◆会報第60号より-04 横穴古墳

「九州の横穴・近畿の横穴」

野間口秀國 (会員)


 前月の第59号で報告しました松井横穴群発掘の現地説明会開催と同日に、遠く離れた宮崎県えびの市でも横穴墓発掘の現地説明会が実施されていました。この説明会には少なからず興味が有り、事前にえびの市教育委員会に依頼して説明会資料をいただくことができました。九州に横穴墓があることは前号で触れましたが、両開催地の現地説明会資料を基に両者の違いなどを見てみたいと思います。

 さて、松井横穴群の地から東を見下ろす地区は京田辺市大住(おおすみ)ですが、同じく”おおすみ”の呼び名で異なる表記の地名が鹿児島県にあります。大隅と表記するこの旧国名(大隅国)の名は古く『続日本紀』に見られるようです。日向国の肝属(きもつき)、贈於(そお)、大隅、姶羅(あいら)の4郡にて成り、其の後の変遷で1871年(明治4)の廃藩置県で鹿児島県に属し、同年に都城県に編入され、1873年に再び鹿児島県に属しました。えびの市は現在は宮崎県に属しますが、古くは、まさに隣接する大阪府・枚方市と八幡市・京田辺市のような、地理的・歴史的には県境を挟んだ極めて類似する文化圏内であったと言えそうです。

 古代日本において薩摩・大隅(現鹿児島県)には隼人(はやと)と呼ばれる人々(以降、隼人と省略)が居住していたことは既に広く知られているところです。しばしば当時の大和政権に反抗するも、しだいにその支配下に組み込まれて畿内に移住させられ宮中の守護などに当たるようになりました。移住者の多くが山城国南部に定住し、現京田辺市大住の名もその名残として今に続いております。八幡市の女谷・荒坂横穴群の被葬者もこのような隼人であると言われておりますし、八幡市内里内にあります内神社の祭神はこの内里の地の始祖である味師内宿禰(うましうちすくね)とされており、その人こそ奈良時代前期に南九州に勢力を得ていた隼人のようです。

 このような二つの”おおすみ(大隅と大住)”の歴史的な繋がりに思いをはせながら両遺跡の報告内容を比べてみると、同じ横穴墓にもそこには少なからず違いが見られるようです。無論、今回の両報告内容のみで全体を論じられないことは言うまでもありませんが、いみじくも同日に開催された両報告会から学ぶべき何かがあるように思えました。比較の項目が適切か否かには異論も有ると思いますが、両報告書から分かる範囲でまとめましたのでご参照ください。
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 八幡や京田辺で水平方向の素掘りの横穴様式の墓を見慣れていた私にとりましては、えびの市の地下式横穴墓の写真を見た時にこの様式の違いが何に起因しているのかが興味ある点でした。それは、造られた年代か、被葬者の社会的地位か、地形や自然条件か、はたまた盗掘防止目的なのか、などなど考えるときりがありませんが、いつか答えらしきものに出合うかもと思いながら比較表にまとめました。
 ところで、この原稿にも先月同様「横穴」の文字にあえてルビを付しませんでしたがどう読むのでしょうか。ちなみに京田辺市の「松井横穴群」の報告資料には「おうけつ」と、えびの市の「島内139号地下式横穴墓」のそれには「よこあな」とルビが付されておりましたことを記しておきたいと思います。最後にこの紙面をお借りして、えびの市教育員会のご親切に感謝申し上げます。

参考図書・資料等;
  • 京都府埋蔵文化財調査研究センターの「松井横穴群」 現地説明会配布資料、及び宮崎県えびの市教育委員会の「えびの市島内139号地下式横穴墓」現地説明会配 布資料(共に2015.1.25開催)
  • 『発掘調査成果展-- 内里八丁遺跡を中心として--』八幡市教育委員会刊
  • 八幡市誌第1巻 P148
  • 日本地名地図館 小学館刊  P206
  • 『隼人の実像』中村明蔵著 南方新社刊
  • 『隼人と古代日本』永山修一著 同成社刊
  • 検索サイト ウィキペディア
  • 八幡歴史探訪ウォーク(2013.3.17開催)の栞

by y-rekitan | 2015-03-28 09:00 | Comments(0)
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