◆会報第67号より-06 八幡の道①

シリーズ「八幡の道」・・・①

八幡の道を「東高野街道」となぜ呼ぶのか?
―その1―
 谷村 勉 (会員) 


京阪八幡市駅前

 京阪八幡市駅前には軽いリュックを背負ったグループをよく見かけます。会社をリタイアした人達がウォーキングを兼ねて八幡の名所旧跡を歩いて楽しんでいるように見えます。いつも世話役らしき人が事前に調べた市内各所の案内図や寺院、旧跡の来歴などを書いた資料を配布されている姿を見かけます。かつての仲間や知り合いが参加した折には、時々後日談を聞きますが、残念なことに、相変わらず駅前開発の遅れや食事や喫茶場所の少なさを指摘されます。
 約40年近く前、当時の郷土史会の方々や近所の古老から八幡の色んな話を聞きながら、おぼろげに理解していた八幡の歴史を、定年後、改めて大変興味を持つようになりました。平成27年(2015)10月16日(金)に石清水八幡宮の国宝昇格が答申されたニュースを聞き、これまで発信力が弱いと常々言われて来た八幡が、これを機会に、八幡の住民目線で地元の歴史や文化の驚くべき奥深さを発信し、誰にでも歴史を感じられる町に出来れば、という思いから、八幡住民や観光客に向け、今回、八幡の東高野街道について報告します。

東高野街道は「洞ヶ峠が起点であり、終点である」

 今でも八幡の地元住民は「洞ヶ峠」が東高野街道の起点であり、終点であると理解している人が多いように思います。私が聞いた範囲でも洞ヶ峠とする人が多く、以前、旧吉井バス停(八幡南部洞ヶ峠付近)の八幡安居塚T字路角にあった「円福寺の道標」が目印となっていました。f0300125_8341358.jpg次に「志水の離れ」でしょう、という古老達がいました。これは月夜田交差点(現松花堂庭園)にある三宅碑「岡の稲荷社」の道標を指していると思います。昭和二年に建立したこの三宅安兵衛碑には文学博士西田直二郎氏によって「右 高野街道」、「従是 高野山至ㇽ」と書かれています。
 かの歌人「吉井勇」が終戦後の3年余りを近くの「宝青庵」に過ごし、「月を見てかなしげに鳴く犬のほか夜の高野みちゆく人もなし」とここを高野道として読んでいます。しかし、これより北側、京阪八幡市駅に向かって高野街道と称する道標はかつて一つも存在しませんでした。もちろん八幡に生まれてこの年になるまで東高野街道などと聞いたこともない、という人もいました。

なぜ「洞ヶ峠」と認識しているか

 石清水八幡宮が貞観元年(859)僧行教によって宇佐八幡宮(大分県)より勧請されて以来、八幡の道は八幡宮への参詣道として発展し、大いに賑わってきた歴史があります。そこで「洞ヶ峠だ」と認識する記録を調べました。
嘉永元年(1848)江戸時代の八幡地誌「男山考古録」が長濱尚次(石清水八幡宮宮大工)によって脱稿されました。江戸時代の八幡の様子を知るうえで、無くてはならない書物です。

「男山考古録」に高野街道の記述を見ると、(高野道の項目はなし)
・「安居塚」の項に、万称寺より五町許南、高野道という道の・・・とあります。  
万称寺とは現在の「松花堂庭園」近く月夜田交差点の西南方向にあった寺。
五町許とは凡そ545m、洞ヶ峠付近の「円福寺の道標」辺りを指します。
・「洞ヶ峠」の項に、志水町より南半里許、里俗の高野道と云所・・この所
  山城・河内国界也、・・とあります。  
志水町とは現在の「走上り」の坂道から南、旧新善法寺周辺から、正法寺の前を走る志水大道と呼ばれる一帯を指します。 南半里許とは凡そ南へ2km弱の距離で、「円福寺の道標」辺りを指します。
里俗の高野道とは俗称として高野道と称していたとの意味です。
f0300125_810632.jpg「円福寺の道標」は現在八幡市の文化財保護課の敷地内に横たわっています。
   
「河内名所図会」享和元年(1801)刊
・「城州洞ヶ峠より、河州紀伊見峠へ十五里三町」とあり高野街道の行程を示し、洞ヶ峠を起点としている。

「やわたの道しるべ」八幡市郷土史会発行 昭和57年(1982)
・月夜田交差点(松花堂庭園)にある「岡の稲荷社」の三宅碑の解説に「八幡宮門前の人家ようやく離れ、・・・洞ヶ峠まで十五丁、河内を縦断する東高野街道の起点である」とあります。

東高野街道は枚方市から交野、倉治、津田などを経て、八幡から京街道に繋がっているが、近世に八幡の道を「東高野街道」とする資料は見当りません。

最近「東高野街道」と記された道標が八幡に出現した

 八幡における高野道とは洞ヶ峠付近や志水道のはずれと八幡の住民の殆どが認識していたと思っていましたが、数年前でしたか志水道や常盤道、八幡宮道などと、はるか江戸時代以前より、古くから親しまれてきた八幡宮の参詣道に「東高野街道」と記された道標が10基ほども建立されていることをご存知でしょうかf0300125_16595333.jpg。時に松花堂や樟葉方面に自転車で出かけては時々この道標を見ていましたが、つい最近になって駅前のスーパーの横や石清水八幡宮一の鳥居の前に堂々と建立された「東高野街道」と記された道標が建立されていたのには仰天し、驚きました。
 なぜ、仰天したかを説明しなければなりません。
 江戸時代、八幡から京都方面に出る道には北に向かって二本の道がありました。
 その一本が八幡宮一の鳥居から真っすぐ北に向かって御幸橋を目指す「御幸道(みゆきみち)」でした。もう一つの道はこの「御幸道」から大谷川(放生川)を挟んで東側に位置する「常盤道」と呼ばれた道です。この「常盤道」こそ日常の本道、幹線道路であり、八幡の南北を貫く道路として殆どの人々が利用しました。江戸時代の地図には「常盤道」のみを記した地図も多いようです。「御幸道」は天皇や勅使、大名等が利用し、どちらかと言えば日常的にはあまり使用されなかった道だったと聞いています。しかしそれでも大変由緒ある立派な道であったのです。

「御幸道」の歴史的記述として先述の「男山考古録」から紹介します。
 「御幸道」の項に、一の鳥居を北へ壱条の道路ありて、・・・北堤に近く正徳三年(1713)癸巳六月十七日、「石清水八幡宮鳥居通御幸道」という標碑を建てられたるは、検校新善法寺行清法印なり、・・・とあります。
今もこの標碑は存在しますが、現在新御幸橋等の建設につき、今は取り外して保管されています。

「京都府の地名」(昭和56年(1981)平凡社発行)にも「男山考古録」から引用し、
「石清水八幡宮鳥居通御幸道」という標碑が淀川提近くに建立された。と記載されています。
 八幡宮の表参道ともいうべき「御幸道」の、一の鳥居前に「東高野街道」と称する道標が建つとはだれも考えなかったのではないでしょうか。それでは「御幸道」の歴史的名称はどうするのか、歴史から消そうとするのでしょうか。今、各地方でその地に伝わる歴史的な事象を血眼になって探しあて、地域を盛り上げる材料としていますが、八幡はあまりに歴史が深く多く有りすぎて、かえって大事なものを、遂には消してしまうのではないかと心配します。

明治元年の木津川付け替え大工事

 明治元年から明治3年にかけて木津川付け替えの大工事が実施され、それまでは淀城の近くで桂川、宇治川、木津川の三川が合流していましたが、この付け替え大工事によって、八幡の北部が大きく削られました。古図を見れば、それ以前は今の淀城の近くまで八幡の範囲であったことが解ります。
  この工事によって八幡から北の方面に通じる幹線道路であった「常盤道」が現在の木津川によって分断されて、今は買屋橋から山柴交差点を北に、飛行神社の前を通り、京阪電車の高架下を抜けて西にカーブし御幸橋の南詰に通じる道になって、そこで「御幸道」と合流してしまいました。

 かつて石清水八幡宮の神域であった八幡の道に他の宗教施設を連想するような名称がつけられることはありませんでしたが、駅を降りて東高野街道の道標を見れば、八幡は高野山信仰によって支えられてきたような印象を与えないでしょうか。実際は八幡信仰によって人々が八幡宮に参詣し、八幡の町が繁栄してきたはずと思いますが。八幡に入り、石清水八幡宮を目指すには「八幡宮道」の道標によって案内されたものでありました。今でもはっきりその痕跡が残っています。八幡独自の歴史、文化の形成を考えた時、その歴史、文化の特異性はむしろ誇りになると思います。郷土愛もそこから育つものと考えますが!

 市役所に「東高野街道道標」の事を尋ねましたところ、要領を得ませんでした。しかしどうも平成4,5年頃でしたか、大阪から発信された歴史街道運動に関わりがあるとのことでした。
 次回は改めて「八幡の道標」に関連した報告をいたします。
(つづく)


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by y-rekitan | 2015-10-28 07:00 | Comments(0)
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