◆会報第63号より-02 柏村直條

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《講 演 会 (会員発表)》

酒麹造りをビジネスとしていた八幡神人が
なぜ奉納詩歌に熱中したか?


2015年6月  松花堂美術館の講習室にて
柏村直樹 (会員 京都市在住)


 2015年6月24日、表題のテーマで6月例会が行われました。講師は、柏村直樹(かしむらなおき)さん。元禄期に、「八幡八景」を編集したことで知られる柏村直條(なおえだ)のご子孫で、三重大学の名誉教授(生物資源学部)です。退職後は、趣味でハーブの栽培と利用を楽しむために、自宅で分子ハーブ研究所を主宰しておられます。数年前から、八幡の歴史を探究する会や古文書の会八幡の活動にご参加いただき、石清水八幡宮の神人として活躍した柏村家の事績について探究を進め、「柏亭日記」の解読をはじめ、和歌・発句の研究に勤しんでこられました。例会時に、お手製の柏餅を持参なさるというユニークな面もおありの方です。
 2015年6月例会は、この間の柏村さんの研究の概要を発表していただくということで1年前に要請したものです。当日、柏村さんは「講演資料」として全40ページに及ぶ冊子を自費出版なされ、参加者に配布していただきました。今回は、それをもとに概要をまとめたいと思います。
 参加者は56名でした。

英文による講演の要旨とその和訳
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⦅和訳⦆
 何故に石清水八幡宮森村の神人たちは中世において酒麹の生産と販売を独占していたにもかかわらず、江戸期に奉納詩歌の編集に取り組むことになったのであろうか?   柏村直樹(三重大学名誉教授)
<要約>
 本日の講演は、直條の活動と八幡市内外の専門家と市民によってなされた、彼についての最近の研究に焦点があてられている。トピックは八幡八景、厳島コレクション、放生会(捕えられた生き物を放つ宗教的儀式)、そして、家譜および家系図に引用される直條と家族の歴史をふくんでいる。講演はまた、日本の酒造についての文献の写しと共に、40頁の小冊子と参考図書の展示によって補足されるであろう。(和訳は、歴探幹事の藤田美代子さんによる)

直條とその家族

 直條(なおえだ)は寛文元年(1661)に、柏村家39代として生まれた。父は直能(なおよし)。妹の眞は、後に連歌師里村昌純と結婚。直條の和歌・俳諧への接近が示唆される。f0300125_10335740.png寛文5年に、父直能に将軍家綱から朱印状が交付された。石清水に仕える神人として安堵(あんど)されたことを意味する。直能は、延宝(えんぽう)6年(1678)に、再興される石清水の放生会(ほうじょうえ)に参加している。代々柏村家は相撲神人であったが、この時の相撲神事は成らなかった。なお、直能は天和3年(1683)の安居神事(あんごしんじ)にも参加している。安居頭役としての出仕であろうか。
 貞享(ていきょう)元年(1684)、直條は、京都の先生のところへ弟子入りしてその修行から八幡に帰り、家督を継いだ。23歳と思われる。貞享3年には、河内国の王仁遺跡にて和歌奉納を懐紙に残していて、若い頃から和歌に親しんでいたことがわかる。翌年、息男の真直(まな・柏村家第40代)が生まれている。真直の母、つまり直條の妻は谷村新兵衛光利の娘である。
 元禄元年(1688)、隠居の身である父直能が、大納言近衛冬基に牡丹を進呈している。天下泰平のこの時期、内裏ではお花畑で花の栽培や鑑賞がさかんに行われたらしく、それが機縁で柏村家と朝廷との関わりが芽生えた。
 元禄3年、直條は放生会で大納言実業に和歌を献じている。
       石清水流れの末に月影の うつるも神の恵みとぞ知る
 元禄6年(1693)、直條は有栖川親王に千句連歌を贈呈している。これは川口村天満宮で興行されたものである。同年8月、直條は、醍醐冬基卿と有栖川親王に「八幡八景」を選定することを要請。12月に霊元上皇の認知するものとなった。そして元禄7年、直條や里村昌陸らとの「八幡八景連歌発句絵巻」が奉納されることとなった。同絵巻は、石清水八幡宮が所蔵し、平成19年(2007)に、京都府立山城郷土資料館が開館25周年を記念した特別展に出展され、図録「南山城の俳諧」に紹介されたことはつとに知られている。

見果てぬ夢に終わった奉納相撲

 代々柏村家は、相撲神事を司る相撲預禰宜(すもうあずかりねぎ)として奉公してきた家柄である。家康からの朱印状にもそのことが明記されている。直條も、何とか相撲神事を復活すべく奔走した。
 弟である尚誠が5代将軍綱吉の側近、柳沢出羽守吉保(よしやす〉に仕えるようになると、柳沢吉保を仲立ちとして石清水に相撲神事が復活するよう働きかけた。元禄9年(1696)に直條は、尚誠に手紙を送った。相撲復活を懇請するものである。以下に要約する。
奉納相撲はそもそも垂仁天皇の時代に興って今では内裏で7月に行われている。
後三条天皇が親王の時、石清水八幡宮に参宮のおり希望されたが、皇位につかれたときには、放生会での実施が難しくなり行われなかった。
南都春日若宮の祭礼の相撲は我が家系の者が派遣され実施された。
いつの頃からか下行米も減り、運営予算もないので、高祖父宗重の時代から実施されていない。
当八幡宮での相撲は巡検勾が担当するという記録もあり、最近は、この担当が善法寺家となっているが、名ばかりで実行されていない。
我が家系は昔、内裏から来る相撲人を預かり、左右近衛を付けて実施してきたが、放生会も廃(すた)れ相撲節会(すもうせちえ)も長い間行われておらず嘆かわしい。
田中央淸の願いがかなって放生会が再興されたので相撲節会を再興したい。だが、下行米がなくては実施できない。
相撲だけでなく、流鏑馬(やぶさめ)、舞楽、競馬(くらべうま)も絶え残念なことである。
 貴方は権勢著しい方(柳沢吉保)にお仕えしているので、これらの行事を再興できるようにお諮り願いたい。
だが、この手紙でも奏功せず、直條は、元禄13年(1700)に江戸に出向き要請活動を行っている。その後、相撲節会が石清水において行われた記録が見当たらず、復活されたことはなかったのかもしれない。

厳島八景

 正徳(しょうとく)元年(1701)、直條(なおえだ)は家督を眞直(まな)にゆずり隠居している。満年齢では40歳に相当し、現代の感覚からすれば早い隠居であろう。その後、直條は全国各地を巡るようになった。なかでも厳島神社には足しげく参詣し、厳島の光明院恕信なる僧との交友をさかんにし、厳島奉納和歌を興行したり「厳島八景」を定めたりしている。「厳島八景」については、早稲田大学図書館蔵のものがフリーダウンロードできる。題目は、以下の通りである。
 厳島明燈、大元桜花、瀧宮水蛍、鏡池秋月、谷原麇鹿、御笠浜鋪雪、有浦客船、弥山神鴉
 「厳島八景」については先行研究があり、朝倉尚氏の「厳島八景考-正徳年間の動向-」が参考になった。同論文から以下のことがらがわかる。
「厳島八景」は、正徳年間(1711~1716年)にさかんに詠まれ、近世における、宮島のみならず、芸備地方の文化の到達点が示されている。
和歌・漢詩・連歌(発句)、俳諧を内容としているが、作品量や成立事情については一様ではない。
選ばれた名所には、厳島を筆頭に、大元・滝宮・鏡池については神社とその一部で、谷原・御笠浜・有浦・弥山については、神社を中心にしながら、周辺の代表的な景観地として選ばれたと解される。
また、春、夏、秋、冬と羇旅、神祇を整然と配置していることがわかる。
厳島八景の景目の選定等の奉納の経緯については、直條による跋文を読めばわかる。その経緯は以下の通り。
正徳2年(1712)4月13日に、直條は八幡を出発し、20日に、厳島の光明院(恕信が住職)に投宿した。その後、厳島神社に参詣したり地元の名のある人々と交友を深め、連歌を興行したりした。同年6月に八幡に帰った直條は、京都の風早家を訪れたり冷泉家に赴いたりしている。
正徳3年3月、厳島奉納和歌20首題を冷泉家より得、諸卿に勧進。
正徳5年(1717)、厳島八景の和歌成る。同年、直條、宮島に至り、八景和歌を光明院に附す。恕信、八景和歌を神前に奉納す。
 上記のことから、直條が厳島に赴き、厳島八景に関わる和歌や俳諧などを地元の人々と詠み、それらの作品を携えて、京都の高家・堂上家を訪れた。その際、恕信も直條といっしょに上洛したと思われる。その目的は、「厳島奉納和歌」などの作者・協力者に謝意を表し、さらに速やかなる作品製作を督促することである。その作者・協力者のなかに、直條はもちろん、昌純・昌陸・昌築・昌億など連歌師里村家の面々、石清水八幡宮の神職がいた。恕信と直條による、これらの方々への懇願、督促によって「厳島八景」が成立したといえる。
 なお、朝倉尚氏の研究は、「厳島八景」の研究にとどまらす、「八幡八景」の先行研究としても意義がある。さらに深く検討したいものである。

中世八幡の「酒麹専売権」

 柏村氏は、相撲神人であるとともに、八幡森の有力者であった。江戸時代の朱印高によれば、八幡森町は山路郷に属し、320石余の石高を持つ。中世以来、薬園寺のお膝元で森氏や森元氏を中心に酒麹の生産と流通を担ってきたことはよく知られている。柏村家の系図によれば柏村氏も酒麹に関わり財をなしたことが考えられる。ここで、酒麹販売権をめぐる中世八幡の様子をいくつかの資料をもとに紹介してみたい。
 鎌倉時代から室町時代にかけて、京都には「座」という制度があった。これは言ってみれば、専売システムのことである。朝廷や有力な寺社などを本所として一定の利益を上納すると、営業の独占権や課税免除の特権が座商人に与えられるというシステムなのである。その「座」のひとつに、「麹座」というのがあったが、これは、酒に使う麹を独占的に扱う座である。京都の石清水八幡宮の刀禰(有力者)を皮切りとして、北野天満宮の神人らが専売権を設定して「麹座」を開いたとのことである。
 石清水八幡宮の麹座の活躍を示すものとして、次の資料がある。
 「寛元4年(1246) 石清水八幡宮の刀禰(有力者)・住民ら麹の専売権を独占する」というものである。詳しくみてみよう。
 「京都の南郊、石清水八幡宮領内の刀禰や住民たちは、寛元4年(1246)以前から麹の専売権を独占していたが、たまたま文永年間(1264~1275)、続いて徳治年間(1306~1308)の2回にわたり、河内国交野郡楠葉(現、枚方市楠葉)の住人が八幡宮境内四郷で麹を売ったことから騒ぎになったが、八幡宮社家の裁断で特権をそのまま保持することができた。」-『日本の酒の歴史-酒造りの歩みと研究-』(昭和51年1月発行、発行者、高田弘)

「八幡八景」成立の背景と直條の思い

 現在、目にすることができる「八幡八景」は、正徳6年(1716)に山田直好が写本したものと、賀川翠渓が昭和9年(1934)に写本したものが双方ともに、東京都立中央図書館に所蔵されているので、その全貌を窺い知ることができる。それらによれば、和歌・発句・漢詩編がおびただしく作られ、出詠に関わった人は、堂上公家・宮家から地元の歌人、五山・黄檗僧、連歌師、直條家族にまで及ぶ。
 題目はご存知のように以下の通り。
 雄徳山松/極楽寺桜/猪鼻坂雨/放生川蛍/安居橋月/月弓岡雪/橋本行客/大乗院鐘
 すべて石清水八幡宮が鎮座する男山とその周辺で、松、桜、雨、蛍、月、雪、行客、鐘が景物として取り上げられ、春から冬に至る季節と羇旅(きりょ)、釈教がテーマとなっている。
 その中で、直條が好んで詠んだ和歌・発句が「放生川蛍」のようである。放生川に蛍が飛び交う姿をともに想像してみたい。そして、現代の放生川に蛍が舞う日の訪れることを夢想したい。

    そのかみに誰か放ちて此川の たへぬ流れに蛍飛かふ

    うろくつも藻にかくれ得ぬ ほたるかな    「うろくづ」は魚の意。
以上

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f0300125_11435332.png 本講演は、史料が生でしめされており、翻刻がないものもあってわかりにくい面もありましたが、その点では配布された冊子やレジュメを読めばよいように配慮されています。あるいは、「年譜」や「家譜」、「略伝」を示してくださっていて、参加者の今後の勉強の便をはかっています。

 休憩を挟んで質疑応答が交わされました。論点のみを紹介します。
柏村直條は、どのような教養の持ち主であったのか。
相撲節会を実施したかったが叶わず、それで八景や和歌の制作にのめりこんでいったのか。
直條と厳島神社との関わり。直條が恕信と知己になった経緯。
柏村家と瀧本坊との関係はどのようなものだったのか。
直條が「放生川蛍」にどんな思いを重ねたのか。ちなみに、土井は、上記の和歌が、単に当時の情景を歌っているだけでなく、放生会(ほうじょうえ)が復活されたことを思い、放生川の流れを放生会の悠久の歴史になぞらえたものとして受け取った。
放生川蛍の漢詩編の訳について

 なお、柏村直樹さんから次の感想が寄せられました。
「当方の今回の率直な感想は、やはり「身内の話」はやりにくい、しかし、やってみて、また実際に多方面の参加者があり、図らずも「生前葬」の感じがした。それにしても、松花堂だけに魅せられて、あるいは八幡は行ったことがないのに、友人がきたのにはびっくりした。来年から5月12日、「直條サロン」で供養のお祓いと神人のセミナーを開こうとおもいますのでよろしく。」

『一口感想』より

以下に、当日寄せられた一口感想を紹介します。
ありがとうございます。柏村先生は佳いお仕事をなさいましたと感じ入りました。柏村家のご先祖への何よりの御供養と存じます。今日、先生がおすこやかな老年期を生きぬかれ、御自身の為、御家族の為、先生に御縁をいだく方々の為に仕合せな時間を共にさせていただき、有難いことと存じます。 (阿部千恵子)
素晴らしい資料、ありがとうございました。奥深い歴史にますます興味が増しました。じっくり復習します。有難うございました。 (竹内勇)
「八幡八景考」を歴探で制作して下さい。『歴史たんけん八幡』の次の出版の題材として!(伊佐)
いやあ、すごいです。よく研究されたものです。 (坂口守彦)
〔文責=土井三郎〕


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by y-rekitan | 2015-06-28 11:00 | Comments(0)
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