◆会報第66号より-02 江戸時代の村

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《講 演 会》
江戸時代の村の暮らし


2015年9月  八幡市ふるさと学習館研修室にて


 2015年9月例会(講演と交流の集い)は、16日(水)ふるさと学習館2階研修室で開催され、「江戸時代の村の暮らし」のテーマで、伊佐錠治さんと出口修さんにお話しいただきました。お二人の同時講演は初めてです。
 これは、9月1日に当会から発行された「歴史たんけん八幡」の第11章「江戸時代の村の暮らし」は、お二人の著述が同じ章にまとめられているためです。江戸時代の村の暮らしについて、上記誌上では書ききれなかった内容について、伊佐家、文化財保護課に残る古文書をもとに講演していただきました。以下要旨のみ記します。参加者は57名。

第Ⅰ部「上津屋の村の暮らし」

伊佐 錠治 (伊佐家当主・「NPO法人 全国重文民家の集い」会員)

1、上津屋村の集落組織

 上津屋村は、野尻、岩田、戸津、上奈良、内里、大住、松井、美濃山新開で構成された九ケ村の一つであり、この九ヶ村は御蔵入りの組合村として一括統治されていた。上津屋村は4株、三方角であり、4株は浜、里、三条家、大炊御門家。三方角は浜方、里方、東向。四株ではその年の代表は年番制になっていた。浜方と東向は親郷と枝郷の関係にあった。これは山間部ではよくあったが、平野部では珍しいことである。木津川が真ん中にあり、庄屋が浜方にあったためと思われる。石高は里、浜は同じくらいで約300石、三条家、大炊家がそれぞれ約200石。家数は181軒で、「歴史たんけん八幡」の数字とは違うが、年度のちがいである。
f0300125_943770.jpg 木津川の船着き場は長さ100メートル弱、橋本、上津屋、木津が三大船着き場であり、上津屋の船着き場は大変盛んであった。船の傷みは激しくて、伏見の船問屋に新しく注文したが、10年かかり代金は、銀1貫200匁だった。船の長さは約10メートル、幅は2メートル弱、板の厚さは3センチという記録が残っている。延宝5年(1677)の地図が残っている。木津川の港に石はねという建造物が描かれているが、これは流れを止めて、船が着きやすくしたものである。(古地図、絵を使っての説明がありました)

2、村の年中行事ときまり-格式日記から

 格式日記とは、村の行事を毎年書き記すもの。伊佐家には1800年頃から明治20年頃までの日記が残っている。長帳で一年に一冊ではないが、天保10年の日記では1月1日の氏神様へのお参りから12月大晦日まで細かく記されている(詳しくは「歴史たんけん八幡」57ページを参照)。左義長は現在上津屋では行われていない。伊勢講は大切な行事で伊勢のおかげ参りに行く行事。日記では23人の男女が18日に出発して翌日にはお伊勢さんに参拝しているが、こんなに早く着けたのか。日待講は現在も続いている。これは豊穣、健康を祈って朝までご馳走を食べながらお祝いし、日の出を待って解散する。現在は夕6時頃集まり夜11時頃には解散。食事も弁当で済ませ、今年からはどこかの料理屋で行うようになるかも知れない。
 愛宕山参りは天保10年の日記では2月11日のことが書かれている。年三回、当番を決め二人ずつで、一軒から5文ずつ集め、正月は浜、五月は上津屋、11月は浜が担当してお札(ふだ)を貰って帰っている。今は山に登るのが大変で、お金を送ってお札を郵送して貰っている。
 年間の休日は、村の決まりとして執り行なわれていた。元旦から始まり年25日あった。閏年があったので年により日数も変わっていた。
 地蔵盆は今でもしっかり行われている。浜上津屋にあるお地蔵さんに、こどもたちはゆかたを着て集まり、村の人が導師になって、数珠くりをしてお祈りをする。

3、庄屋の暮らし-歴代日記から

 (享保19年の屋敷の古図を使って説明がありました。)
 (藪入り、節句、餅つきの日にちについては「歴史たんけん八幡」55ページ参照)。
 藪入りは、正月と七月に行われる。日記には、奉公人「いく」が7月に藪入りしている記録がある。三泊四日の許しで実家に帰り、1月から6月までのお給金として37匁半を貰っている。その他前垂れ、さば代50文、ビードロのかんざし等を貰っている。藪入りは奉公人だけでなく、嫁いできたお嫁さんにも与えられていた。節句は三月の雛飾り、五月人形飾りが盛んに行われた。餅つきは今も残っている冠婚葬祭用の大きな竈で二時間ぐらい蒸して作った。
 また、庄屋が村の行政指導者として近辺のことに目を配っていたと思われる記録が日記にあって、慶應4年の鳥羽伏見の戦い、いわゆる八幡合戦、神領の殺生禁止令、廃仏毀釈、放生会などにも触れられている。

4、村を支えた農産物

 順気作物明細帳、毎年農方立毛取込帳には、年ごとの収穫物、毎年の気候が書かれている。(詳細は省略)多種類の農産物とそれらの収穫高が記録されている。
 島畑というものがある。田んぼの中を一段高くして畑の作物を作った。今は少なくなって、二、三年後にはなくなるかも知れない。「歴史たんけん八幡」に載っている写真は貴重な資料になると思う。

5、暮らしに潤いを求めて

 公儀からの禁止のお達しが多い中、相撲興行、浄瑠璃、芝居、お蔭参り(ええじゃないか)など盛んにおこなわれた。
 最後に一言。夏目漱石は、「木を彫って仏像を作ると言うことは、作像するのではなく、木の中にある仏さんを木を削って取り出すことである」といっている。歴史は既にあるものを探しだすこと。「歴史探究」の「探究」とは「物事の真の姿をさぐって見きわめること」の意であるが、「物事」を「歴史」に置き換えると「八幡の歴史を探究する会」はすばらしい会であり、これからも八幡の歴史をたくさん探し出して、我々に紹介していただきたい。

民具のクイズと解答

 伊佐さんから民具についてのクイズが出題されました。江戸時代の民具の写真を見て答えるもので、正解者には、金賞、銀賞、銅賞が与えられました。次の写真を見て、名前と、何に使う物かお考えください。
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蘭引き・・・アルコールなどを蒸留する装置。
図写器・・・地図の縮尺に用いる道具(使用法は不明)。
香時計・・・写真上部には、格子の下に灰が詰まっており、灰の上に右側写真の箱を載せて線上の筋にお香を詰める。箱を引き上げるとお香が灰の上に線上に残るので先端に火をつける。すると、燃え始め、燃えおわるまでの時間で時計の役目をする。その間、香りを楽しむことができる。
携帯枕
携帯燭台

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第Ⅱ部「美濃山の開発」

出口 修 (八幡市ふるさと学習館)

1、古代遺跡の宝庫

 古代の美濃山は埋蔵文化財の宝庫のような場所で、金右衛門垣内遺跡等があり、八幡に人類が足跡を残した最初の地と見られる。以下、箇条書きで示してみたい。
二上山と同じサヌカイトを使用したナイフ形石器(石破技法)が発見されているので、生駒山系と同じ流れと考えられている。
縄文時代のものと思われる切目石錘(魚などを採る道具か?)が発見されている。
弥生時代の中期の土器と多量の石鏃や石包丁のほかに、磨製石剣の断片が発見されている。
美濃山廃寺の下から弥生時代の住居跡が出てきている。美濃山廃寺下層遺跡として、弥生時代の後期と考えられる34棟の住居跡が確認された。
美濃山大塚古墳は前方後円墳で5世紀半ば頃のものと思われ、甲冑・刀剣類が多く出土している。
荒坂・女谷・狐谷などでは、斜面を利用した横穴群が多く発見されている。いずれも須恵器・土師器、金環等の装飾品、人骨などが発見されている。特に荒坂横穴は、九州南部の大隅隼人と関係があるものと考えられている。

f0300125_1162423.jpg 八幡から美濃山は、どのように見えていたのだろうか。江戸時代に書かれた『男山考古録』によれば、「志水の南のはて、奈良道東南半里許り一村あり」と記されている。また、『石清水八幡宮史』には、美濃山という地名の起源について、鳥羽院に仕えた八幡宮別当・垂井光清の娘・美濃局が移居した地であることからこの名前がついたとも書かれている。
 江戸時代の美濃山は、戸津、岩田、内里、松井の四つの村が共同利用していた。一方、岩田村に残っていた「續記録」には、石田(いわた)、内里、戸津、松井の四ケ村とわかれて「美濃山」となり、もっと古くは「箕野山」と言って、ここは組合持の山である書かれている。

2、元禄年間の計画

 入会とは、特定地域の人々が特定の山・原野などを共同利用すること。肥料、飼料などに草木を利用した。美濃山は「東西参拾五町」「南北拾壱町」に及ぶ大きな山間地である。そのような場所を、江戸時代(元禄8年の記録)に開拓をしようということになった。開発を幕府が推進する中、四ケ村は反対した。理由は牛馬の餌、田畑の肥料となる下草がとれなくなるためだった。また正保2年(1645)と延宝2年(1674)に、四ケ村と石清水八幡宮・善法寺家との間で境界争いが起こった。訴訟の結果、津田道を境として、八幡宮領と四ケ村の共有地となった。美濃山にある溜め池7ケ所のうち、御幸谷・宮谷の2ケ所は戸津村の用水、大谷・東谷の2池は松井村、細谷・女谷は内里村の用水としてきた。さらに、貞享元年(1684)以降、四ケ村は毎年土砂止めの工事を行ってきた。このような理由もあり開発は一時頓挫となった。

3、享保年間の実行

 幕府は享保の改革によって、年貢増徴を目的とした新田開発を全国的に実施した。美濃山開発もその一例である。享保年間には、4度の開発が試みられたようである。内里村に残る『備忘録』には、
美濃山新開差構
 享保四 同七 同十 同十一
 役人玉虫左兵衛
角倉与市  小堀家後見人 
とある。
 享保4年(1719)11月、役人玉虫左兵衛・角倉与一の検分に際し、4ケ村役人のほか志水町・神原町の役人、地主、百姓が新開地境界の杭打ちに立ち会っている。
 「砂止一札」という四ケ村の因幡丹後守様御家・土砂役人宛の文面に、嶋介之進の名前が見える。因幡丹後守は淀藩の藩主であるが、その役人で、「初、ミの部左衛門、後若宮仲蔵、嶋介之進」の名前がでてくる。嶋は藤堂藩の人だったり、淀藩に仕えていたり色々な形でこの開発に関わってきている。美濃山に残っている検地帳では、この土地の所有者の名前はすべて嶋助(介)之進の名前になっている。開発するにはスポンサーが必要になるが、金主は京都の長浜屋長兵衛なる人の名前が記録に残っている。
 しかし、過剰開発によって土砂災害等が頻発するなどの環境破壊が起こった。美濃山も山の木が切られ、はげ山になり大塚古墳が露わに見えるようになったと『續記録』には書かれている。幕府は寛文6年(1666)『諸国山川掟』を出して「草木の根を堀取らないこと。川の両岸の乱伐を禁止し、木の苗を植え付けるように」との触れを出している。

4、宝暦元年の拡大

 宝暦元年(1751)には、荒坂より西の谷まで開発が進んでいく。内里村をはじめ、四ケ村の山年貢は5石から2.5石に減じられた。

5、幕末・明治の様子

 美濃山は美濃山村とは呼ばれず、明治の初めまでは美濃山新開と称された。
 幕末・明治の頃の美濃山は戸数73戸、人口309人 石高157.813石(天保郷帳)、内、田地高は8石余り、畑地高は149石余りとなっている。元文5年(1740)の石高と比べると約2.5倍になっている。物産としては孟宗竹10,700貫目 さつまいも24,000貫目 茶24,320斤 白角豆(ささげ)50石であった。(『京都府地誌』)

6、美濃山の景観

 江戸時代は草肥農業社会であったために、美濃山は樹木伐採や山焼きなど、過剰な土地利用による砂山・草山と化して、土地災害も発生した。明治期の地図によると、松林も増え、幕末から明治にかけて茶栽培が盛んになり、明治15年をピークにアメリカなどへの輸出が活発化した。梨、柑橘類などの果樹栽培もおこなわれ、サツマイモや豆などの商品作物も栽培された。明治41年頃には、茶に代わりタケノコが産出され、昭和35年頃から盛んに始まった。

7、飛地の出現

 町村制施工(明治22年)により、当時の村(大字)所有となっていたものは、新町村に移管されたため現在の大谷飛地ができた。昭和52年、その一部は京田辺市と等価交換された。

8、再びの大規模開発

 現在に目を移すと、昭和57年に第二京阪道路が計画されて現代の美濃山開発が始まった。人口は周辺部も合わせると12,000人。第二名神の建設も進んでいる。享保4年(1719)に始まった開発は宝暦元年あたりに終わるがこの間、約32年。現代になって、昭和57年に始まった計画は平成27年で約32年。偶然のことながら、美濃山地区では300年後に、同じような大規模開発が、同じような期間をかけて行われたことになる。               
【文責=望月充郎】


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by y-rekitan | 2015-09-28 11:00 | Comments(0)
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