◆会報第63号より-04 松花堂昭乗

シリーズ「松花堂昭乗が詠んだ八幡の町」・・・①

松花堂昭乗が詠んだ八幡の町(その1)

 土井 三郎 (会員) 


はじめに

 2014年3月、松花堂昭乗研究所主催の研究会に、私は、「松花堂昭乗と俳諧の世界」と題して報告した。2013年8月21日付け京都新聞に、「東高野街道(八幡)に昭乗の俳諧」と題する記事が載ったことがきっかけである。八幡を詠んだ昭乗の俳諧(発句)13句が、街道沿いの八幡の古民家などに色紙で掲示されたことを報道したものである。竹製の額に貼られた色紙は今でも街道沿いの元酒店や呉服店、和菓子商の軒下などに掲げられている。
 昭乗が八幡の町を俳諧に詠んだことを知ったのはこれが初めてではない。数年前に、東高野街道八幡まちかど博物館の城ノ内ギャラリーで、昭乗の俳諧が短冊に掲示してあり、出典を同館主宰者である高井輝雄氏に伺ったところ、昭和13年に発行された『武者の小路』第8号に載った佐藤虎雄の小論「松花堂昭乗について」であることを教えてもらった。
 そこで、同書のコピー版を松花堂美術館からお借りして佐藤虎雄の上記論文を読んだ。
 その「はしがき」に、次の一文がある。
「昭乗の諸道に身を處するや、気魄豪快洒脱、しかも幽雅淳厚の情懐に遊んで悠然たるものがあった。之實に昭乗其人の薀蓄ある學問の力と高潔なる人格の表現である。されば國史に將又美術文蓺、殊に茶道の歴史に松花堂昭乗の名は没する事が出来ない。」
 印象深いのは、昭乗の「諸道」を紹介するのに、書道や茶道、画業とともにその文芸をも称賛していることである。そこで、「昭乗の風流數寄」の章に目を移すと、昭乗が八幡の街並みを俳諧に詠んだくだりが綴られている。
 「昭乗の風流數寄の思想は彼の和歌に詠ぜられ、交友と連歌を興行せしめ、或は紀行の詩歌に表れてゐる。彼は元来宗祇(そうぎ)を尊び、其の羇旅(きりょ)の吟行(ぎんこう)を慕ったものであろう。瀧本坊には江月(こうげつ)、澤庵(たくあん)の讃をした淡彩の宗祇像の立幅がある。昭乗は元和元年(げんながんねん)初冬八幡南畝より吟行して北野に至った。此時東方朔(とうぼうさく)が詞(ことば)をとって各地の光景を次の如く俳句に吟じたのである。」(ルビは土井が付す)
 上記の文章は吟味すべきことがらがあふれているが、後半部に立ち入って検討してみたい。
 元和元年(1615)は、その年の夏、大坂の陣で豊臣氏が滅んだことで知られる。豊臣氏お抱えの絵師、狩野山楽は難を逃れ、昭乗を慕って男山に逃れた。その時、昭乗は山楽をかばい、徳川幕府から詮議されたとのエピソードが残る。それはともかく、その時、昭乗は33歳(生年1584年では35歳)である。
 「八幡南畝」は八幡の地名を指すのであろうか。だが「南畝」なる地名は八幡に見当たらない。であれば、「畝」は耕地の単位であり、うねの意から南の田畑ととらえ、「北野」は、文字通り北の野原でよいのではないか。昭乗の生きた江戸時代、木津川の付替え前であり、八幡は北部が広く、野原が広がっていたことが想像される。また、北と南、畝と野の対句的表現なのかもしれない。要するに、八幡の南から北に吟行し八幡の各地を詠んだと解してよい、と私は思う。
 その際、「東方朔が詞」をとって詠んだのである。
 「東方朔」とは何か。 東方朔(とうぼうさく)は、中国、前漢の文人で、俳諧、風刺の才にすぐれて武帝に寵愛
されたという。すると、「東方朔が詞」とは、東方朔がよくした俳諧や風刺の利いた言葉を使ってという意味である。但し、昭乗の生きた時代に「俳句」という言葉はない。佐藤虎雄は、明治期に生まれた「俳句」を使用しているが、昭乗の生きた時代を思えば、俳諧ないし発句という言葉を使うべきであろう。

一、昭乗の俳諧の出典はいずこに

 前置きが長くなったが、昭乗の俳諧を解釈するうえでさらに吟味しなければならないことがある。その一つは、そもそも、佐藤虎雄がここで紹介する、昭乗の八幡を詠んだ俳諧が何を出典としているのか不明であるということである。
 今でこそ、俳諧といえば松尾芭蕉や与謝蕪村が想起されるが、昭乗の生きた時代の俳諧は、文学性の高い芭蕉や蕪村の作品が登場するはるか前の時代であり、「言い捨て」の文芸とされ、記録されることが殆どなかったといってよい。なのに、なぜ佐藤虎雄が昭乗の俳諧を紹介することができたのか。それが不思議である。せめて、佐藤が何を出典として昭乗の句を紹介したのかを明らかにしておいてくれれば、昭乗の俳諧について、今よりもっと明らかにすることができたものと思う。そのことが悔やまれてならない。
 では、昭乗の俳諧の作品は全く残されていないのか。松花堂美術館学芸員である川畑氏をはじめ、何人かの専門家に昭乗の俳諧の存在を伺った。その結果、以下の作品に巡り会うことができた。
   かげうつる きしのやまぶき 川の底
      (佐倉笑種『続古今俳諧手鑑』、元禄13年)
 ここでいう「やまぶき」は、山吹色の黄金の譬(たと)えなのであろう。
 もう一つは、寛文12年(1672)に出版されたとされる『俳諧塵塚』なる連句集である。その中に、「和漢」と称して、小堀遠州や大徳寺沢庵、江月、淀屋言当(二代目)など男山文化圏を担うメンバーに肩を並べ松花堂昭乗の句が見える。いずれ機会を得てこの作品集の背景や作品そのものの鑑賞を試みたいものであるが、今はこれ以上立ち入らないことにする。
 三つめが『男山考古録』である。考古録に昭乗の句が何点か残されているのである。しかもその作品は佐藤虎雄が紹介する八幡を詠んだ句と同じなのである。

二、作品の鑑賞と当時の八幡の景観

 昭乗の時代の俳諧についてもっと吟味したいところであるが、ここではそれを割愛して、さっそく八幡を詠んだ昭乗の作品の一つ一つを取り上げ吟味してゆきたい。昭乗の生きた時代の八幡の景観を明らかにすることが目的であるが、その中で、昭乗の俳諧の特徴を考えてみたい。

   淸水  夏ひえし淸水に冬は夏もかな
 清水(町)は、志水とも清水井とも呼ばれた。町の中心に正法寺がある。鎌倉幕府御家人である高田忠国が、石清水八幡宮の幣礼使(へいれいし)としてこの地に来住し、源頼朝から下知をうけて建久2年(1191)に正法寺を開いたという。のち高田氏は、清水に居住する縁で「しみず」に改称し、石清水八幡宮をはばかり志水を名乗った。そんな歴史的背景のある地であるが、清水という名があるように、清水が湧き出る土地であったようである。江戸時代に制作されたもので、f0300125_2145541.png
正法寺の境内にわざわざ「清水井」なる井戸が描かれている古図を見たことがある。
 発句を解釈すると、夏冷たい清水は、冬は夏のように暖かい、ととれる。電気冷蔵庫のない時代のことを記憶している方は、西瓜やビールは井戸水で冷やしたことを覚えているだろう。地下水は夏涼しく爽やかなものであった。そんな井戸水が、冬にはそれほどの冷たさを感じさせないものであった。但し、以上の解釈に自信がない。別の解釈があるのかもしれない。

   神原  酔て人かはら走るや千鳥あし
 これは、比較的解釈しやすい。河原に千鳥はつきものである。だが、千鳥は千鳥でも千鳥足なのである。酔っ払いを登場させるのは雑作がない。だが、神原なのになぜ「かはら」(河原)なのか。しかも、この酔客は走っているのである。なぜ走らないといけないのか。この辺りの地名にその謎が隠されているようである。「神原」は、現在、交差点の名前にある。そして、その交差点の近くにあるバス停は「走上り」である。「神原」と「走上り」の地名のいわれを探ってみた。
 『男山考古録』14巻をひもとく。まず神原であるが、神原は「かみはら」とは呼ばれず、「カワラ」と呼ばれていた。すなわち、「神原と書ても今里俗常にカハラというそ、却て正しかりける」。河原とあるからには、この近くに川が流れ、河原が存在していたことになる。f0300125_21193316.png
 同じく『考古録』14巻に、「谷川」の項があり、「水源は西山腰折谷より来りて、志水町と神原町堺也、俗に馳上(ハセアガ)りといふ所に出て、東田の中を流れて前にいふ泪川の筋へ注入也」とある。ここでいう谷川は、八幡市が「ひだまりルート」と名付けたハイキングコースに沿って流れる、川幅2mほどの小川に相違ない。
 「西山腰折谷」は、昭文社「都市地図-八幡市」(1:15000)の地図で確かめると、男山リクレーションセンターの南側に当たる。そして、その谷川が流れつく、今の交差点のあたり(志水町と神原町の堺あたり)が「馳上り」と呼ばれていたのである。
想像するに、この谷川は、今ある小川のような印象の川ではなく、河原もあり、川幅もそこそこあった川なのではなかろうか。もちろん今のようにコンクリートで覆われていない。
(続く)

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by y-rekitan | 2015-06-28 09:00 | Comments(0)
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