◆会報第60号より-06 二宮忠八

    《南山城ちょっとばなし》

 二 宮 忠 八 掌 話

古川 章 (エッセイスト)


 吉井勇研究家であり郷土史家でもある京田辺市在住の古川章氏より、二宮忠八に関する記事が送られてきました。「洛南タイムス」2009年(平成21年)4月15日に掲載された「南山城ちょっと話(68)」という連載記事です。御本人の承諾を得てここに再録いたします。

 白いスーツのよく似合うダンディな作家だった。もう20年も前になろうか。八幡市の講演会に招かれた吉村昭先生の二宮忠八の話がはじまる少し前の控室だった。私は風呂敷に先生の10冊ばかりの著作をもって訪ねた。一冊一冊に、ていねいにサインをしていただいた。吉村文学ファンだった私は、小説といいエッセイといい綿密な考証のもと密度の濃い文章のとりこになっていた。その人が七十九歳という今ではその若さが惜しまれる死であった。平成18年7月31日だった。
 多くの名作の中でも「戦艦武蔵」や「高熱隊道」「神々の沈黙」「陸奥爆沈」等の記録文学。「ふぉん・しいほるとの娘」「長英逃亡」「天狗争乱」「彰義隊」等の歴史小説にも取り組まれた。そこに描かれる人間ドラマの迫力感。「破獄」や「冷たい夏、熱い夏」等も心に残った。

 その吉村昭が、飛行機の創造に生涯をかけた二宮忠八の生涯を描いた。二宮忠八は晩年を八幡市に住み、神応寺に墓地を求め、さらに飛行神社を自宅内に建てたのであった。
 吉村は、京都新聞に昭和35年の3月5日からその年の12月31日まで小説「茜色の雲」を連載した。後に一冊の本となったのが「虹の翼」であり、昭和55年9月に文芸春秋社から刊行された。
 そこで二宮忠八の生涯を要約すると、忠八は、慶応2年(1866)に愛媛県八幡浜市の海産物問屋に生まれた。今も航空界の歴史を語るとき、必ずそのパイオニア(先覚者)として登場する。忠八は陸軍にいた明治22年(1889)のある日、昼食時の残飯に群がったカラスが滑空する状態を見て、翼をバタバタしなくても飛べるという飛行の原理を思いついた。その2年後に「カラス型模型飛行器」を飛ばすのに成功したという。それは有名なライト兄弟より12年も早い飛行だったといわれる。しかしライト兄弟の成功(1903)を知ったあとは、忠八は八幡の木津川浜で行っていた実験を中止したのだった。追い越された忠八にとっては大きなショックだったにちがいない。しかし晩年は、飛行機事故で亡くなられた多くの人たちの慰霊に努めた。私はその崇高な忠八の心に深く感動する。その慰霊の数は14万人を超えるという。その神社が八幡市の飛行神社なのである。

 さて私はこのたび新井清太郎発行の「山城」を読みあさっていて、忠八に関する資料を発見したのであった。「山城」の大正14年(1925)12月20日の紙面であった。見出しは「世界航空史上に特筆すべき、飛行機原理の発明者、二宮忠八翁の講演」とある。忠八が同年11月26日八幡校で行われた「綴喜郡戦死病没軍人招魂祭」に招かれたときの記事であった。その折「山城」紙は、八幡町住人である忠八に国が同年9月17日に表彰状と賞品を贈ったことを報じ、紹介している。さらにこれに準じて八幡町も11月26日に表彰状を出している。長い表彰状の一部にこんな表現がある。「ああ偉大なりと云うべし、そして今やその栄誉やひとり一身一郷に止まらず世界航空史上に一大光彩を放ちたる」として町議会とも協議し功績を表彰するとある。

 作家吉村昭は「虹の翼」の中で、丘陵の上にある石清水八幡宮に参詣してのち、「・・・・・・いかにも春らしいのどかさで、彼は川沿いに少し上流にむかって歩いた。碑があって、そこに思いがけぬ文字が刻まれていた。それは彼の故郷と同じ八幡浜という地名であった。忠八は思わず周辺を見まわした。その地は八幡町(現在は八幡市)に属し、川沿いの場所であることから八幡浜と名づけられているのに不思議はないが、故郷と同名であることに、自分と深い関係がある土地のように思えてきた」と書いている。忠八にとって、ふるさと四国の八幡浜を常に心に宿していたのであろう。その後も吉村は小説だけでなく、エッセイにも忠八のことを書き残している。きっと忠八の生涯が好きな作家の一人であったのだろう。  (京田辺市草内在住)
by y-rekitan | 2015-03-28 07:00 | Comments(0)
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