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◆会報第68号より-04 松花堂昭乗⑥

シリーズ「松花堂昭乗が詠んだ八幡の町」・・・(余話)

松花堂昭乗が詠んだ八幡の町(余話)

 土井 三郎 


 表題の論考は前号で終えることにしていましたが、会員であるT氏から貴重なご意見を頂戴しました。
 「大谷 狩人の追う谷深ししかの皮」の解釈で、私は、「「深し」は「蒸(ふか)す」にも通じ、鹿の革を蒸して柔らかくする(=なめす)にも通じます」と述べたことに対し、「鹿の皮を蒸せば却って固くなって使い物にならない」とするご意見が寄せられたのです。そのことに対し、調べたことや考えたことを述べ、また、元和元年(1615)の冬に八幡の町を詠んだ昭乗の句が掲載されている文献についていささか言及すべきことがありますのでそのことについても触れたいと思います。

深(ふか)しは蒸(ふか)しなのか?

 昭乗の、八幡大谷を詠んだ句は、菖蒲革についてのものです。「菖蒲革」とは、藍染の白革下地に菖蒲の花や草木・駒などの紋様を白抜きで型染めしたものです。そこで、そもそも獣の革を染める「染革」とはいかなるものか。『世界大百科事典』(平凡社)で調べてみました。以下に引用します。
 「そめかわ 染韋(革) 皮革工芸の一種。韋はウシ、シカ、サルなどのかわをなめした〈なめしがわ(鞣韋)〉のことで、トラ、クマ、イノシシなどの毛のある生皮を意味する〈皮〉、毛を取りあぶらを抜いて堅くした〈つくりがわ(理革)〉を意味する〈革〉とは区別される。◆会報第68号より-04 松花堂昭乗⑥_f0300125_20204436.jpg染色するには主として〈韋〉を用い、なかでもシカの韋が多く、文様を染めるには、文様を切り抜いた型紙を当てて染料を引く。(後略)」
 また、『國史大辭典』(吉川弘文館)でも調べてみました。
染韋 獣皮の被毛を除去した生革(きがわ)を柔軟に揉みやわらげて熟韋(つくりがわ)として染色加工をした韋。染韋に広く使用されたのは、強靭で感触のよい鹿の揉韋(もみかわ)である。白地の洗韋(あらいがわ)を雨湿炎乾による固形化から防ぐために、藁の噴煙で軽くふすべるのを例としたが、特にこんがりと香色(こういろ)にふすべたり、さらに濃い茶色にふすべたりしたものを薫(ふすべ)の染韋・濃薫の染韋などと称した。また、韋地に糊で画様や小文の型を置いてふすべると、糊の部分が白抜きとなるので、これを画文の薫韋・小文の薫韋などとよんで、武具や馬具・装身具の類に使用した。(後略)」
   いずれにせよ、なめす段階で蒸すという工程は見られません。T氏の指摘通り、「鹿の革を蒸せば却って固くなってしまう」ようです。また、染める段階でも藍汁に浸したり、藍汁を引いたりすることはあっても蒸すことはなさそうです。きちんと調べもせず論述した不明をお詫びし、貴重な指摘をしていただいたT氏に感謝したいと思います。但し、現代の革製品には、革を蒸すことでごわごわ感が出て、そのことで価値を高めている商品があることがネット検索をしていると出てきましたのでお知らせしておきます。◆会報第68号より-04 松花堂昭乗⑥_f0300125_20332945.jpg それでは、昭乗が「深し」としたのは単に大谷が深いことだけを詠んだものなのでしょうか。深しは或は菖蒲革の色が深いと吟じたものなのかもしれません。といいますのも、八幡の菖蒲革は「八幡黒」と呼ばれるくらい、染色の藍色が濃く、濃いことを深いと表現したことが考えられのです。
 『國史大辭典』で調べますと次のように解説されています。
くろかわ 黒韋 黒く染めた揉韋(もみかわ)・滑韋(なめしがわ)の類を総称する。濃い藍染、付子鉄漿染(ふしがねぞめ)、墨染などの漬染、引染の各種がある。時代により、用途によって、同じ黒韋の名称であっても、染材・加工の内容を相違する。中世に普通にいう黒韋は、深く染めた藍韋であり、(中略)近世以来、石清水の山藍染にちなむ付子鉄漿染の黒韋が石清水八幡宮の下大谷村の神人によって染出され、八幡黒(やわたぐろ)とよばれて各地に流布して愛好され、武具はもとより、履物の鼻緒や装身具類に用いられた。(後略)。」

昭乗の八幡発句集は何処に

 昭乗が八幡の町を発句に詠んだことは、『男山考古録』にもいくつかの作品が掲載されていることで分かります。例えば、次の作品がそうです。
 科出郷
 元和元年初冬     ちる紅葉手しなてとむるよしもかな  昭乗
 鯉ヶ池
 町名を物の名にて  ちる紅葉ぬれいろや猶こいかいけ  松花堂昭乗

 昭乗が八幡の町を発句に詠んだことは、昭和13年に発行された『武者の小路』第8号所載の佐藤虎雄氏の小論に掲載されていることを紹介しました(会報63号)ので、読者の皆さんには記憶にあるでしょう。そこでは「昭乗は元和元年初冬南畝より北野に至った。此時東方朔が詞をとって各地の光景を次の如く俳句に吟じたのである」と前書きし、清水にはじまる20句を羅列しているのです。会報63号で、私は、佐藤氏が何を典拠にしてこの発句を取り上げたのか。そのことを明らかにしてくれれば、昭乗の発句の謎が解明できるものなのにと残念がっています。
 ところが、謎を解明する手掛かりが身近なところでみつかりました。八幡市民図書館の郷土コーナーに、明治41年11月刊の『山城綴喜郡誌』があり、その人物篇(317頁~)に、「瀧本坊阿闍梨昭乗」が紹介されているのです。読むと、「翁、元和元年初冬、八幡南畝より吟行して、北野に至る、總て東方朔か詞を採り、其光景を俳句に咏す。」と前書きした上で清水からの20句そっくり掲載されているのです。傍線の語句も同じであることから、佐藤虎雄氏の先の小論は、同誌を出典とすることが考えられます。或は、『山城綴喜郡誌』の編集者は、郷土の名士なり蒐集家から松花堂昭乗が八幡を詠んだ句集の提供を受けたのかもしれません。
 『男山考古録』にある昭乗の句の存在といい、『山城綴喜郡誌』に昭乗の作品が紹介されていることといい、八幡の町の古民家の蔵などに未だ昭乗の八幡発句集が埋もれているような気がしてなりません。
(完)

 挿入した絵図は、ともに『八幡菖蒲革と石清水神人』(竹中友里代著)より



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by y-rekitan | 2015-11-28 09:00
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