◆会報第69号より-03 本妙寺文書

本妙寺文書「沢庵の書状」と紫衣事件について

丹波 紀美子 (会員)


沢庵の手紙

 今回の見学に際し、本妙寺では寺宝の綱吉時代の朱印状、府内最古の雲版、そして、今まで教育委員会にしか見せておられなかった秘蔵の沢庵の書状を拝見させて頂きました。
 竹中友里代氏が1997年春に執筆された『禅文化』164号、八幡市本妙寺の「江月宗玩宛沢庵宗彭(こうげつそうがんあてたくあんそうほう)書状」についての解説文をもとに、沢庵のこと、合わせて紫衣(しえ)事件の事などを書いてみたいと思います。
 沢庵の書状は、八幡の歴史を探究する会の安立さんと奥山さんの労により、文語文を口語文に意訳していただき、私たちでも読むことが出来るようにして貰いました。

  ☆沢庵宗彭(1573~1643)の書状
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尚々(なおなお)、御上京前に面会を期(ご)します。
昨日は貴方のお手紙が堀丹後守(直寄)から届き拝見しました。また
貴方様のところにお伺いしましたが、お留守
でしたので、たって申し置きしました。一両日中に御出発と
聞きましたが、天気は不順ですし
お見合わせになって、一両日
延ばしてご出発なさってもいいのではないでしょうか。永く
江戸に滞在されたので、ご出発準備も
一両日中には出来兼ねることでしょう。
稲葉丹後守(正勝)殿の御煩いも今
少し見届けられて、どちらにしても来月に入って
御出発なされば、雨もまた
快晴の天候になるでしょう。尚また画賛は
書き改めましょうか。烏丸大納言(光広)へは書状を届けました。
委しく書きましたが、貴方様から直接仰せ申すべき
ことですが、なにも口論にはならない様子です。貴方さまの
御出発も色々あるようですので
当月中お延ばしされている間、
参上して御暇乞いを申し上げに行きます。
恐惶謹言(きょうこうきんげん:恐れかしこみ謹んで申し上げます)
       春雨庵(しゅんうあん)
   五月廿七日  宗彭(花押)
拝呈龍光(江月)丈室
  侍局


沢庵と江月宗玩たちとの交友関係

 沢庵宗彭は、紫衣事件で寛永6年(1629)7月、出羽国(山形県)上山(かみのやま)城主、土岐頼行の所へ配流になりました。沢庵56歳の時でした。土岐頼行は沢庵のために庵を建て色々な気配りをして流罪人とは思えないほどの持て成しをしています。頼行が建てて歓待した庵を沢庵は「春雨庵(しゅんうあん)」と名付けて、流罪中の3年間と赦免されて帰洛の許しの出る江戸滞在中の3年間の手紙には「春雨庵」と記しています。
 手紙の主、沢庵は大徳寺の首座となった臨済宗の高僧で、宛先である江月宗玩は、津田宗及の子で、やはり大徳寺住持となった高僧です。二人は、茶の湯や俳諧連歌に興じる間柄であり、後でも触れますが、松花堂昭乗とも関係を結ぶ茶人です。
エピソードとして、遠流の身となった沢庵へ送った昭乗の和歌と、その返歌があるので紹介します。

 松花堂昭乗から配流になった沢庵へ
うらむなよ かりの世なれば さすらふも 旅のやどりを かふるばかりぞ
遠島に 行くやうらみむ うらのなみ 今かえりくる ならひならずば
 沢庵から昭乗へ
ながらえば 君に二たび 会津山 名もたのもしき 寿なりけり
我人の 心の月は 雲霧に さわらぬものと しる人ぞなき

 沢庵は、徳川秀忠の死(寛永9年3月)により恩赦になって寛永9年(1632)7月27日江戸に入り、手紙にある越後村上城主 堀丹後守直寄(1577~1639)の駒込の下屋敷に、冬ごろから寛永11年(1634)5月の帰洛まで世話になっていました。堀丹後守は、沢庵より4歳年下でしたが、事件発生以来、沢庵を何とかして助けようと、幕府高官へ心付けをするなどして赦免に奔走しました。
 この手紙は、沢庵が江月(こうげつ)の書状を掘丹後守から受け、江月の江戸の宿所に赴いたが留守であったため、その返書として出されたもので、沢庵が堀丹後守の駒込下屋敷に寄寓していた時のものです。
 寛永11年(1634)5月、沢庵たちが帰洛した後、堀丹後守は、同年7月、徳川家光に従って上洛しました。その際、沢庵に会って将軍拝謁を勧めるなど、以後も家光と沢庵の取り成しに動いています。
 次に、沢庵の手紙に出てくる稲葉丹後守について紹介します。
 稲葉丹波守は、家光の乳母(うば)春日局(かすがのつぼね)の息子の正勝(1597~1634)で、沢庵は江月に正勝の病気見舞いを勧めているのです。
 紫衣事件によって大徳寺の沢庵や玉室は流罪になりましたが、江月だけは流罪を免れています。世間では、江月に罵倒を浴びせたり、彼の墨蹟を破り捨てたりする人がいましたが、江月は、沢庵らの赦免にひたすら奔走しました。幕府の要職にいた稲葉正勝に接する機会もあったので、江月の人柄から正勝の信頼を得て、正勝の死後もその子息は江月にゆかりの深い大徳寺の法堂を造営しています。
 沢庵の書状にもあるように、京へ帰る江月に対し、梅雨時期の天候を心配し出発を延ばすよう勧めています。来月になると天気も安定し、長く江戸に滞在していたから用事も多くあり一両日中に済ませることは難しいのではないかと心を配り、出発前に一度会って話がしたいとも述べています。
 末尾の発信の日付は沢庵が春雨庵と名乗っている間で、稲葉正勝が病気中であること、江月の江戸滞在期間が永いことを記していることから正勝が亡くなる寛永11年の前年で寛永10年5月27日であると推定されています。

紫衣事件とは何か

 さて文中に出てくる紫衣(しえ)事件とはどんな事件で、どんな結末であったのか記してみます。紫衣とは天皇が宗派を問わず高僧に下賜した紫の袈裟をさします。
 事件の発端は、慶長18年(1613)6月に、『勅許紫衣竝(ならび)に山城大徳寺妙心寺等入院の法度』が制定されたことやその2年後の元和元年(1615)7月に、『禁中竝に公卿諸法度』『諸宗本山本寺諸法度』が制定され、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じたことに始まります。
 朝廷では、寛永3年(1626)の、大徳寺・妙心寺の出世(住職になって紫衣を賜わる)厳禁、元和以後の紫衣を取り消す旨の命令にも関わらず、後水尾天皇はこれを無視し従来の慣例通り紫衣を与えました。
 その結果、金地院崇伝(こんちいんすうでん)や土井利勝らは寛永4年(1627)7月、これを法度違反とみなし京都所司代に紫衣を取り上げる様命令しました。寛永5年(1628)、大徳寺沢庵宗彭(たくあんそうほう)、玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)、江月宗玩(こうげつそうがん)や妙心寺の単伝士印(たんでんしいん),東源慧((とうげんけい)等らは抗議書を所司代板倉重宗に提出したため、幕府は態度を硬化させ江戸へ召喚しました。幕府内でも厳罰を以て処すべしという金地院崇伝と穏便な処置をのぞむ南光坊天海らの対立はあったものの、崇伝の主張を秀忠は受け入れました。
 江月を除く4人はそれぞれ寛永6年(1629)7月に配流となりました。また、11月には後水尾天皇が抗議のために退位することにも繋がりました。後水尾天皇の退位は、紫衣事件だけでなく同年10月に家光の乳母お福が無位無官(西三條家の娘として藤原福子)で拝謁した事も原因の一つともいわれています。なお、福はこの後、従三位の位階と春日局の名号を頂いています。
 寛永9年(1632)、徳川秀忠の死によって大赦令が出され紫衣事件に連座した人たちは許されました。
 後に、沢庵は家光の帰依を受け慕われます。家光に近侍したことで寺法旧復を訴え、恩赦になって9年目の寛永18年(1641)、沢庵69歳にして事件の発端となった大徳寺、妙心寺の寺法旧復が家光より正式に申し渡されました。そして、両寺の出世入院(住職への復職)が認められ、幕府から剥奪された紫衣も戻されました。
 (なお、沢庵の援助者には堀丹後守の他、柳生宗矩、天海和尚たちがいる。)
 沢庵の書状が、宗派も違う本妙寺に伝わった理由について、竹中さんも不明とされていますが、本妙寺の栞では「手紙がなぜ当山に残っていたかは不明ですが、当時松花堂昭乗の営む『文化サロン』などでの知識人、文化人などの交流の過程で様々な交際の流れを生んでいったと想像される」と書かれています。私もその通りだと思います。
 江月と昭乗はとても仲の良い友人で、昭乗の絵には数多く江月が賛をしており、また昭乗の晩年には2人で奈良吉野の旅もしています。江月は何度となく男山にも登り、また昭乗も江月の寺の大徳寺龍光院(りょうこういんいん)には足しげく通っていたと思われます。龍光院の小襖にも昭乗の描いた絵が有り、他にも昭乗が描いて渡したであろう絵が多く所蔵されています。そんな昭乗と江月の関係を考えると沢庵の手紙が昭乗の所に渡っても不思議ではなく、他にも昭乗のいる男山と山下の僧侶たちの交流もあったことでしょう。江月と昭乗とは、宗派は関係なく、男山での昭乗のサロンには江月も来て本妙寺の住職も呼ばれていたかもしれません。そんな折に直接本妙寺住職が江月から頂いたのかもしれません。そんなロマンを夢みて終わります。
by y-rekitan | 2015-12-28 10:00 | Comments(0)
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