◆会報第57号より-03 中村家住宅

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中村家住宅
国登録有形文化財指定
記念講演会の報告

2014年11月  安居橋の袂の大歌堂中村邸にて
( 寄稿 中村富夫 )


 11月9日(日)、午後2時より安居橋の袂の大歌堂中村邸において、国登録有形文化財指定を記念して、講演会を開催させて頂きました。
 講演内容は下記の通りです。
講演Ⅰ 「大広間の絵画(渡邊祥英作)の解説と鑑賞」
          講師 摂南大学 岩間香教授
講演Ⅱ 「中村家住宅の今日までの保存修理・補修経過報告」
          中村恵子(中村家住宅当主)
講演Ⅱ 「中村家住宅の建築的特徴と最近の保存修理工事報告」
          講師 (株)KOGA建築設計室 古賀芳智室長
 34名のご出席をいただき、文化財としてのみならず、八幡の歴史との関わりや景観保存と多岐にわたり興味関心を持っていただけたことに、この記念講演会開催の意義があったのではないかと考えています。
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*** 国登録有形文化財とは ***

 文化庁のパンフによると「平成8年に文化財保護法が改正され、新たに定められた文化財です。従来の文化財指定は、主に近世以前の建造物を中心に築年代の古いものから順次進められていましたが、多種多様かつ多量に残る近代の建築物は、社会的評価を受ける間もなく、近年の土地開発等により取り壊し等の危機を迎えていました。これを受け、一定の価値のある建造物を広く保護し、近代の建築物の有効かつ適切な保護と活用を目的として、登録制度は整備されました。緩やかな規制と保護措置を講じ、所有者の意思を尊重しつつ、保護の網をかける仕組みになっています。
登録基準としては、原則として建築後5 0年を経過したもののうち、

 ① 国土の歴史的景観に寄与しているもの
 ② 造形の模範になっているもの
 ③ 再現することが容易でないもの

の条件に合致するもの」とあります。
 中村家住宅は平成24年8月に登録されました。京都府内には現在449件が登録されています。

*** 中村家大広間の絵画(渡邊祥英作)について ***
(岩間香教授)

◎ 渡邊祥英の画系
 大正13年版の「現代書画家名鑑」によれば、渡邊熊治郎52歳大阪東区内淡路町二丁目渡邊祥益円山派と書かれています。昭和9年の「大日本書画名家大鑑」によれば、
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という画系になります。
祥英は父祥益に、円山派から派生した四条派を学ぶ、とも書かれています。祥英の作品は、一般の美術館にはないのですが、祥益の作品はネット上にいくつか紹介されています。また、同門の兄弟弟子にあたる日本画家上島鳳山や西洋画に転向した小出楢重の作品は高い評価を受けています。

◎ 大広間に残された襖絵「春丘図」を読み解く
 大広間の襖絵には、すみれ、レンゲ、つくし、タンポポの春の草花が描かれ、緑青をふんだんに使って描かれた丘の上には、子松(稚松)が数本描かれています。どうしてこの絵が描かれたのでしょうか。
この絵から連想されるのは「子(ね)の日の遊び」という習わしです。
「平安時代、正月初めの子(ね)の日に、宮廷では郊野に出て小松をとる習わしがあった。松は霜雪にもめげず、千年を経る木である。そこで松を引き、千代を祝ってそのあとで歌宴を張った。春のはじめの優雅な野遊びであった。」
 この襖絵が描かれた経緯はわかりませんが、この建物になぜこの絵があるか、その手がかりは歌に関係があるのではないか。建仁元年12月8日に催された有名な石清水社歌合「社頭松」が思い浮かびます。その中に、藤原定家の子為家作「男山今日の子の日の松にこそ君が千とせのためしをもひけ」と詠まれています。この襖絵が「社頭松」を意識して作られたかどうかは、今の段階ではペンディングです。
もうひとつ、興味深い事があります。襖絵がこの建物の東側に描かれているということです。伝統的な空間にある障壁画は、東側に描かれることがしばしばあります。現在、私の研究課題として調査中の京都御所にある清涼殿には、東側に春の風景が描かれています。
 では、清涼殿の東側にはどんな春の風景が描かれているかというと、作られた当時の絵はありませんが、その下絵が残されていて、そこには「小松引き」の風景が描かれています。同様に金刀比羅宮奥書院においても、東側の部屋に小松の絵が描かれています。
 この建物の襖絵に「小松図」を描かせた経緯はわかりませんので、ここでは指摘するに止めたいと思います。

◎ 上段の間の掛け軸「鯉図」を読み解く
 次に、床の間には巨大な鯉の掛け軸が掛けられています。一般の家では掛けることができない大きな掛け軸です。このような大きな画面におさめるには、相当な力量が必要です。円山派や四条派は好んで鯉の絵を描いています。円山応挙も鯉の作品を多く残しています。
 では、祥英はなぜ鯉の画材を描いたのでしょうか。八幡の皆様にはよくご存じのように、石清水八幡宮の放生会では、魚鳥を放し、天長地久・天下泰平を祈願する祭りが行われます。まさにこの祭りの時に、この掛け軸を飾ったものと思われます。お祭りの時には、掛け軸や屏風を飾る習慣があります。祇園祭の宵山の時の屏風祭が有名です。
 では、なぜこんな大きな掛け軸を描いたのでしょうか。長沢芦雪作の「白象黒牛図屏風」を見ると、巨大な白象と黒牛が描かれています。それぞれ普賢菩薩、天神の乗るり物動物であるので、祭りや儀式を意識して描かれた可能性がうかがえます。巨大な屏風を見せて、鑑賞者を驚かせることを狙ったのではないでしょうか。かつて大阪天神祭でも、家にある自慢の屏風を競って家の入口に飾って見せていました。上段の間に飾られた「鯉図」にも、そんな狙いがあったのではないでしょうか。

◎ 大広間全体がハレ
 尼野氏の別邸は非日常的な特別な空間です。折上げ格天井や上段の間といった造りの中で、襖絵には新春のイメージを描き、ハレの舞台を演出したものと考えられます。そして「石清水八幡」と「中村家の建物」と「2つの絵」を一体としてこの特別な空間は成り立っているのです。

*** 大正時代の数寄屋風書院建築大歌堂 ***
(古賀芳智室長)

 保存修理の設計管理を担当していただきました古賀様より、この建物の建築的特徴と保存修理工事報告をしていただきました。
「大阪道頓堀五座のひとつである弁天座の座主であった尼野貴之氏が大正6年頃から営んだ別邸のひとつです。大広間、西の間、旧主屋、上の蔵、門などで構成されますが、軸組等を詳細に見ていくと建築年代が同一でないことがわかりました。現在に至る経緯はまだ明確にできませんが、上の蔵に大正6年の棟札がかかっており、全体の意匠から見て大正初期から後期にかけて整備されたと考えられます。
大広間は吹寄せ折上格天井に上段と書院の間を備えた格式の高い造りで、男山を借景として、庭側の柱を極力省略した大胆な構造を持つ近代和風建築です。小屋組は太い松丸太を井桁に組んで、束と母屋で屋根を形作る典型的な和小屋形式で、数本の桔木(ハネギ)が広縁を含む深い軒の出を支えています。実質的に大広間全体の屋根の荷重は、室内の柱4本で支持する構成となっていて、この大胆な構造により、眺望を満喫するための開放的な空間を見事に実現しています。
 今回の改修は、①瓦葺きを空葺き工法(葺土なし)に改め、建物自体の荷重を軽減、②部材の腐食及び梁材の亀裂等の改修・補強、③歪みの矯正と床組の更新、④玄関廻りの意匠修復と水回りの整備を中心に、大広間と主屋に限定して、意匠性の修復と保全、構造耐力の向上を目的に改修工事を行いました。」
私自身、今回初めて間近に建物の保存修理の現場を見ることができました。大広間全体を4本の柱で支え、よくも今に残っていることに驚嘆させられました。太い梁が使われている格天井裏側の複雑怪奇な小屋組も見ることができました。床下や屋根に断熱材を敷いてもらいましたので、外部からの寒気や暖気を防ぐことができ、水回りも整備されて、住環境は現代風に改善しました。

*** 繰り返された過去の修理・修復の歴史 ***
(中村恵子当主)

 私の家内の方から、先代達や自分自身の経験を踏まえて、半世紀にもわたり中村家住宅の修理修復を行ってきた経緯を報告しました。(以下は、文責中村恵子)

 過去における主な修理・修復経過報告は、簡潔にまとめますと下記の通りです。ただし、主なおおがかりな工事のみで、ごく小さな修理・修繕は含まれておりません。
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 まず、第1期ですが、約50年間空家状態であった別宅を一般住宅として住むために6年の歳月をかけて順次修理していきました。そして第2期では修理が不可能と判断されました東側半分の建物を取り壊しました。この1期、2期の修理・修復は私の母によって遂行されましたが、その修理・修復内容は、実に幼稚でお粗末でありました。建物全体を調査することなく、無計画な行き当たりばったりで、普段の生活が出来るようにするだけで、現状で使用できるところはなるべく残し、傷んでいる箇所を修理する、といったその場しのぎの作業を何十回と繰り返したため、つぎはぎ的な修理となってしまいました。建物にとって重要な構造上の知識を知らずに行ったためでありました。当時を思いおこせば、とても残念で無駄な出費もかさみ、「もう少しベターな方法はなかったのかな」と後悔な思いでありました。
 したがって、今回の第6期の修理・修復過程においては、過去の失敗を繰り返すことなく、専門家及び学識者による確固たる調査結果に基づいて、私も主人も建築学、環境工学の知識を学び、自ら積極的に保存修理を実施し、構造上も問題のない美しい景観をよみがえらせました。
 今後は日常的な管理や手入れを念頭に、専門家による調査結果をベースに入念な計画書を作成し、またどこから修理すべきかPriority Setting、優先順位を付けて行っていくべきであると考えています。
 また、文化庁発行のパンフレットには『登録有形文化財建造物は、活用を重んずる文化財です』と記載されていますように、その活用方法、利用方法は多種多様です。もちろん一般の個人住宅として普通に生活されているお宅も多くあります。身近なところでは京都府庁のHPから検索していただきますと、聞き覚えのある旅館(俵屋)、料亭(磯松、順正、鮒鶴)、カフェ(フランソワ喫茶店、ノアノア)、記念館(キンシ正宗)、迎賓館(松本酒造)、ギャラリ-(中小路家)として上手に活用されています。
 将来の展望としまして、この大歌堂中村邸を有効に活用しながら、地域の歴史的建造物として、地域に密着して、地域の皆様に愛されながら、後世に継承していきたいと考えています。

*** 文化財を保存・継承していくための今後の課題とは ***

 弁天座の座主であった尼野貴之氏が安居橋の袂に別邸を建てた経緯は明らかではないが、大広間に残された襖絵に描かれている春丘の子松や草花、「大歌堂」と書かれた扁額から推測すると、男山の東山麓を借景とするこの大広間で催される歌会等の催物への招へいが、最高のもてなしとなっていたと想像されます。尼野氏の交友関係について、また祥英の襖絵や鯉の掛軸が残されている経緯については今後の大きな課題で、八幡の歴史とも関係し、またひも解く謎として、今調査の真っただ中です。
 歴史的経過視点に立てば、この八幡地区は石清水八幡宮との関わりで形成されてきたわけで、平安時代後期から平成の現在に至るまでのその時代々の足跡が、この八幡地区に存在しているということです。
したがって、それらをどのように発見・保存・継承していくかは、今私たちに課せられた課題ではないでしょうか。

*** アンケートから ***

興味深いお話を聴け、楽しい時間を過ごさせて頂きました。襖絵一つにしても、深い意味が含まれている。鯉も円山派の重要な要素であるとわかり、これから絵を見たり襖を見たりする楽しみが増えました。
借景が見事。この借景を眺めて研究会ないし酒宴を開けば最高!
修理改修が重ねられ、大変だったと思います。これからも文化財として大切に守っていって頂きたいと思いました。貴重な講演を有難うございました。
八幡の景観を守っていって頂きたいと思います。
八幡に中村邸があることを今日知り、いつまでも残していきたいものと思いました。大変な苦労と思います。市民の一員として、いかに協力出来るかを私達も考えたいと思います。

 皆様方より貴重なご意見を頂き、ありがとうございました。 (寄稿者中村富夫)


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by y-rekitan | 2014-12-28 10:00 | Comments(0)
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