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◆会報第64号より-04 光格天皇の生母

第119代光格天皇(明治天皇の曽祖父)

大江磐代君(おおえいわしろのきみ)とその母



丹波紀美子(会員)


 八幡の歴史とは直接関係は無い光格天皇の生母とその母を取り上げたのは、私の故郷の鳥取県琴浦町にその源があり、数奇な運命を辿った母子の存在を知って欲しかったからです。強いていえば、その事実について、特に、光格天皇の祖母といわれる大鉄屋お竟(きょう)こと「りん」の存在が、公式では認められていないこと(倉吉市博物館ホームページなどを見ると、氏素性が分からないとか“焼き餅屋のおりんさん”との伝承がある等と書いてある)に、一種の苛立ちを覚え、当時の時代的背景を含めて是非知って頂きたかったからです。
 この資料の存在を知ったのは、お竟(きょう)の実家である大鉄屋が、倉吉淀屋や大阪淀屋〈後期淀屋〉こと淀屋清兵衛家とは廻りまわって親戚関係にあることからです。
(倉吉淀屋の事をご存知ない方の為に・・前期淀屋といわれる大坂淀屋の4代淀屋重当は財産分割の為、腹心の番頭・倉吉出身の牧田仁右衛門に倉吉に店を持たせた。そこから発したのが倉吉淀屋で59年後、倉吉淀屋の3代目の子どもが大坂に出て淀屋清兵衛と名のり、前期淀屋と同じ場所に店を構えた。これが後期淀屋です。)
 なお、光格天皇は、その在位中に石清水八幡宮の臨時祭を約380年ぶりに再興させたり(文化10年3月)、加茂神社の臨時祭を翌年11月に約350年ぶりに挙行させたりしています。(臨時祭は 明治3年通達により廃止)

◆会報第64号より-04 光格天皇の生母_f0300125_2102488.jpg 光格天皇の生母、大江磐代君の生まれは今の鳥取県倉吉市です。
 磐代君の母「りん」の存在は長い間、伏せられていました。ましてや磐代君でさえ光格天皇の生母だと正式に系図に載ったのは磐代君没後65年経った明治10年のことでした。
 磐代君の母「竟(きょう)(りん)」は伯耆国(ほうきのくに)倉吉(くらよし)の大鉄屋こと堀尾與左衛門(よざえもん)の妹です。堀尾與左衛門というのは松江城主であった堀尾吉晴から数えて六代目に当たります。堀尾家は吉晴の孫の忠晴に嗣子が無く三代でお家断絶になりましたが、吉晴の孫にあたる菊姫が家臣と共に今の鳥取県琴浦町箆津(のつ)の大庄屋・河本家へ引き取られ、成長した後、河本長兵衛と結婚しました。その嗣子・與左衛門(堀尾家初代)は、鉄山経営者の娘と結婚し、寛文10年(1670)春に旧家臣と共に倉吉鍛冶町に移り、鉄の卸商売を始めました。(鍛冶町は、足踏み稲こきが出来るまでは“稲こき千刃”をつくる多くの鍛冶屋があり賑わっていた)
 大江磐代君の父、岩室常右衛門〈宗賢〉は鳥取藩主池田家の家老・荒尾氏の家臣で、禄高150石の侍でした。大鉄屋の「竟(きょう)」と恋愛の末、結婚し名前を「りん」と改めました。「りん」は鉄屋小町といわれるほどの美人で、武士と裕福な商人の結婚であったため、色々取り沙汰されたといいます。裕福な商家の娘が経済的にゆとりもなく、自由のない武士へ嫁がせることに心配した両親や兄たちの反対があったともいわれています。今まで伝えられているように武士と町人の身分の隔たりで岩室家の反対のように記されていましたが実際は大違いであった旨を堀尾家の子孫は伝えています。
 岩室常右衛門〈宗賢)は医者になるため実母と身重の「りん」を残して寛保3年(1743) 31歳の時に京に上りました。延亨元年(1744)に生まれた「鶴」は、母「りん」・大鉄屋の祖父母・岩室の祖母に愛情一杯、何不自由なく大切に育てられました。その頃、大鉄屋の人々によって鶴の為に書いた百人一首のお手本などが残っています。
 宗賢はそれから9年後、倉吉に帰って来ましたが、宗賢の母が年老いて上京することを拒み、「りん」も義母の世話をするということで、やむなく宗賢は母と妻を大鉄屋に頼み不本意ながら娘・鶴一人を伴って宝暦2年(1752)再度 京に上りました。
 父は娘の養育を友人で禁中御使番の伊駒守意(本姓大江)の妻・壽仙に託し、礼儀作法、教養全般の教えを受けました。この頃から名前を「鶴」から「大江とめ」に替えたのかも知れません。(彼女は安永元年(1772)29歳の頃まで「とめ」といい、安永4年(1775)32歳まで「かく」、安永5年(1776)33歳まで「交野(かたの)」、安永6年(1777)34歳より寛政6年(1794)剃髪するまで「磐代」、剃髪以後は「蓮上院」と称した。)一時は乞われて、小田右衛の養女になっていたこともありましたが、3年ほどで「自分の子としてはもったいない。身分違い」と不縁となったという逸話も残っています。京に上って7年後の宝暦9年(1759)16歳の時、元、宮中の最高女官であった即心院(藤原保子)に仕えるようになりました。その才能や美貌、教養が中御門(なかみかど)天皇(114代)の皇女で籌宮(かずのみや)成子(ふさこ)内親王の目にとまり、即心院が亡くなった明和3年(1766) 23歳の時侍女となり、成子(ふさこ)内親王が閑院宮(かんいんのみや)典仁(すけひと)親王に嫁ぐと、「とめ」も成子(ふさこ)内親王と共に閑院宮家に出仕しました。
 その後、閑院宮(かんいんのみや)典仁(すけひと)親王の側室となり、「とめ」が仕えるようになって5年後の明和8年(1771)5月、成子(ふさこ)内親王は亡くなり、その3ケ月後の8月15日に、 「とめ」は男の子を出産しました。とめの第1子で閑院宮(かんいんのみや)典仁(すけひと)親王の第6皇子ですが、後に119代光格天皇となる祐宮兼仁(さちのみやともひと)親王の誕生です。翌年(明和9年)には第2子寛宮盁仁(ひろみやえいにん)親王をもうけ、その後に3人の皇子をもうけましたが、その3皇子はいずれも夭折しました。(安永3年(1774)第3子精宮(きよのみや)、安永5年(1776)鏗宮(かたのみや)、安永7年(1778)には第5子健宮(たけのみや))

 安永8年(1779)大江磐代にとって思いがけないことが起こりました。118代後桃園天皇が22歳の若さで急逝され、残された欣子(よしこ)内親王はまだ1歳でした。皇女に見合う相手探しとなり、典仁(すけひと)親王と大江磐代のお子・祐宮(さちのみや)が後桃園天皇の養子とされ、安永9年(1780) 12月に 9歳で祐宮(さちのみや)の天皇即位の大礼が行われ、晴れて119代光格天皇となられました。その後、現天皇まで直系で続いています。
 光格天皇(孝明天皇の祖父)は、その後、幕府の松平定信に対し、父の閑院宮(かんいんのみや)典仁(すけひと)親王に太上(だじょう)天皇の尊号を与えて欲しいとの『※尊号事件』を起こして却下されますが、この事件は尊王倒幕運動の下地を作ったといわれています。在位は1780年~1817年。(1771年生~1840年没)

◆会報第64号より-04 光格天皇の生母_f0300125_2174843.jpg 磐代の第2子・寛宮(ひろみや)盈仁(えいじん)親王は天明2年(1782)聖護院門跡となります。
 寛政6年(1794)、閑院宮典仁親王が亡くなると磐代は出家して[蓮上院]と名乗り、聖護院門跡の屋敷の近くで静かに余生を送りますが、文化9年(1812)年12月9日波乱に満ちた人生を閉じました。享年69歳。亡骸は蘆山寺に葬られています。

 安永4年(1775) 秋、磐代君32歳の時,祐宮兼仁(さちのみやともひと)親王(後の光格天皇)七五三のお祝いに招かれて、堀尾一家5名(母・きょう53歳、伯父・與左衛門59歳、いとこ・喜兵衛、同妻、喜兵衛の娘)が、「りん」の夫・岩室宗賢と共に閑院宮家で親王にお目通りが許された時の『覚』(目録)が堀尾家に秘蔵されています。
それによると
金百疋、御樽さかな・・・御旦那様(伯父與左衛門)
御扇子・・・若旦那様(いとこ喜兵衛)
金 百疋・・・御奥様
草履・・・御じょう様
銀 壱包・・・御竟さま(母 きょう)
銀札 壱封・・・御家来衆
同 壱封・・・御女中
同 壱封・・・御女中
 とあります。目録も結婚前のお竟(きょう)と書き、その他の人は名前を記されていません。この覚え書きは磐代君の直筆と伝えられています。
◆会報第64号より-04 光格天皇の生母_f0300125_21104088.jpg 拝謁の様子は、祐宮(さちのみや)は御簾(おみす)の中で、磐代君は緋(ひ)の袴(はかま)に白い上着を着られ、「遠路わざわざご苦労さまでした.道中くれぐれも気をつけて・・・・」とおっしゃったと伝えられています。
 年老いた宗賢の母がいるため、心ならずも九歳の「鶴」を夫に託し、倉吉に残って姑の世話をし、ついに京には上らないままの余りにもかけ離れた二十余ぶりの親子の対面でした。我が子の鶴は磐代君となり、懐かしい言葉を交わすこともなく、孫は恐れおおくも雲の上の兼仁(ともひと)親王であり、想像することすら出来ない身分の違い、環境の違いを身近に体験し、倉吉で夢にまでみて片時も忘れる事の出来なかった娘の姿を目の当たりにした時,総ての思いは飛び去り大変な衝撃を受けたことでしょう。一同もおなじ思いだったことでしょう。

◆会報第64号より-04 光格天皇の生母_f0300125_21145928.jpg 一行は京都を去る前、お寺まいりをして帰ったと伝えられています。そのお寺は堀尾家改易後、亀山6万石の城主の石川家が堀尾一族をお祀りした京都妙心寺の塔頭・春光院です。(※堀尾吉晴の長子が亡くなった時、吉晴が天正18年(1590)建立した寺で息子の戒名をとり「俊巖院」であったが、堀尾家3代忠晴が寛永10年(1633)病死し断絶。忠晴の息女が石川廉勝に嫁していて、子の石川憲之が寛永13年(1633)に春光院とした)
 兄・與左衛門は翌年(安永5年・・1776)60歳でこの世を去り、「りん」は7年後に同じく60歳で旅立ちました。「りん」が亡くなった時、甥の喜兵衛が葬式をして堀尾家の菩提寺に埋葬しました。「貞誉遊林信女。俗名、きょう。六十歳。天明卯年八月初八日。與左衛門妹。」これが大蓮寺の過去帳に記されている内容で、墓石もあり、堀尾家では今もお祀りをしています。
磐代君が「りん」に贈られた歌の中に
くもらくも みな夢の世を いたづらに
何をうらやみ 何をなげかん
れんたいに をりてやゆかん 西の空
そのたらちねとおなじ蓮(はちす)に
 真実を知る人もなく、「りん」は大蓮寺の両親の墓の傍らに静かに眠っています。

 伝えによると、死後まもなく京都の岩室宗賢の希望で「秋室貞光信女 天明三年八月二十三日」と戒名命日も変え、歳すら記されず、両家とも関係のない宗派である大岳院に墓が移され、それきりとなりました。当時、大岳院や大蓮寺にはことの経緯を何も話をしていませんでした。

◆会報第64号より-04 光格天皇の生母_f0300125_21203125.jpg 一方、大岳院では誰も顧みなくなり埋もれていたのを、後に大江磐代君の生母と分かって、大岳院は「照月院」と「大姉」号を付け、「照月院秋室貞光大姉」と戒名変更がされました。
 その後、うち捨てられ草深く埋もれていたのを、昭和7年(1932)に町の有志によって掘り出され、大岳院の山門脇に安置し、昭和7年9月23日、りんの百五十回忌供養法要が盛大に行われました。
 「大江磐代君御誕生碑」は倉吉市港町337番地に建っていますが、これは岩室家の住居のあった所で、“実際は「りん」の両親のいた鍛冶町の大鉄屋の家で生まれた”と松山氏はその著書に記しています。
 江戸時代、磐代君の母は庶民の出ということで痕跡のないほど隠されてしまいました。大鉄屋こと堀尾家も一切この件に関しては口を閉ざしてきたといわれていて、近代になっても色々の憶測で書かれ、筆者(松山治美氏)がそれらを払拭し、隠された「りん」の名誉のため書いたと、その著書で語っています。

 最後に冊子の著者 (松山治美氏)が「りん」の心情を思い、公表を決意された文章を転載して終わります。
 『光格天皇(祐宮兼仁(ひろのみやともひと)親王)を閑院宮(かんいんのみや)典仁(すけひと)親王妃であらせられる籌宮(かずのみや)成子(ふさこ)内親王の御子にするために亡くなられた明和八年五月十二日より以前の三月十二日生まれに繰り上げられ、八月十五日誕生日と御生母の磐代君を[公]の面より隠してしまったのであります。そういう関係の時期に堀尾一家は内々に拝謁を賜わりました。「りん」との関係も[公]に出来ず、「りん」の素性も世間に全く分からないようにしてしまったのであります。宗賢、りん、磐代君、堀尾一家は総てを心得て、ひた隠しに隠し、絶対に口外してはならないという厳粛なものがありました。 その間 故郷で夫と別居し、姑の最期をみとり、堀尾家の当主の甥 喜兵衛(当時 目代)から目立たぬように何かと経済的な援助を受けつつ、孤独で一生をおえた「りん」の心情は察するに余りあるものがあります。万感の思いをこめた磐代君より「りん」に宛てたお手紙を読むにつれ、子孫の私達もこの事情を隠しきれなくなりました』
 
※参考文献は、堀尾家子孫にあたる松山治美氏の『蓮上院(大江磐代)と大鉄屋〈掘尾〉』の冊子及び倉吉博物館のホームページ。
― 終 ― 空白いっぱい

                                 

※尊号事件・・・
 光格天皇は即位早々から、実父の閑院宮典仁(すけひと)親王に『太上天皇』の尊号を宣下したいと考えていた。親王の地位は公卿より下の為、天皇の父でありながら公卿に頭を下げる立場であることが忍びがたく、寛政元年(1789)に太上天皇の尊号を贈りたい旨を幕府に申し入れた。しかし松平定信ら幕府閣僚は先例が無いと反対し、先例は2件あると反論するも、松平定信は戦国時代の非常事態の例だと再び拒否。業を煮やした光格天皇は寛政4年(1792)尊号を贈ることを強行しようとした。しかし幕府との関係を憂慮した前関白鷹司輔平(典仁の弟)らの説得で閑院宮典仁親王に一千石加増と引き換えに尊号を断念させた。この件(尊号を贈ることを強行しようとしたこと)に激怒した松平定信は、天皇側近の中山愛親(なるちか)、正親町(おおぎまち)公明(きんあき)を江戸に召喚 尋問し、閉門 蟄居処分にした。
 同じ時期、幕府内でも11代徳川家斉が実父の一橋(ひとつばし)治済(はるさだ)に対し『大御所』の尊号を贈ろうとしたが、定信は朝廷に対し尊号を拒否している手前、将軍に対しても拒否せざるを得なくなり、家斉の機嫌を損ね、事件後に松平定信は失脚、辞職する原因の一つとなった。
 尚、光格天皇の父の閑院宮典仁親王には、明治17年、明治天皇から直接の祖先に当たるとして、慶光(ぎょうこう)天皇の諡号(しごう)と太上天皇の称号が贈られている。
 尊号事件の後、中山愛親(なるちか)、正親町公明(きんあき)、光格天皇の結びつきは強くなり、尊王攘夷運動に走っていく。又3人の結びつきは正親町公明の孫の正親町雅子が光格天皇の子・仁孝天皇の典侍に入って孝明天皇を産み、中山愛親(なるちか)の曾孫(ひまご)の中山忠能(ただやす)は明治天皇の生母である慶子(よしこ)の父に当たる。
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天皇、正親町家、中山家の系図は下記の通り
◆会報第64号より-04 光格天皇の生母_f0300125_214863.jpg

by y-rekitan | 2015-07-28 09:00
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