◆会報第61号より-03 中ノ山墓地

西国三十三所観音石仏群の墓所

大田 友紀子 (会員)

 1月18日(日)、「八幡の歴史を探究する会」の例会で、久しぶりに竹中友里代さんの講演を聞きました。竹中さんは、元八幡市教育委員会文化財保護課に勤務されていて、現在は京都府立大学特任講師です。八幡市の古文書などを研究されています。
 今回の講演『史跡松花堂庭園の成立』において、西村芳次郎氏の実父である井上忠継のことについて話され「志水町は自治能力が高くて、井上家は豊かな商家であり、石清水の仕丁座神人を勤める家であった」ことや、「中ノ山墓地の西国巡礼三十三所観音石仏十二番の墓所を、天保3年(1832)に区画分譲とセットで購入し、その代金は3坪33匁(江戸時代の貨幣の単位で、小判1両の60分の1)であった」ことなどを話してくださいました。そして、忠継氏の一人娘のときさんは和裁の先生として、八幡では有名であったことを紹介してくださいました。
 私の母のおばさん(祖母の妹)はいつも和裁をしていて、母もその指導を受けていたようで、私たちの浴衣や訪問着も自分で縫っていました。そのおばさんのお師匠さんは、間違いなく井上ときさんだったと思います。彼女を慕う人々による「報恩碑」が中ノ山墓地の奥に建てられています。その評判からか、曽祖母も娘たち3人に和裁を習わせていたようで、その間の逸話を母はよく話していました。それから、農作業の合い間には、母はよくそのおばさんの家に行って一緒に着物を縫っていました。そこの家の庭には、大きなイチジクの木があり、その実を分けてもらって食べていたので、亡き母はイチジクが好きでした。
 その頃の志水はすっかり農村の町になっていて、その昔は商いを主にして繁栄していたことから、豊な商家を中心に自治をしていたことは、幼い頃に聞いたこともあり、ひそかに誇りにしていました。曽祖母の話の裏づけを得られたことが本当に嬉しくて、同時に曽祖母と過ごした日々を懐かしく思い出していました。
 さて、三十三所の地所の代金である33匁は、いくらぐらいになるのでしょうか。1両については、江戸初期は約10万円、中期には約8万円となり、後期には約5万円にまで目減りしています。天保3年は後期なので、1両=150匁、1匁は60分の1なので、2.5匁となり、33匁は約82匁です。よく言われる(時代劇などでは)ように、1両で1ヶ月は遊んで暮らせたとあり、その1両は後期には5万円なので、60で割ると833.3となり、それに33をかけると27、500円となりますが、物価の違いもありはっきりといえませんが少し高額な買い物だったのではと思われます。
 以前にある人から、「(中ノ山墓地の石仏群のある墓地は)いつ出きたん?」と尋ねられたことがあります。石仏が墓所に置かれた時期については、江戸中期頃と安直に考えていました。奈良にある喜光寺の石仏群はだいたい江戸中期頃の建立との住職の話から、こちらも同じと思っていたのです。 
  『京都府立大学文化遺産叢書』第4集を読み返してみると、「後ろの山を万称寺山と称し、文政3年町中ノ乞二任せ共同墓地トナス」とあり、墓域は万称寺山に造られました。その山の名から付けられた万称寺は、正法寺17世本誉即童が開山で、その後は正法寺の末寺の一つとなりました。龕前堂については、「文政5年(1822)春に龕前堂は、八幡志水の田町や勘ケ由垣内・神原町谷畑の百姓町人らが世話人となって建設された」とあり、その龕前堂を中心に北側に十三仏の石仏群をおく区域が、南に伸びる道の両側に二十五菩薩の石仏群が並んで建ち、その後ろには4坪づつの墓所が造られています。十三仏群の方は龕前堂と同時期に造られ、二十五菩薩群は翌年に石仏と共に分譲されています。西国三十三所石仏の墓所群は、遅れて10年後の天保3年に成立しました。
 中ノ山墓地の奥深い歴史が、八幡ルネが清掃する場所の広がりと同時に確認され、無縁墓となってしまった数基の墓石が少しずつ顔をのぞかせています。生い茂る雑草を取り除くと現れる墓石の声を聞いて行きたい、と思っています。

平成27年1月30日  やわた観光ガイド協会ボランティア
 


 上記の記事は、22世紀八幡ルネッサンス運動が発行する「ひろば」119号から、発行者と筆者の承諾の上で、一部割愛して再録するものです。 ―編集担当ー
by y-rekitan | 2015-04-28 10:00 | Comments(0)
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