を見初めた家康の一行は東高野海道を何処に向かっていたのでしょうか。秀吉全盛時期の家康の行動は大変興味深いことです。又、正法寺は東高野街道とどの様に接していたのでしょうか。現在の正法寺の入り口は東高野街道からかなり奥にあります。
 家康は、大坂から京街道を上り、東高野街道を男山山上の「豊蔵坊」に向かっていたのではないでしょうか。「豊蔵坊」は徳川家康が三河岡崎城にいたときからの祈祷所です。そして、源氏の氏神である八幡神を参詣し、京から駿府へ帰ったのではと想像の翼を広げてみました。
 どこの街にも歴史があり、現代の私達の生活に繋がっています。子供から大人まで少し歴史に興味を持ってもらい話し合える場ができればいいなと思います。地域の中での人の繋がりが、現在抱えている社会問題の解決の糸口になるのではと確信しています。(京都府民児協会報に出稿したものを一部修正して転載させていただきました)

わがまち八幡
滝山 光昌(会員)

 昭和46年枚方市中小企業団地にあった製薬会社に就職し、すぐ隣が綴喜郡八幡町であることを初めて知った。その時は男山団地が開発中で、樟葉駅は無人駅だった。入社の翌年頃、くずはモール街が完成し、会社の寮は企業団地の中にあり、その管理人の子供を連れて歩いて見にいったことを覚えている。
 結婚して、暫らく箕面に住んだ後、昭和50年に男山団地に移住し、八幡の町民になった。昭和52年11月1日の八幡市制への施行は、偶然にも次男の誕生と同じ日となった。当時は男山団地も子供達がいっぱいで小学校も第五小学校まであった。少年野球チームも第五小学区は2チームでグランドを使っていた。
 現在、学校数は半減し、自宅近く(橋本) でも、子供の声はほとんど聞こえてこない。寂しい限りである。
 石清水八幡宮は、次男の御宮参りが初めての内殿参拝だった。御本殿の近隣には、松花堂跡、滝の坊跡、泉坊跡などの遺跡や石清水水社があり、適当な散策コースであった。残念ながら、説明板は薄汚れていて、清水社の井戸水は飲料に耐えるほどの水質ではないようである。
 円福寺は、男山団地時代、子供の乳母車を押して境内へ入ったところ、修業中は入山禁止とのことで追い出されたのを覚えている。最近、報恩講の際に、堂内の仏様を参拝することができ、鐘の音も聴くことができた。禅宗の寺院らしく威厳が感じられた。今後、八幡の文化財が適切に保存され、史料が活用されるよう願う。
by y-rekitan | 2014-12-28 09:00 | Comments(0)
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