◆会報第61号より-02 幕末

f0300125_273775.jpg
《講 演 会》
幕末政治と攘夷―長州・京都・八幡

2015年4月  松花堂美術館の講習室にて
中村武生 (歴史地理史学、幕末政治史)

 2015年4月19日、松花堂美術館の講習室を会場にて、八幡の歴史を探究する会の2015年度4月例会が開催され、講演と交流の集いとして、冒頭に掲げた演題で中村氏にご講演いただきました。いつものように、その概要を紹介し、みなさんからの感想を掲載させていただきます。参加者は77名でした。

1、大きく変わった幕末史の理解

 幕末の政治状況を示す言葉として、これまで「開国派VS攘夷派」、「尊王攘夷派VS公武合体派」、「幕末志士はみな倒幕を目指していた」などが飛び交っていて、暗黙の了解がなされていたように思います。ところが、それらの「常識」が今や通用しなくなっています。つまり、開国と攘夷、あるいは尊王攘夷派と公武合体派は対立する用語ではないということが明らかになったのです。f0300125_103637.jpg
 例えば、「開国派」といえば、井伊直弼を筆頭に、諸外国と通商条約を締結した徳川幕僚部などを指し、「攘夷派」といえば、開国に反対した長州とそれに同調する公家のグループなどを指すと解釈されてきました。しかし、そのような解釈が意味をなさず、事実をも示してもいないのです。

▇ 攘夷とは何か
 まず、「攘夷」ですが、攘夷とは、「夷敵を撃ち、外国人を排斥する」ということですが、マナーの悪い無礼な外国から国を守るという程度の言葉であり、当時の状況から適切な言葉を選ぶとすれば、「国防」にあたります。そうすると、当時、自国を守らなくてよいとする人は誰もいません。つまり、攘夷は特殊な人間の発想ではなく、列島住民の殆ど全員の意識であるといえます。

▇ 尊王とは何か
 また、「尊王」という言葉ですが、当時、天皇を大事にしない人はいません。将軍家はもとより一般庶民まで、尊王は日本人全体の意識だと言えます。ですから、「尊王攘夷」というのは、当時の国民の全体的な意識なのです。

▇ 公武合体とは何か
 但し、この時期、通商条約を持ち続けるのか、それとも一回捨て去るべきなのかを巡って議論が起こりました。江戸城(徳川公儀)と京都朝廷の意見が分かれたのです。
 後で触れますが、長州が下関を通る外国船に大砲を撃ち放ちました(文久3年=1863年)。この時、朝廷は素晴らしいことをしたと褒め、徳川公儀はなんと馬鹿げたことをしたのかと怒りました。京都がYES!といい、江戸がNO!といったのです。どちらが正しいのか。どちらも正しいのです。当時、日本には政府が二つあるような状態だったのです。だが、それでは困ります。どちらの側のいうことに従ったらいいかわからなくなるからです。つまり、「政令二途」ではなく「政令一途」でないと困るのです。そこで、何とかして一途にしてほしいと願う。京都の朝廷(公家)と江戸の公儀(武家)の言っていることを一つにしてほしいと願う。それが「公武合体」ということです。公武合体とは、列島の意志統一を意味するに他なりません。政令一途となって、日本の突き進む方向が一つになることは誰もが願うことでした。
 要するに、「尊王攘夷」と「公武合体」は対立用語ではなく、一人の人間のなかに両立できる考え方といえます。

▇ 開国とは何か
 次に、「開国」とは何かについて考えてみましょう。井伊直弼がなぜ通商条約を結んだ(安政5年〈1858〉)のか。その理由を考えるとよくわかります。ほんらい井伊などはこの条約を結びたくなかった。これまでどおりの「鎖国」体制でいたかった。だが拒否したら戦争になる。勝てるのか。勝てない。戦って我が国が焦土と化してよいなどとは思わない。だから取りあえず条約を結び、列強と対抗できる軍艦や大砲などをもち実力をつける。そのような見込みが立った時に通商条約を破棄すればよいという発想です。つまり、開国した後に力を蓄え、そのうえで攘夷を決行するという考えです。当時の徳川幕僚部の考えはおおよそそのようなものです。勝海舟なども基本的には同じ考えです。将来の攘夷のために当面開国をするのだと。ですから開国と攘夷とは対立用語ではないのです。

▇ 薩長は討幕など目指していなかった
 尊王攘夷運動とは討幕運動の別名のように信じられてきましたが、安政・万延・文久・元治(1854年~1865年)のころ、人々の意識にはほとんど討幕(倒幕)や王政復古はありません。革命など政府転覆ではなく、いわば政治改革、政界再編を望んだのです。平野国臣や真木和泉などはたしかに将軍を討つような言動をしていますが、珍奇な事例で、実際具体的な戦略はなく、幻想・夢想の世界といえます。
 国防をしっかりする政府であってほしいと願ったのです。徳川公儀はそれをしてくれない。外国になめられている。それは徳川の幕僚部が能無しだからだ。それに代わって長州毛利や薩摩島津など有力大名を政治参加させて、強い政府にしたいという発想です。
 ではそのような政治改革、政界再編ではなく、はっきりと革命を目指しだしたのはいつのことなのか。それは慶応3年(1867)の6月ごろです。大政奉還の4か月前です。つまり、その時期になって初めて徳川将軍(当時は慶喜)に戦争をいどみ、彼を滅ぼしてでも新しい国家体制に移行したいと考えるようになったのです。

2、西洋の接近から八月十八日政変まで

▇ 「鎖国」をしていたのか?
 「鎖国」とは国を閉ざすという意味ですが、徳川時代の日本は決して国を閉ざしてはおりません。なぜなら、日本は五つの異国・異民族に窓を開いていたからです。対馬の宗氏を介して朝鮮と、薩摩の島津氏が琉球、蝦夷地(現北海道)の松前氏がアイヌと、そして長崎の出島で清・オランダとそれぞれ交流がありました。
 徳川公儀は、オランダ商館長(カピタン)からもたらされる「オランダ風説書」によって西洋の事情に通じていました。例えばアメリカのペリー来航も事前に知っていたのです。 「鎖国」というより、国外渡航を禁じた海禁時代、また徳川公儀による「貿易統制」の時代であったと見てみるべきかもしれません。そういう意味では、幕末期の有力大名の政界参加要求は、自らも対外貿易に参加したいという主張だったともいえます。
 たとえば下関は、首都京都の窓口である大坂湾に通ずる瀬戸内海の西の入り口にあたります。が、そのような要衝を持っているのに、長州毛利家は自由に対外貿易ができない。口惜しかったと思いますよ。

▇ 通商条約締結の何を問題としたのか
 長州毛利家は西洋を嫌っていたとか、外国と交わりをもちたくなかったというわけではありません。たとえば吉田松陰の門下久坂玄瑞らが問題にしたのは、通商条約締結の手続きなのです。一つは外国からの暴力的な要求に屈したということ。もう一つは、天皇の勅許なし(大名の合意なし)で調印したことです。ということは、それらの二つの条件をクリアすればOKなのです。西洋と交流した方が軍事力を高めることができますし、経済的にも教養上にも豊かになります。それを阻む何の理由もありません。

▇ ロシアの動き
 日本が五つの異国・異民族と交わりを持つという海禁政策が変化する最初の動き、それがロシアの接近です。寛政4年(1792)、ロシア使節ラックスマンが蝦夷地の根室に現れました。日本の漂流民(大黒屋光太夫ら)を連れ、通商条約を結びたいと言ってきます。蝦夷地は松前領であったため、江戸との二重交渉になったため、漂流民の引き渡しを含む交渉に約1年かかってしまいました。当時の江戸城の実力者は松平定信です。松前氏の蝦夷地ではなく、清やオランダが入港許可を与えられている長崎なら、今後ロシアも通商交渉を求めてもよいと長崎入港許可書を渡したのです。ラックスマンはこれを成果と判断し、一旦帰国しますがまもなく死去します。つづいてレザノフが長崎に派遣されますが、すでに松平定信は失脚しており、新政権は定信の判断を引き継がずこれを拒否しました。その後もロシアは通商交渉を求め続けますが、その都度長崎に現れます。徳川公儀の要求にしたがっての行動です。

▇ ペリーの浦賀来航
 これに対して、嘉永6年(1853)、アメリカのペリーが浦賀沖に現れます。当然徳川公儀は長崎への寄港要求をしますが無視し、空砲を撃つなどして威嚇しながら国交を結ぶよう要求したのです。この無礼な態度に多くの日本人は激昂するのです。
 同じ年、ロシア使節プチャーチンも来航しますが、彼らはルールに従って長崎に現れるのです。ペリーとは雲泥の差です。ペリーに怒る日本人がなぜプチャーチンに怒らないのか、おわかりだと思います。

▇ 和親条約
 ペリーとの間に結ばれた条約を一般に和親条約と呼んでいます。その後も3か国と結び、計4か国です(米・露・英・蘭)。下田と箱館を開港場と決めました。但し、この条約を結ぶに至る手続きの上に問題があったものの、この和親条約の内容には当時の政府も朝廷も問題にすることがなかったのです。 

▇ 華夷秩序(かいちつじょ)
 和親条約を問題視されることは少なかったですが、その2年後にアメリカのハリスが求めた通商条約締結については問題視されました。なぜか。その問題を解き明かすためには、当時の日本人にあった中華思想について触れなければなりません。当時の日本人は、日本を世界の中心と見なし他国を野蛮で劣った国と見なす考えを持つものが多かった。このような世界観を「華夷秩序」と呼びます。ですから、外国が対等な態度で近づいてくることを許せなかった。華夷秩序を乱すからです。先ほど述べた五つの異国・異民族も日本に朝貢する夷狄という扱いをしていました。
 なおこの時期に、列強が多く日本と国交を結びたがった理由の背景に、日本の近海にクジラが現れるようになったという事情があります。西洋は、当時クジラがほしかった。クジラから採れる鯨油を燃料としていたからです。捕鯨船が日本の近海で難破したり食料や水・燃料が足らなくなったりすると避難したり補給したりするための港が必要だったのです。日本は、その要望に応じたにすぎない。つまり和親条約は、困っている夷狄を日本が助けてあげるためのものであったという解釈が成り立つのです。これは長崎の出島にのみ居住してもよいという、これまでオランダに認めていた権利より低い扱いというわけです。和親条約締結が天皇からもほとんど問題視されなかったのは当然といえます。

▇ 通商条約 
 ところが、2年後の安政3年(1856)、アメリカのハリスが下田にやってきて通商を求める事態となると国内が沸騰します。一体、通商条約は和親条約と何が違うのでしょうか。
 一つは、西洋人が複数の開港場に日本に常駐できるということ(しかもそれは武家の首都江戸近郊の神奈川や、ミヤコである京都の外港摂海の一部兵庫である)、二つ目には、自由貿易ですので対等の関係となる。まさに、「華夷秩序」が崩れてしまうのです。
 幕府の中枢はもちろんこんな条約を受け入れたくない。だが、受け入れないと戦になる。勝てるか。勝てない。国土が焦土となる。だから、この際まず受け入れる。その上で国力を増強して、その上で条約を破棄しようと考えた。それが、政府の考えです。ところが、徳川将軍の縁戚から猛反発する者が現れた。水戸斉昭です。何としても条約を結ぶな!当時の老中首座堀田正睦らに切腹を命ぜよ、ハリスは殺せと江戸城内で激昂したのです。 これには堀田も閉口し、みずから上洛、天皇の勅許を得ようとした。天皇が条約締結を認めたなら水戸斉昭は黙るだろうと考えた。
 ところがそうはならなかった。公家88人が関白九条尚忠邸へ列参し、反対を表明した。そのため関白は堀田を支持できなくなった。孝明天皇は勅許を出さなかった。ただし何が何でも反対なのではなく、武家全体の合意があれば認める、だから合意を得て出直せと述べたのです。ともあれこの段階では堀田の勅許獲得は失敗しました。

▇ 条約締結までの経緯
 江戸へ戻った堀田はまもなく失脚し、大老井伊直弼が登場します。井伊は反対する大名をねじ伏せ、意見をまとめて再び勅許を求めようとした。そのことに自信があったのです。ところが、予想しないできごとが起こりました。アロー号事件です。英・仏が清国と戦い勝利しました。そののち英・仏の軍艦が日本に向かいます。その動きをハリスは利用するのです。勝利に乗じた英・仏が厳しい条件で日本に条約締結を求めてくるだろう、今のうちにアメリカと穏当な条件で条約を結んでおくべきだ、そうすれば英・仏にそれを受け入れさせることは可能だ、ハリス自身が英・仏を説得する役目を受け入れてもよいとまで言ったのです。これに井伊は乗ってしまった。水戸斉昭ら反対する大名の同意を取り付けることなく、ハリスの提案を受け入れ、岩瀬忠震(外国奉行)や井上清直(下田奉行)を下田に派遣するのです。ただしできるだけ時間かせぎをすることを指示した。どうしてもダメなら結んでもよいと。
 しかし、岩瀬も井上も通商条約を結ぶことが日本にとって最善の道だと確信していましたから、すぐ調印してしまう。その結果、米のみならず、英・露・仏・蘭との間でも締結しました。安政の五か国条約と呼んでいます。和親条約以来の箱館(函館)と、神奈川・長崎・新潟・兵庫を開港させるというものでした。

▇ 安政の大獄
 怒ったのは孝明天皇です。自身の許しを得ず勝手に条約を結んでしまったからです。
 怒りにかられた天皇は、水戸徳川家に勅書(戊午の密勅)を送り、井伊政権への反発をあからさまにした。そして現状の国事の問題についてすべての大名で話し合うように命じ、その勅書を有力西国大名への伝達を指示した。こんなことが現実化すると徳川家は政権担当者ではなくなってしまいます。当然井伊は憤慨します。だが、天皇を責めるわけではありません。水戸斉昭の陰謀として水戸徳川家、天皇の周りにいる公家、そして背後にいると見込んだ在京の儒学者たちが処罰対象になりました(安政5年〈1858〉~安政6年、「安政の大獄」)。
 この弾圧のさなか、井伊の意を受けた老中間部詮勝が上洛し条約締結にいたる過程を説明し、開戦を避けるための一時の方便で、将来条約を破棄することを主張した。あまり知られていないことなのですが、孝明天皇はこれを受け入れ、疑問は氷解したと返事をしています。つまりいわば条約勅許を与えているのです。安政5年(1858)の年末のことです。ただこれが外国にばれてはまずいので、徳川公儀は公表を避けました。

▇ 桜田門外の変以降の動き
 安政7年(万延元年、1860)、桜田門外の変が起きます。井伊直弼が水戸浪士らに暗殺されたのです。その後を引き継いだのが久世広周(ひろちか)と安藤信正の政権です。井伊政権が企画した、京都と江戸の融和を図るための将軍家茂への和宮降嫁が進められるのです。天皇は当初は反発しますが、最終的に降嫁を許す条件として、徳川公儀に10年以内の条約破棄を約束させています。
 なお和宮は降嫁決定後の文久元年4月24日(1861)、ご当地の石清水八幡宮に参詣をしています。これは和宮にとっての初めての洛外への外出で、江戸への長旅訓練の一環でした。八幡宮は武神ですし、和宮としては条約破棄を条件として関東に下るわけですから、国防を祈願するには石清水八幡宮はもっともふさわしい神社だったともいえます。毎年8月15日に行われる石清水放生会でも、とくに攘夷祈願がなされることもしばしばありました。 

▇ 将軍家茂の上洛と天皇の攘夷祈願
 和宮降嫁問題ののち、文久2年(1862)、安政の大獄を失政とみなす風潮が高まりました。それにともなって井伊政権に処罰された勢力が復権を始めます。たとえば一橋慶喜や松平慶永(春嶽)たちです。
 彼らの政権に対して、孝明天皇は条約破棄(攘夷)の具体的な日程を調整するために将軍家茂の上洛を求めます。文久3年(1863)3月、将軍家茂は3代将軍家光以来の実に約230年ぶりの上洛をはたします。同年3月11日、孝明天皇は上・下賀茂社に攘夷祈願のために行幸します。その時、将軍と在京大名も随従しています。そして、4月11日、天皇は石清水にも行幸しています。しかし、その日の体調は思わしくなかったようです。直後に出された尊融親王宛の孝明天皇宸翰(書翰)によれば、「持病の眩暈(めまい)がおこり、とても遠路の乗輿は困難である、だから延引したいと関白に述べると、それを聞いた三条実美がダメだと言って許してもらえなかった」「島津久光を招いて暴論の堂上(三条実美)を何とかしてほしい」と訴えているのです。それに対する尊融親王の返事も辛辣です。「三条らは長州を背景に悪行を積んでいるがいつか必ずや天罰が下る」と述べているのですから。この4か月後の八月十八日の政変で長州は追い払われるのです。 ここで強調したいのは、この政変は薩摩や会津のクーデターだと理解される向きがあるのですが、決してそうではなく孝明天皇が主体者であるということです。
 孝明天皇は条約破棄を願っていますが、だからと言って戦争をしてほしいと言っているのではありません。戦になって国土が焦土となることを最も恐れているのです。先祖の天皇に申し訳ないからです。 

▇ 攘夷決行日? 
 最後に、文久4年(元治元年)の正月の将軍家茂宛の宸翰(書翰)に孝明天皇の真意が示されています。
 「藤原(三条)実美等鄙野(ひなや)ノ匹夫(ひっぷ)ノ暴説ヲ信用シ宇内ノ形勢ヲ察セス国家ノ危殆ヲ思ハス朕カ命ヲ矯(いつわ)テ軽率ニ攘夷ノ命を布告シ妄ニ討幕ノ師ヲ興サントシ長門宰相ノ暴臣ノ如キ其王を愚弄シ故ナキに夷船ヲ砲撃シ・・・・此ノ如キ狂暴ノ輩必罰セスンハアル可ラス」
 「長門宰相ノ暴臣」とは久坂玄瑞らを意味します。そして、ここで問題になるのは、彼ら「暴臣」が前年の文久3年(1863)5月10日などに、下関で外国船に対し砲撃したことです。 
 実は、今まで触れずじまいでしたが、石清水行幸の10日後の4月20日に、5月10日から通商条約を破棄する話し合いを外国との間で始めると将軍家茂は天皇に約束したのです。ここで重要なのは、5月10日が攘夷決行日だとか戦争開始日なのではないということです。ところが、5月10日、久坂玄瑞らは上司の反対意見を無視してサア開戦だとアメリカの商船に砲撃したのです。これを聞いた三条実美らはほめたたえるのでした。孝明天皇は不快であったにちがいありません。徳川公儀は当然怒ります。
 ここで、もう一つ問題なのは、毛利家と関門海峡をはさんで対峙する小倉小笠原家の対応です。下関での攘夷戦のおり、小倉は動かなかったのです。毛利家からはなぜ一緒に戦わないのかとクレームをつけられ、同じく三条実美らが事実上牛耳る朝廷から叱責されたのです。小笠原家は、5月10日は話し合い開始をする日だと聞いていると反論します。これに対して徳川公儀からはほめられました。ここで、先に述べた「政令二途」の問題が浮き彫りになるのです。

▇ 慶応元年(1865)の条約勅許
 通商条約が健全に行使されないと、列強は困ります。八月十八日の政変のあとは、朝廷も少し軟化し、徳川公儀の方針に従い、条約全面破棄ではなく、横浜港のみの閉鎖を目指します。が、当時京都に近い兵庫は天皇の猛反発で開港しておらず、横浜まで閉鎖したなら、列強の損失ははかりしれません。それを主張するため、元治元年8月、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの連合艦隊が下関を攻撃し短時間で砲台などを破壊し、占拠します。これは長州を屈服させることが目的なのではなく、横浜鎖港を主張する天皇などへの威嚇でした。その後、3度目の将軍家茂の上洛にあわせて、列強は大坂湾に軍艦を進め、将軍を威圧しました。f0300125_1094179.jpg
 これに窮した家茂は条約勅許を得られないのならと、将軍職を投げ出して江戸へ戻ろうとしました。ここにいってようやく天皇は、条約を勅許するのです。慶応元年10月5日(1865)でした。
 一般に、長州などは長く攘夷を主張してきたのに、維新で政権側にたつと西洋と積極的に外交を展開する。結局攘夷は徳川公儀を批判するための方便に過ぎなかったのだ、長州は卑怯だ、嘘つきだといわれることが多いと思いますが、それは非事実です。慶応元年10月以後は天皇が条約を認めたわけですから、この段階で攘夷はなくなったのです。そこに何らの矛盾もないのです。 
                          【文責;土井三郎】

<参考文献> ※中村武生氏のレジュメから
  • 町田明広『攘夷の幕末史』、講談社、2010年
  • 青山忠正『明治維新』、吉川弘文館、2012年
  • 中村武生『池田屋事件の研究』、講談社、2011年

=一 口 感 想より=
通商条約の勅許が1865年(慶応元)と長い間認識していたが、実は1858年(安政5)には勅許が下されていたと聞き、これまで抱いていた幕末史に対する考え方や見方が大きく変わった。さらに詳しいお話を聞きたいので、これからも中村先生の講演をお願いしたい。  A
初参加でしたが、目からウロコでした。講師の中村さんの話はとても新鮮でした。   B
幕末の思想(開国-尊王攘夷、幕府-御所の関係)や孝明天皇の思いが理解できた。      恩村政雄
非常に面白かった。幕末のややこしいことが、この話でかなり納得、整理されました。通商条約に対する幕府側、公家の考えがとくによくわかりました。ありがとうございました。  高橋元子
学ぶということは破壊することだとの言葉に感銘を受けました。  
     畑美弘
今日の講演はとてもいろいろな発見がありました。孝明天皇が慶応元年の10月に条約を勅許し、その前に家茂が将軍職をやめようとしていたのもあまり知らなかったのでよかったです。東禅寺事件について少し話して欲しかったです・・・。         宮崎航平
脱線もあったとのことですが、楽しく聞かせていただきました。ありがとうございました。華夷秩序という言葉も初めて聞きました。また理解もでき嬉しく思います。松花堂美術館の庭園も見ましたがすてきな所ですね。  D 


<<< レポート一覧へ        次の《講演会》レポートは⇒⇒
   
by y-rekitan | 2015-04-28 11:00 | Comments(0)
<< ◆会報第61号より-01 御園神社 ◆会報第61号より-03 中ノ山墓地 >>