◆会報第58号より-02 松花堂庭園

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《講 演 会》
史跡 松花堂庭園の成立

2015年1月  八幡市文化センターにて
竹中 友里代 (京都府立大学)


 2015年1月18日午後1時半より、八幡市文化センター第3会議室において歴探1月例会が開かれました。演題と講師は上記の通り。例によって概略を紹介します。参加者は50名でした。

はじめに

 松花堂とは、男山の瀧本坊住職であった松花堂昭乗(1582~1639年、生年には異説あり)が晩年に泉坊に引退して建立した草庵茶室です。昭乗は、能書家として知られ、「寛永の三筆」と称されました。また、画や茶に通じる文化人でもありました。
 今日は、その草庵茶室「松花堂」と庭園について様々な角度から論じてみたいと思います。

1、描かれた松花堂と泉坊

 寛政11年(1799)に刊行された『都林泉名勝図会』に松花堂と泉坊全体を描いた絵図があります。
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絵師は、奥文鳴(1773~1813)で、円山応挙の十哲の一人といわれます。産科医奥道栄の嫡男で、道栄は石清水八幡宮に石燈籠を寄進したことで知られます。奥勝右衛門家は志水の社士で、安居脇頭神人で、家康から16石6斗3升の領知朱印状を頂いている名家です。道栄は円山応挙と親交があり、その子文鳴は早くに弟子入りしたようです。文鳴には、京の夕涼みを描いた作品が多く残されています。f0300125_16555189.jpg 石清水社士家出身で、京に生まれ、応挙と父の代から親しい文鳴には、祭礼や納涼に集まる群集は身近な画題であったのかもしれません。文鳴の描いた泉坊と松花堂全図を見てみましょう。 庭園の景観や植栽が描かれています。客が庭園を経て松花堂に至り、昭乗が迎える動きを2図に表現しています。文化人を受け入れる交流の場ということがわかるでしょう。この2図が、近代の松花堂庭園を造るときのイメージになったことはまちがいありません。
 例えば、上の図で、僧侶が指さしている方向は、南山城の山並みと川です。この景観は、近代の松花堂が東車塚古墳址に移設された当時の景観と、高度差こそ違うもののほぼ同様なものではなかったでしょうか。

2 明治維新後の変転

 明治維新となり、神仏分離によって男山の仏教施設は破却されました。社僧は還俗(げんぞく)させられ、神人(じにん)等は神事に携わることが免除され生活の基盤を失うことになったのです。困窮に襲われることになったのはいうまでもありません。そこで、男山山内の仏具・金具等が売却されることになりました。
 明治元年(1868)3月から入札会が行われ、古物商にひきとられることになりました。詳細は、『京都府史蹟名勝天然紀念物調査報告』(昭和7年発行)にあります。 
 そんな中、当時の瀧本坊と泉坊を兼務していた住職の乗道が明治7年(1874)、乞われるまま、山麓の大谷治麿(中山忠光の弟?明治天皇生母中山慶子の弟?系図には無い)なる人物に、松花堂と「客殿」を金六百両で譲渡しています。大谷氏は、放生川の買屋橋のたもとの邸内にそれを移築しました。その後、明治13年(1880)に、大谷氏が当地を去る際、佐々木氏が譲り受け、松花堂と書院を志水南端の西車塚古墳址(現在の八角堂が建っている位置)の前方部の東に移築しました。その後、明治24年(1891)に井上忠継氏に買い取られ、現在の八幡女郎花の地に移築されたのです。

3、井上忠継氏について

 井上忠継(伊三郎1835~1908)は、志水町井上市兵衛の長男で、30才で八幡の加藤フサと結婚し五男四女をもうけます。そして、二男西村芳次郎と三男今中伊兵衛が協力して松花堂庭園の整備にいそしむのです。芳次郎は、京都の生糸商の西村家の養子となったので西村姓を名乗り、弟の伊兵衛は八幡の城ノ内の畳屋今中家に養子に入ったので今中姓を名乗ります。一女はときで、この人は、裁縫の師匠として八幡では大変有名だったそうです。
 井上家は、志水町の豊かな商家で、寺子屋の経営でも知られています。そのことは、『八幡尋常小学校沿革史』にある次の文章でも明らかです。
 「本校創立以前二於ケル教育ハ所謂寺子屋又ハ私塾ト称スベキモノニシテ寺子屋ニハ志水ニ井上伊三郎氏アリ」 
 忠継は、能書家でもあり、明治39年(1906)に外孫の今中歌子に自ら習字手本を作成しています。また、国学者としての面もあり、松花堂泉坊書院の主室と次之間にある「腰高明障子」に、月次絵(つきなみえ・十二ヶ月王朝人物図=大和絵 土佐光武筆)を描かせたり、色紙型の和歌(古今・新古今集から12月の季節を選定)を自筆し、古典文学や和歌研究の成果(著作物は不明)を採り入れたりしています。
 松花堂の網代天井に、土佐光武(1844~1917)が描いた「日輪に鳳凰図」があることはみなさんご存知の通りですが、大和絵の絵師との親交が窺われます。
 一方で、八幡の戸長として、明治5年(1872)からの「壬申戸籍」に関わり、困窮した八幡宮の社務等との土地売買や種々紛争の仲裁役として活躍しています。そういう意味では、八幡の「名望家」でもあったのです。

4 建物移築と庭園の原型

 忠継は、明治30年(1897)に東車塚(今の女郎花)に土地を購入しました。そのことは、松花堂横の自然石(写真)f0300125_17151921.jpgに「明治三拾稔十二月九日之日古剣鏡出現之地」と刻まれていることでもわかります。東車塚前方部を地ならししているとき、地下2尺から鏡1面と剣1口が出土したというのです。忠継は、古墳を築山に活用しました。
 明治31年2月には、泉坊の書院が棟上げされています。棟札には、「明治31年2/21施主井上伊三郎、棟梁藤下常吉」とあります。主室と次の間の襖には、土佐光武筆の大和絵をあしらい、次の間から隣室に都路華香筆「楼閣山水図」を採用します。元の書院主室の狩野山雪筆山水図に加えて、移築後に襖絵等の装飾をほどこしたことは、忠継の趣向を反映したものといえそうです。
 草庵茶室松花堂の移築は明治33年(1900)のことです。そのことは、松花堂の宝珠瓦の銘に、「山下佐々木氏より明治33年買受、月の岡に移設、斎主井上伊三郎・西村芳次郎、棟梁藤下常二郎・補助吉村常吉・同吉川新太郎、瓦師吉田粂五郎」とあることでわかります。「月の岡」とは、東車塚古墳に他なりなりません。
 女郎花塚の整備についても、現在ある庭園内の女郎花塚脇にある石碑の碑文でわかります。
「明治40年春「女郎花蹟」石碑落成 発起人井上忠継、有志横浜茂木商店・京都西村商店」と刻まれているのです。「西村商店」とは、西村芳次郎のことです。

5 西村芳次郎の庭園整備と活用

 忠継の次男芳次郎は、京都の生糸商である西村嘉助商店へ養子に行きます。そして、京都製糸会社や山城製糸会社を設立し経営者として活躍します。生糸は、横浜からアメリカへ輸出されました。年間の売上は6万円といわれます。当時の女工の賃銀などから換算すれば10億円に相当します。
 松花堂を購入し、東車塚古墳の地とその周辺の土地を購入しようとすれば莫大な資金が必要です。そういう意味から、西村芳次郎の経済活動なしには松花堂庭園造成の事業は成り立たなかったともいえます。
 芳次郎は、城陽長池の梅村氏から植栽を購入して庭園の整備に尽力します。その一方、経済界の人脈を通じて茶の湯の盛行に努め、骨董・美術品収集にいそしむのです。
 ところが、明治37年に会社は倒産。その後、書院に住み、庭石や石灯籠を配置したり、松花堂関係の書画骨董を収集したりします。
 芳次郎は、草庵松花堂と書院を「文化サロン」として活用しました。そして、京・大坂の賓客をもてなすのです。
 明治42年(1909)には、三井財閥の大番頭といわれた益田孝(鈍翁)を招き、一行を松茸狩りでもてなしています。また、同氏に、松花堂墓所の整備を相談し泰勝寺の創建につながります。これには、「松花堂会」が大きな役割を果たします。
 松花堂会は、大正3年(1914)に発起され、以後毎年5月18日に茶会が開催されています。そんな中、浜田耕作や佐藤虎雄、井川定慶、重森三玲等の学者との交流を深めます。 
 昭和13年(1938)には、徳富蘇峰夫妻を松花堂庭園に招待し、同年12月には、益田鈍翁を主催者として松花堂三百回忌茶会を掃雲台で催しています。
 また、京都の織物商である三宅清次郎の史跡建碑事業に感銘をうけ、八幡地域への道しるべの建設を勧誘しています。三宅安兵衛の遺志を継ぐもので、その道しるべは、八幡地域で100基以上あります。
泉坊書院前の東車塚古墳址に三宅碑がありますが、そこには次の歌が刻まれています。
 「世を捨てし、身はすみわたれ月の岡 心にかかる雲もなかりけり 忠継」
 そこには、史跡や松花堂ゆかりの品を観光や地域振興に活用しようとする芳次郎の意思が表れていると思えます。

6 今中伊兵衛の貢献

 井上忠継の三男、今中伊兵衛についても触れておきたいと思います。伊兵衛は、八幡城ノ内町の畳屋今中家へ養子に入りました。そして、近代石清水八幡宮御畳師神人として放生会の祭列奉仕をしています。一方で、昭和5年畳床製造機を発明し大阪へ販売するなど実業家の面も残しています。
 松花堂を思慕し、城ノ内の自宅に、山上寺院?の部材を利用し、松花堂に似た茶室を作っています。
 庭園整備にも参画し、庭園が道につながる土地や女郎花塚の確保に尽力しました。その意味で、人が集まる庭園としての土地活用の青写真を描き、企画を構想したといえます。
 明治38年頃からは、兄芳次郎の京都製糸工場を引継ぎ、長池で柞蚕製糸の実験的始業に励みます。
 昭和19年(1944)頃には、中ノ山墓地内に「正平塚」や「四条隆資」等供養塔の整備に努め、史跡保
存につとめました。

7 松花堂庭園の国指定

 昭和32年(1957)、「松花堂およびその跡」が国の史跡に指定されました。移築後の庭園内松花堂と男山の遺蹟2か所が同時に史跡指定されることは珍しいことといえます。これには、芳次郎氏没後の西村大成氏の熱意によるものかもしれません。
 戦後、松花堂とその書院は、進駐軍を接待する場として使われました。その後、吉井勇や梅原龍三郎、小野竹喬らとの親交の場としても供されています。
 昭和40年(1965)に、塚本総業が買得し、美術館(旧館)が建築されました。そのかたわら、外苑部分の整備がなされ、梅隠・竹隠・素山庵(松隠)の茶室が建造されたのです。
 昭和52年(1977)、八幡市制移行を記念し、八幡市が庭園土地建物を取得し、平成14年(2002)に、松花堂美術館が開館しました。そして、平成26年(2014)6月20日に、「松花堂及び書院庭園」を国の名勝に新指定するとの答申が出て、同年10月6日には官報で告示されたのです。

むすびにかえて

松花堂庭園の歴史的意義をまとめると以下のようになります。
(1)近世の松花堂庭園は、「都林泉名所図会」で八幡ゆかりの絵師によって描かれた。
(2)男山の坊の建物を廃仏毀釈から救済して移築した。山上坊では、八幡市内に現存する唯一の建物が松花堂と書院である。
(3)古墳を活用し、女郎花塚を整備。独自の美的感性を加味した近代庭園として再現された。
(4)現在まで史跡保存及び文化交流・地域振興の拠点として活用され続けてきた。

<参考文献>
  • 京滋探遊会発行『八幡史蹟』昭和11年
  • 京都府教育員会『京都史蹟天然紀念物調査報告書』昭和7年
  • 福西禅兆『八幡尋常小学校沿革史』(京都府立総合資料館蔵)
  • 文部省編『日本教育史資料』8 雑纂、私塾寺子屋表、明治25年
  • 井川定慶『西村閑夢翁追悼集』昭和14年
  • 中村武生「京都三宅安兵衛・清次郎父子建立碑とその分布」(『花園史学』22、2001年)
  • 拙稿「八幡市の文化遺産と調査の歩み」(『八幡地域の古文書と石清水八幡宮の絵図』京都府立大学文化遺産叢書3集、2010年)
  • 拙稿「南山城における養蚕・製糸業と長池柞蚕製糸工場」(『城陽市域の地域文化遺産』京都府立大学文化遺産叢書6集、2013年)
  • 拙稿「石清水八幡宮門前町における摂社高良社と太鼓祭り」(『洛北史学』14号、2012年)

一 口 感 想

 一口感想を紹介します。
奥文鳴と都林泉名勝図会の紹介を興味深く拝聴。更に、松花堂との関連が深まれば新しい発見がありそう。 (A)
大変詳細な資料と説明に感服しました。絵図の資料をもっといただきたいと思いました。  (竹内勇)
井上忠継、西村芳次郎、今中伊兵衛各氏のなみなみならぬ努力が拝聴でき感激でした。 (藤田美代子)
八幡に40年近く住みながら、八幡の歴史を知らず、少しでも解りたいとの思いで参加させていただいています。竹中講師の講演を聞き、パワーポイントを見て、参加者がウンウンとうなづく中、人名にしても場所にしてもちんぷんかんぷん!歴史を探究する会を入り口にして少しでも理解を深めていきたいと思います。 (小林喜美代)
石清水八幡宮の山麓にある松花堂跡は、松花堂庭園と共に昭和32年に国の史跡に指定されたとのことです。この遺跡は、現在、案内板があるのですが、荒れ放題です。近くには石清水社・石清水井もあり、八幡市で整備なりなにかできるのではないでしょうか。 (滝山光昌)
松花堂庭園の成立にいたる、近世から近代への変遷の歴史を学び、神仏分離の時代の過酷な波とそれに抗う先人の熱い意思が伝わってきて、歴史のだいご味を味わった思いがしました。ありがとうございました。 (B)
                                  【文責=土井三郎】

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by y-rekitan | 2015-01-28 11:00 | Comments(0)
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