◆会報第59号より-05 橋本

平野山・西山地区はミステリーゾーン?!

土井 三郎 (会員)


 3月16日(月)に予定される歴史探訪ウオーク「橋本の歴史(Ⅱ)平野山・西山を歩く」の実施に向けて、しおりを作成したり下見を試みたりなど準備が進んでいます。平野山・西山地区は古代より、実に謎につつまれたゾーンだといえます。どんな謎が秘められているのか。概略紹介してみます。

(1)塩釜の地名の由来 

 バス停にもなっている「塩釜」の地名について、どんな由来があるかのでしょうか。
 昔、大阪平野の内陸部が、河内湾と称する湾にずい分えぐられていた時代、この地で海水を干して塩を精製していたのだとか。或いは、狩尾(とがのお)神社で行われる湯かけ神事の釜で沸かした塩湯が、この辺りまで飛散してきたのだとか。もっと信憑性の高いもので、淀川を上り下りする参詣者が、橋本から石清水八幡宮をめざして登ろうとする前に身を清めるために塩を身にふりかけて出発したというものです。ところが、身を清めることは当たっているのですが、石清水への一般的な参詣とは目的が違うようです。そのことを、バス停「塩釜」近くに立つ石碑を見て確かめてみましょう!

(2)猿田彦神社創建のいわれ

 橋本小学校の北西に、こんもりとした姿を現す猿田彦神社の杜(もり)。その本殿に、当社の創建のいわれを書いた説明書きがあります。読むと、対岸の大山崎にいったん鎮座した八幡神を男山にお連れしたのが猿田彦の神で、それを祀ったものであると。確かに、猿田彦神は、ニニギノミコトが高千穂の峰にくだったときの道案内をした神として古来説明されています。ところが、男山に鎮座する石清水八幡宮の来歴を記した文献にそのような記載はありません。大事なことは、近代以前において、この社(やしろ)がどのような信仰の対象になったのかということです。
 実は、この神社、平野山村の鎮守であったのです。なぜ、社が村の中央部ではなくて外れにあるのか。その理由を考えてみたいと思います。また、石清水とは何の関係もないのかといえばそうでもありません。宇佐の八幡神を男山に勧請したのは奈良大安寺の僧、行教です。その行教と関連するものがこの境内にあったのです。

(3)講田寺(こうでんじ)にまつわる逸話

 講田寺は、もともと付け替える前の木津川のほとり、生津村に建っていましたが、水害の難を避けてこの地に移されたといいます。門前に、「長柄人柱地蔵尊講田寺」の石柱があります。長柄人柱地蔵とは何のことでしょうか。これにまつわる伝承も面白いのですが、この寺の再建に淀屋辰五郎の娘いほの婿である下村左仲なる人物が関与しているのです。
 「享保15年(1730)下村は、平野山村の別峰を寺地に選び自ら土を運び建築に尽力した。東厳和尚を中興開山として招き、淀下津町の小林忠左衛門尉信政を工匠として、翌享保16年に本堂造立となった」との記録が残されているのです。ところが、この下村左仲という人物、どうも謎めいたところがあります。江戸時代に書かれた『翁草』という書物に「城州八幡妻敵討」と題した話があり、そこに、淀屋が欠所後八幡に移住し改名した経過や、下村家が断絶するに至るまでが著述されているのです。その中で、左仲は元来行跡が悪く、田地・財産をつぎ込んで博打放蕩にふけり出奔したとあります。その後、いほに別の婿養子が入ることとなり、それを聞きつけた佐中は深夜家に忍び込み、いほとその婿を討ち果たしたというのです。これは歌舞伎の題材にもなりました。
 講田寺を再建した徳の深そうな人物が、何ゆえ博打放蕩して逐電することになったのか。そもそも二人は同一人物なのか。謎が残るというものです。(参考文献;「木村家文書の淀屋関係史料と近世石清水神領」竹中友里代、『京都府立大学文化遺産叢書第4集』所収)

(4)楠葉平野山瓦窯はいずこに

 「楠葉の御牧の土器造り、土器は造れど娘の貌(かお)ぞよき。あな美しやな」
 これは、2013年の11月、ふるさと学習館を会場に小森俊寛さんが「八幡の歴史と土器」と題して講演された際に、楠葉平野山瓦窯(がよう)に触れ、その中で紹介した歌です。後白河法皇が編著した『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』にある一節です。
 楠葉の御牧は、北楠葉の青葉幼稚園あたりに比定されています。しかし、その形跡が全く見られません。なぜ、この地が瓦窯の地になったのか。良質の土がとれたこともあるでしょう。四天王寺の伽藍の屋根を葺いた瓦が楠葉平野山瓦窯で焼かれたとありますから、淀川の水運が利用されたのでしょう。そういう意味では地の利があったともいえそうです。

(5)和気神社のなぞ

 八幡の歴史カルタに「足が立ち神社を建てた和気清麻呂」という読み札があります。ところが、ある方から神社ではなく寺を建てたのではないかという質問を受けました。その時は、神仏習合の時代ですから、寺も建てたし、神社も建てたのではないでしょうか、と答えましたが、『男山考古録』の第12巻に足立寺(そくりゅうじ)の項目があり、次の記述が見られます。
 「男山の西尾崎、往昔の所、今小社二宇これ有り、(中略)小社一宇は八幡宮を祭る、南の小社は、和気清麿を勧請と云伝う、土俗は稲荷と申す」。
 足立寺の境内に小さい二つの社があって、一つは八幡神を祭り、もう一つは和気清麻呂を神として祭っていると読み取れます。従って、足立寺には和気神社があったということになります。但し、土地の者は稲荷と呼んでいたようです。
 この足立寺もずい分謎の多い寺です。道鏡によって斬られ宇佐八幡神の加護で清麻呂の足が立ったという伝承はともかく、なぜこの地に和気氏とかかわりのある寺が建ったのか。皇位をねらった道鏡の野望を宇佐の八幡神の判断を仰ぐ目的で清麻呂は奈良から宇佐に派遣されますが、その道中(山陽道?)に建てたということなのか。もともとこの地が和気氏と関わりが深かったのか。
 和気氏と関わりの深い寺に、京都高雄の神護寺があります。北畠親房が著した『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』に神護寺の記載があって、「清麿神威を尊い申して、河内国に寺を立て、(この地河内交野郡との境にて、今、山城)神願寺といふ、後に高雄の山にうつし立、今の神護寺これなり」と記述されています。河内交野郡と山城の境にあることから、この神願寺は足立寺のことを指すとみなせます。すると、足立寺は、神護寺の前身ということなのでしょうか?
 また、和気神社と隣り合う足立寺史跡公園には豊蔵坊信海((ほうぞうぼうしんかい)の墓があります。男山四十八坊の一つであり、徳川家の御願寺とされる豊蔵坊の住職である信海の墓がなぜここにあるのか。豊蔵坊と足立寺をつなぐどんな糸があるのでしょうか。なお、この墓のことについては、会報49号に、谷村勉さんが「足立寺史跡公園(豊蔵坊)の墓をたどる」と題する論考があります。ご参照ください。

(6)継体天皇楠葉宮伝承地にされた根拠

 今回の歴史探訪では「継体天皇楠葉宮跡伝承地」にも足を伸ばします。なぜ、交野天神社(かたのてんじんじゃ)の杜(もり)の一角に楠葉宮伝承地が指定されたのか。そもそも交野天神社とはどんな神社なのか。会報58号に大田友紀子さんが論考していますが、その説もふまえながら交野天神社の来歴や継体天皇の樟葉宮について考えてみましょう。
by y-rekitan | 2015-02-28 08:00 | Comments(0)
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