「歴史たんけん八幡」 制作委員会 さる7月15日、八幡市市民共働活動センターを会場に、表題の講座が開かれました。今回の報告は、二つのテーマを取り上げました。概略を紹介します。参加者30名 中田孝子さん (ふるさと学習館ボランティア会会員 ・元八幡市立有都小学校教諭) 金右衛門遺跡から、旧石器時代~縄文時代の石器がみつかった。石匙(携帯用の石のナイフ)・石錘(釣りに使用する石のおもり)・石鏃(石で作った矢じり)である。このことから獣や鳥を弓で射て、湖や川に生息する魚を捕り、石のナイフで切り裂いて食事していた人々がいたことがわかる。 内里八丁遺跡から、田んぼのあぜの跡や稲の根の跡などがみつかった。他にも、木の鍬や田下駄、稲の穂を刈る石包丁、つぼやかめの土器、いくつかの竪穴住居跡がみつかっている。このことから、米作りが集団で行われていたことが推測できる。また、このような遺跡は全国的にも珍しい貴重な発見である。 前期から後期にかけて以下のような古墳が存在した。 〈前期〉
八幡における古墳の変遷をみると、前期は西車塚古墳など大型の古墳が造られ、大きな勢力をもった支配層がいたと思われる。副葬品をみても鏡や勾玉、管玉、石釧などの装身具が多い。中期になると規模が小さくなり、東車塚古墳と王塚古墳の副葬品は、鉄製品の武器や甲冑など武具が多くなる。後期になると、小さな単位の群集墳に変わっていく。そのころ、仏教の伝来により、皆山廃寺などにみられる寺の建立が行われ、埋葬のしかたに変化が見られるようになる。 楠葉平野山窯跡が発見。四天王寺の瓦が焼かれた。素弁蓮華文軒丸瓦が出土。 この時期、八幡では3つのお寺が建てられた。
御園神社の周辺に、天皇家の「御園」「奈良園」と呼ばれる菜園があった。ウリ・ナス・ダイコンなど朝廷に納める菜園であったと思われる。また、役所(官衙)の跡らしいものが現われ、掘立柱の建物や墨で文字を書いた土器、ベルトの飾り(石帯)なども出土された。 また、古代の官道として、山陰道に内里八丁遺跡が重なり、山陽道に、美濃山廃寺・志水廃寺・西山廃寺がそれぞれ建立されていた。但し、山陰道は木津川の氾濫により官道として機能しなかったこともあるとのことである。 野間口 秀國さん (八幡の歴史を探究する会幹事) 淀川水系の流域関係府県は2府4県にまたがり、佐々里峠(京都府)を水源地とする桂川、栃の木峠(滋賀県)を水源地とする宇治川、青山高原を水源地とする木津川が八幡で合流し淀川となって大阪湾に注いでいる。八幡市内を流れる大谷川も淀川水系に属する。 約2200年前~1700年前の弥生時代から水を有効に使える場所で遺跡が分布されるようになった。川沿いに住むことで、稲の耕作が可能となり、飲料水など生活用水が確保でき、船の利用を通して運搬手段が確保できるようになった。一方で、洪水や内水被害の危険性、敵の侵入などに備えなければならなくなった。 1714年(正徳2)5月28日、蜻蛉尻川(現在の防賀川)筋の上奈良・内里両村と下奈良村の境の地点で堤防が切られ、あふれた水は下流域に押し寄せた。 堤切りにいたる要因として考えられることがらは以下の通り。 ①慢性的に水が滞留しやすい地形であった。 ②上流からの土砂で川底が上がり、両岸の樹木も水流の妨げになっていた。 ③川幅が狭かった。 ④当該事件の発生年は大雨続きで、すでに田畑は水の飽和状態であった。 ⑤過去にも洪水が多く発生していた。 被害をこうむった村の代表は、八幡宮当職に堤を切った犯人を詮議するよう訴えたが詮議が進 まず、同年6月18日には京都町奉行所に訴状が提出された。審理は長引いた。その理由として、当該の村々が八幡神領、淀藩領、皇室・公家領、幕府領などと錯綜していたこともある。一応の解決をみたのが10か月後であった。この争いの経験と知恵が、明治維新直後の木津川付け替えを推進する要因となったのではないか。 八幡には、木津川・淀川にそれぞれ以下の渡し場があった。 木津川・・・・岩田、上津屋、下奈良、川口・生津 淀 川・・・・狐川、橋本、三国 船は長さ約11.7mで幅は約1.8mである。 渡し船には往来人の通行のための有料の渡し船と、両岸に耕作地を有する農民が農作業するために利用する無料の渡し船があった。 船頭は、村から募集されたが、彼らは仕事に関わる決まり事を守るための契約書を村役人に提出した。 橋本の渡し船の場合、運賃は、普通の水位のときで一人3文、水位が4~5尺(1.2~1.5m)で12文、6尺(1.6m)になると30文に跳ね上がった。 橋本の渡しを渡って大阪市内へ通勤したり、高槻駅に鉄道小荷物を預けたりするなどの思い出を残し、1962年(昭和37)、鉄道や道路に役目を引き継ぎ、橋本の渡しは廃止された。 長い年月の間、通運、灌漑、農作、漁労など生活全般にわたって多くの恩恵が得られた木津川であるが、上流からの土砂がたまり洪水、浸水、堤切れなど被害も甚大であった。 明治新政府は、財源不足を抱えつつも、洪水問題の解決と鳥羽・伏見の戦災復興による民意高揚を期待して木津川の付替えを打ち出した。治水政策を新政府の目玉とすることで民衆の支持を確保しておく必要もあったのである。 そこで、1868年(明治元)10月に川ざらえを布告。11月には、現地事務所や管轄する部署の設置がなされた。しかし、常盤、美豆、川口、生津、際目の村々から付替え計画の中止を求める嘆願書が出された。工事を推進する京都府は、代替え耕作地の確保や飛び地の発生による不利益や不便性などを解決するための具体案を提示するなどして説得を続けた。その結果、翌年から工事が推進され、新堤防が完成。明治2年11月には下奈良堤防で水神祭が行われ、旧木津川を堰き止め、翌3年1月にはすべての工事が完成した。
by y-rekitan
| 2015-07-28 07:00
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