◆会報第58号より-05 八幡八景①

シリーズ「八幡八景について」・・・①
八幡八景について-その1

   安立俊夫 (会員) 


1 昭和の八幡八景

 八幡市発行の「くらしのガイド」に「八幡八景」が掲載されています。その説明書きには「八幡八景は、昭和57年11月、市制5周年を記念し、広く公募して制定したものです。また、八景の情景を詠んだ短歌は、文化センターのオープンを記念し、公募して昭和58年11月に制定しました。」とあります。以下に紹介します。

<早春>安居橋の朧月
  男山静まるふもと安居橋
  水ふくらみて朧月照る
      (八幡山柴)


<新緑>流れ橋の薫風
  薫風を背にうけつつ流れ橋
  自転車軽く漕ぎて渡るも
     (上津屋浜垣内)


<盛夏>松花堂の緑陰
  人の世の雑事をのがれ一刻を
  苔むす露地の緑樹に立つ
      (八幡女郎花)


<処暑>男山団地の夜景
  働きしひと日の疲れこころよく 
  男山団地の夜景に帰る
       (男山地区)


<新秋>梨狩りの歓声
  野ずら吹く風を浴びつつ梨の実を
  もぐおさなあり肩車して
      (川口地区)


<霜降>有都の穂波
  有都よぎる風に穂波はゆらめきて
  しじまを破り威し銃鳴る
      (東部地区)


<初冬>美濃山の竹林
  美濃山の竹林つづく小春日に
  手入れひたすら鍬振う人
      (美濃山地区)


<小寒>八幡宮の初春
  初春の八幡の社の石畳
  破魔矢ゆれて晴着行き交ふ
     (八幡高坊)

2 八景とは何か

 「八景」とは日本国語大辞典によりますと、「ある地域で、特にすぐれた八か所の景色」と出ています。日本では、「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)」に直接影響を受けて考案された「近江八景」が最初の例とされているようです。日本各地には多くの八景があり、全国に亘って八景が選定されています。一説にはその数はゆうに1000を超えています。(『八景小考』田中誠雄著 H25)
 「瀟湘八景」は中国湖南省にあり、洞庭湖に注ぐ瀟水(しょうすい)・湘江(しょうこう)周辺の景色で、蘇軾(そぶ、北宋)の詩に友人の宗迪(そうてき)が図を描いたとされています。この八景が、鎌倉時代から室町時代に日本にもたらされ、日本絵画・詩歌などにも大きな影響をあたえました。瀟湘八景そのものが題として扱われるとともに、近江八景に代表される日本各地での八景の選定と詩歌が詠まれました。この流れが、冒頭の八幡八景にもつながってきているのです。主な八景を以下に紹介します。

瀟湘八景(11世紀の成立)
  遠浦帰帆、山市晴嵐、漁村夕照、瀟湘夜雨、洞庭秋月、平沙落雁、江天墓雪、
  煙寺晩鐘
近江八景(16世紀末の成立)
  矢橋帰帆、粟津晴嵐、勢多夕照、唐崎夜雨、石山秋月、堅田落雁、比良墓雪、
  三井晩鐘
八幡八景(1694年の成立)
  橋本行客、雄徳山松、極楽寺桜、猪鼻坂雨、安居橋月、放生川螢、月弓岡雪、
  大乗院鐘
寺田八景(1819年の成立)
  木津川舟、観音寺清水、寺田里夕、水度坂雨、鴻巣峰月、久世野螢、鷲坂積雪、
  水度社燈

3 柏村直條の活躍

 さて、元禄期の「八幡八景」を編集したのは、柏村直條(かしむらなおえだ、左兵衛・愧哉・柏亭1661~1740年)です。
直條は石清水八幡宮の相撲神人を務めるかたわら、文化人として朝廷にも聞こえるほどの和歌や連歌の道に通じていました。上記のような八景の流れの中で、石清水八幡宮周辺の八景選定と詩歌の収集を企画しました。完成までに前後10年かかったようです(直條から棚倉将監への書簡)。残念なのは、いつ・どのように・なにが権威づけられたのか?あるいは石清水八幡宮へ奉納されたのかは現在のところ史料がありません。わずかに柏村家家譜(かふ、個人蔵)の元禄6年(1693年)の記述に「八幡八景題詠幸仁親王聞也/太上皇定冬十二月歌詩図画共成」の記述が見え、この時に正式に決定されたのではないかと思われます。八景の場所と事象は先に示したとおりと思われますが、漢詩・和歌については不明です。おそらくその後山田直好が正徳6年(1716年)に写したとされる「八幡八景」の最初に掲載された漢詩・和歌が当時決定されたものではないかと思われます。昭和9年に加賀翠溪が写した八幡八景の巻頭の詩歌と一致すること、『男山考古録』(嘉永元年1848年)に収録されている八景和歌とも一致するからです。
 その後も直條は漢詩・和歌及び連歌発句(れんがほっく)の収集に力を注ぎます。
公家・禅僧・儒者を中心に和歌・漢詩を、連歌衆には発句の創作を要請しています。史料によると宝永5年(1708年)にできたものもあり、実に粘り強く長期にわたって収集しています。この間に収集した漢詩は72編、和歌は45首、発句は88句を超えています。漢詩は公家衆のほか京都の主な禅宗の寺(相国寺、天龍寺、大徳寺、妙心寺、万福寺)よりそれぞれ一組依頼収集しています。直條本人も和歌・発句にはすべて出詠し、祖父の遺した句を採用したほか、母の出詠も多くみられます。
 また『男山考古録』によると享保9年(1724年)頃には既に新八幡八景が選定され詩歌も詠まれています。そのうちのいくつかは同書に紹介されてもいますが、この全体像は不明です。
 尚、八という数字は、たとえば「八方」「八紘」「八荒」「八州」というように、空間的に「すべての方角」「すべての土地」といった意味です。


<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

by y-rekitan | 2015-01-28 08:00 | Comments(0)
<< ◆会報第58号より-04 ずいき祭り ◆会報第58号より-end >>