◆会報第62号より-02 松花堂昭乗

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《講 演 会》
知っているようで知らない
松花堂昭乗のこと

―研究の現状そして、これからの研究のために―


2015年5月  松花堂美術館の講習室にて
川畑 薫 (八幡市立松花堂庭園・美術館学芸員)


 5月31日(日)午後1時半より、松花堂美術館の講習室にて、八幡の歴史を探究する会の5月例会が開かれ、表題のタイトルで講演と交流の集いが開催されました。今回は、川畑さんに、講演のレジュメをデーターとして送っていただき、それをもとに、講演の概要をまとめてみました。参加者は49名でした。

はじめに

松花堂昭乗(1584※~1639)

 昭乗は奈良の春日または摂津の人といわれます。父母について自ら語ることはなく、謎に包まれています。幼少の頃、男山にのぼり、瀧本坊実乗のもとで得度(とくど)したと伝わります。初め鐘楼坊(しょうろうぼう)に居たようですが、後に師・実乗の遷化(せんげ:亡くなること)にともない瀧本坊の住職となります。社僧(しゃそう)としての昭乗は、真言密教の奥儀を極め、阿闍梨(あじゃり)の位に至っています。晩年、坊を後嗣(こうし)の乗淳(じょうじゅん)に譲り、自らは坊の南に二畳ばかりの庵(いおり)を建て、終(つい)の棲家(すみか)としました。昭乗はその庵を「松花堂」と名づけます。草庵「松花堂」の脇床には、自ら描いた「自画賛像(じがさんぞう)」が掛けられました。
 諸芸に通じた彼の周りには多くの人が集い、「男山文化圏」ともいうべきサロンが形成されました。昭乗の書は、後世「寛永の三筆」に数えられ、その手元に置かれた茶道具は「八幡名物」として知られます。
 昭乗は田の字に仕切った四角い箱を絵の具入れや茶席の煙草盆として好んで用いました。その逸話をもとに昭和の時代に生み出されたのが、お弁当の代名詞ともいえる「松花堂弁当」です。

生年については、昭乗と同時代を生きた佐川田昌俊(さがわたまさとし)の著した「松花堂行状」に依拠することが主流となっています。なお「中沼家譜(なかぬまかふ)」(松花堂美術館蔵)によると1582年となります。

(1)松花堂昭乗に関する研究史

 松花堂昭乗については、明治・大正期から研究が始まっています。初期は、昭乗の絵画に関するものが多いと言えます。『国華』という美術雑誌の第12号(1890年)から同第257号(1911年)に至るまで6回にわたって、松花堂筆の「花鳥図」、「二八應眞ノ図」、「商山四皓図」、「布袋梅花図」「梅竹図」などが解説されています。書について初めて言及されるのが1920年(大正7)の「松花堂流の書家」と題するもので『美術写真画報』第1巻7号に今泉雄作が論じています。内容は、書と門人についてです。ただし、昭和になっても昭乗については、絵画に関する論述が多く、松花堂筆の「山水画」、「竹雀図」、「慈鎮像」、「昭乗筆歌絵屏風」、「松花堂筆「宗祇像」などが『国華』誌上に掲載されています。
 そんな中、1929年(昭和2)に岩崎小弥太の「瀧本坊昭乗の書翰」が登場します。昭乗の書状に注目した初めての論文です。また、佐藤虎雄による人物論が「松花堂の研究」(『瓶史1935年秋号』、「松花堂昭乗」(『茶道全集』巻5、1936年)と題して発表され、1938年(昭和4)には単行本として『松花堂昭乗』が刊行されました。 f0300125_19175166.jpg
 ちなみに、1938年は昭乗の没後300年にあたり、同年に発行された『武者の小路』第3年第8号は、松花堂特集号として、茶の湯、建築、人物論に関する論文が掲載されます。同年の『茶道月報』334号も松花堂特集号として座談会が行われ、人物像、書、茶の湯など多角的に松花堂昭乗が取り上げられています。
研究史を通じて、なにがわかるのでしょうか。
 まず、どのようなことに関心が向けられてきたのかを探ることです。次に、何がどこまで明らかになっているのかを明らかにすることです。そうすることで、今後の課題が見えてくるのです。もう一つ、昭乗研究の場合、その背景として八幡での松花堂昭乗顕彰の動きがあることが重要です。以下にまとめてみました。
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(2)研究史から読み取るキーワード

松花堂昭乗をとらえるときのキーワードは以下のように整理されます。

【絵 画】
 昭乗の絵画は流派に属するものではなかったが、瀟洒な雰囲気をもつそれは、茶席などでたいへん人気があった。遺された作品についての作品論が展開されている。

【 書 】 
 松花堂昭乗は後世「寛永の三筆」と称され、寛永時代のみならず、江戸時代を代表する能書家の1人である。彼の書は、松花堂流または瀧本流と称され、江戸時代末まで継承された。彼の書をめぐっては、書作品をとりあげた作品論のほか、書流の視点からの論考がある。

【書 状】
 昭乗の自筆書状は少なからず伝存する。遺された昭乗の書状を解読し、その内容を分析することによって、書状は昭乗の伝記資料となる。また、書状に現われた筆跡は、作品を書す場合とは違った普段使いの書であり、昭乗の書風を考える重要な資料となる。

【人物像】
 包括的に昭乗の人となりについて説くもの。人物研究は、佐藤虎雄氏『松花堂昭乗』(1938年)によって大成され、後続の研究は、佐藤氏の研究に負うところが大きい。

【茶の湯】
 昭乗の住した瀧本坊には、昭乗の時代より前から茶の湯の伝統があった。昭乗は茶の湯を小堀遠州に学んだといわれる。瀧本坊には遠州と昭乗が語らい作った茶室(閑雲軒)が設けられ、度々茶会が催された。茶会には多彩な人たちが参加した。茶の湯を通して昭乗の人物像も浮き彫りにする。

【建 築】
 茶の湯に相関して、昭乗の住した瀧本坊、松花堂に対して、建築史の分野からも研究が行われている。

【門 人】
 松花堂昭乗の書を継承する門人たちは松花堂流または瀧本流の書家として論じられる。彼の直門である藤田友閑・乗因父子をはじめ、江戸時代中期に自らを中興の祖と位置付けた細合半斎のほか、昭乗の書を慕った橘千蔭などに関する論考がある。

【交 友】
 茶の湯や書などを通した昭乗の多彩な人的交流に関する視点。「寛永三年の式部卿昭乗」(矢崎格、1971年)など。この視点は、昭乗の活躍した近世初期の文化を端的に表わしている。つまり、寛永時代に代表される近世初期文化は、豊かな人的交流に支えられていた。一連の寛永文化をめぐる研究(『中世文化の基調』〈林屋辰三郎、1953年〉、『寛永文化の研究』〈熊倉功、1988年〉、『寛永文化のネットワーク―「隔蓂記」の世界―』〈岡佳子他編、1998年〉など)とも密接に関係する視点。

【文化圏】
 松花堂昭乗の住した男山には文化圏が形成されていた。「瀧本坊とその文化の源流」(橋本政宣、1971年)に代表される。昭乗を中心として、男山を拠点に行われた文化活動に関する視点。【交友】と同様、寛永文化を背景にした諸研究とも関連する視点。

【教 養】
 松花堂昭乗は石清水八幡宮の社僧であったが、僧侶は当時の知識人であった。昭乗も、仏教的な素養はもとより、学問的な幅広い知識をもっていたと考えられる。そういった知識に関すること。ひいては、昭乗はどのような書物を読み、どのように知識を形成したのか、といった視点につながる。

【出 版】
 松花堂昭乗の生きた江戸時代は、出版文化が飛躍的に発展した時代である。書流・松花堂流(瀧本流)が普及した背景にも出版による手習い手本の刊行が大きな役割を果たした。昭乗の書や絵画は、昭乗没後、出版文化の波に乗って、広く普及したのであった。

(3)今後の研究をめぐる課題

 これからの研究を進めるうえで以下の点からアプローチすることを提起します。
  ・未紹介資料や作品の発見 【絵画】【書】【書状】
  ・石清水八幡宮の社僧としての姿 【人物像】
  ・文芸や学問について【教養】
  ・松花堂弁当について【茶の湯】
  ・現代人と松花堂昭乗をつなぐ視点
  ・個別の作品論の展開
  ・真贋の問題
  ・書状の蓄積、データベース化
  ・「松花堂好み」とはなにか?
  ・松花堂顕彰の流れ 

おわりに  最近気になること

◆「松花堂昭乗自画像」について
 細合半斎の著した「男山栞」によると、もとは2幅あったという。そのうち一幅は安永4年の火災で焼失したとのこと。そして現存する一幅は「和泉坊と申松花堂隠居」にあるということで、半斎は拝見を希望したところ、「役僧福泉坊」の案内で、草庵「松花堂」の中で拝見の機会を得た。その折、「御詠歌を写し、一詩を奉」ったという。自画像の様子について、「墨画机上にとつこ(独鈷)、書物なと有、印二つ。瓢形又甕形なり」と述べている。

写しについての言及
 同じく半斎の「男山栞」に、松花堂昭乗自画像の写しについての言及がある。天明8年4月18日、男山鐘楼坊で松花堂百五十年御忌が営まれ、半斎も列席した。書院の上壇に「祖師御自画賛真影(泉坊蔵之、松花堂也)」が掛けられ、小座敷の床にも「同じく御像尊賛なし(景山写し也)」が掛けられていたことを記している。景山は狩野派の画家・小柴景山のここと思われる。この像は現在、泰勝寺に所蔵され、半斎は「賛なし」と記しているが現在は像の上方に賛が付されている。f0300125_20295950.jpg
 右に掲げた絵は、従来、松花堂の自画像とされてきたが、現在では疑問視され、釈阿(藤原俊成)像とする見方がある。

◆「寛永の三筆」の呼称について
 この呼称は明治時代以降に現れたものと考えられるが、現在では広く知られる語である。ただ、この語には多少の曖昧さがある。
 「寛永の三筆」にあげられる3人(近衛信尹、本阿弥光悦、松花堂昭乗)すべてが寛永年間(1624~1643)に活躍したわけではない。それぞれの生没年は以下の通りである。
 近衛 信尹(のぶただ) : 永禄8年(1565) ~ 慶長19年(1614)
 本阿弥光悦 : 永禄元年(1558) ~寛永14年(1637)
 松花堂昭乗 : 天正12年(1584) ~寛永16年(1639)
 この通り、三人ともに寛永期に活躍したとは必ずしも言えない。そこで、近衛信尹のかわりに信尋(のぶひろ・信尹養子)をあげる場合がある。信尋の生没年は、慶長4年(1599) ~ 慶安2年(1649)で、時期的にみて合致しそうであるが、それほどの能筆家であったかどうか。疑問の残るところである。
 こういったあいまいさの背景には何があるのか。考えてみたい課題である。
 江戸~明治時代の書物に現れる江戸時代初期を代表する三人の能書とその呼称は以下の通りである。
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 講演の後、以下の点について質疑応答が交わされました。
論点のみ紹介します。


松花堂昭乗の出自を巡る謎とその研究
「社僧」とは何か。昭乗の暮らしは何を収入源としていたのか。
昭乗には和歌や俳諧(連歌)、発句の作品が残されている。どんな傾向に位置付ければいいのか。
昭乗は江戸時代に、どのように評価されていたのか。
昭乗の交友関係が幅広いのは、人をひきつけるものがあったのだろう。昭乗はどんな人柄だったのか。

「一口感想」 より

今日の資料にあった「男山文化圏」とは何か。その事績や現代への影響はどうなのか。その成り立ちから消失までの経緯をお話していただきたい。  恩村政雄
「学ぶ」こと(研究)をはじめる基本は、「先行研究」が大切であり、それらの諸説をもとに、次代へと積み重ねていくという、川畑先生の言葉に説得力を感じました。  畑美弘
研究の対象とするものに関しての「先行研究一覧」を初めて見たが、これを作成するだけでも、いかに細部にわたって調べておられるかが良く理解できました。今後の学びの参考にしたいです。  野間口秀國
八幡の動きと研究史の関係が関連して聴くことができ、非常に興味深く、勉強になりました。  藤田美代子
松花堂昭乗についての調査・研究の書がたくさん出ていることにはびっくりでした。たくさんの人が研究されたことは昭乗の人柄にひきつけるものがあったのだと深く感じました。きょうの話とてもよかったです。 長井一詩 

文責  土井三郎
                                      


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by y-rekitan | 2015-05-28 11:00 | Comments(0)
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