◆会報第70号より-05 新刊案内


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―鍛代敏雄 著―
『戦国大名の正体』-家中粛清と権威志向-


土井 三郎 (会員)

 戦国時代は、南北朝の争乱と並んで私が好きな日本史のテーマである。1970年代、学生の頃とそれ以降に読んだ「岩波講座 日本歴史」や中央公論社版等で戦国期を扱った論文や著作も思い出される。好きな理由を述べるならば、「群雄割拠」の時代にあって、「雄」たる戦国大名が各自の地域をどのように領有し、勢力を張り得た(「割拠」)のかを探究する喜びに浸れるからに他ならない。制約された時代状況にあって、いかにそれを乗り越えていったのか。或は乗り越えられなかったのか。そんな人間ドラマを読み取ることが愉しいからとも言えるだろう。但し、戦国時代の帰結のように扱われる信長や秀吉、家康の事績には左程の興味を覚えない。NHKの大河ドラマによって手垢が付きすぎた印象が大きいが、関東に覇をとなえた北条氏や東北の雄、伊達氏、そして敗者である尼子氏、信長に果敢に挑み敗れ去った浅井・朝倉氏などに人間臭さを感じるし、敗れた理由を吟味することの方が歴史の楽しさだと思えるからである。
 さて、鍛代さんの同書は、副題に「家中粛清と権威志向」とある。まさに、著者が書きたかった眼目であろう。「家中粛清」とは、武田信玄が父信虎を追放し、嫡男義信(よしのぶ)を切腹させたことであり、伊達晴宗(はるむね)が実父稙宗(たねむね)を城中に幽閉したこと、織田信長が実弟信勝(のぶかつ)を謀殺したことなどを指す。それぞれ家中の事情があり、主従の力関係や「同盟大名・小名、国衆が加わった政治状況」などの要素が複雑に絡まっていることが理由としてあげられる。但し、「家中粛清」は、島津氏、今川氏、毛利氏、六角氏、松平氏、大友氏、大内氏、斎藤氏にも及ぶ。つまり、名だたる大名家が戦国期に、ある意味通過儀礼の如くに経なければならなかったことなのかもしれない。この章を終える中で、著者は次のように述べる。「戦国大名の軍事国家は、主に家中粛清によって構築された。「王殺し」を含めて、粛清は戦国大名の権力や権威の源泉となった。粛清における正当性および正統性が、家中や分国内で評価され認知されてこそ、政権の安定を見ることができた。」

 同書の目次を紹介したい。f0300125_16324270.jpg
 序章、ヨーロッパ人の観た戦国日本/第一章、粛清と王殺し/第二章、大名の条件/第三章、天下と外聞/第四章、亡国の遺産/終章、一六世紀の考え方
 第二章の「大名の条件」は、この間の戦国大名研究で明らかになったことを概説しているようである。印象深かったのが「検地と税制」と「城と城下町」である。
 検地とあれば「太閤検地」が思い浮かぶが、教科書的な知識の延長でしかない雑駁な認識は歴史探究を曇らせるものである。1977年発行の中央公論版「日本の歴史」『戦国大名』(杉山博著)の「大名と農民」の章に「戦国大名の検地」の項目があり、杉山氏は「戦国大名は農民支配のしかたにおいて、それ以前の領主たちとはまったくちがう徹底さを示しはじめている」と既に明記している。
 鍛代さんは、北条氏を例に、「原則、検地に基づいて、家臣にたいし知行高を安堵し、軍役・番役・普請役の奉公の義務を課した。農村には郷役・村高を認め、年貢・公事・夫役を課すための台帳を作成した」としている。何のことはない。近世における幕藩体制下の村落支配がすでに戦国期に施行されていたのである。「城と城下町」も同様である。城と城下町といえば織豊政権下で進められたと思いがちであるが、「戦国大名の城下町集住策は、地域性の強い武士を農村から切り離す兵農分離の課題を克服するためでもあった」という指摘は、戦国時代が中世(室町期)と近世(江戸時代)を画するエポックになったということでもある。いうなれば、270年近い泰平の世を準備するために100年の戦国期が必要であったということであろうか。
 第三章の「天下と外聞」、第四章の「亡国の遺産」は、鍛代さんらしい論理展開だと思う。副題にある「権威志向」の内実を語っているからである。本の帯にこうある。「下剋上の申し子でも、規制秩序の破壊者でもなかった戦国大名たちの精神構造に迫る」
 戦国大名の対極にあるのが、『太平記』の描く高師直や土岐頼遠、佐々木導誉ら規制秩序の破壊者であるバサラ大名である。彼らはバサラではない。「戦国大名は破天荒な成り上がり者ではなく、無秩序な無法者でもない。伝統的な権威を排除して傍若無人な振る舞いをするバサラではなかった。その理由を説明する上で重要な論点が、大名御家や分国を「公儀」と認識する政治思想にある。もちろん公儀は室町幕府および将軍のことを指して呼ぶことが一般的であった。」
 戦国大名の誰もが最初から「権威志向」の持ち主であったとは思わない。「家中粛清」を断行し政権を安定させ、群雄割拠の時代に実力で武力闘争に勝ち上がり、分国法を定めて国内のトラブルを解決する見通しを示し、検地と税制や城下町政策を推進する中で家臣を身分的・経済的に統率する一方、村落支配を確実にした戦国大名のみが、人と土地の支配をさらに強固なものにすべく、官位、偏諱(へんき)(将軍の一字を頂くこと)、相伴衆、白傘袋、毛氈鞍覆などの使用許可を室町将軍に希ったのではないか。このような権威・栄誉をまとうことで自己の正当性・正統性を誇示したものと思われる。
 第四章の「亡国の遺産」は、『神国論の系譜』の著者らしい論述である。敬神・崇仏を心掛けることを説く一条兼良(かねら)や、神道を根源として儒教と仏教が誕生したとする説を披歴する吉田兼俱(かねとも)の言説が将軍家のみならず戦国武将に影響を与えたという。また、戦国期、京都の道者(どうしゃ)(一芸を極めた者)たちが地方の城下町に出現し、それを保護した戦国大名である駿河今川、甲斐武田、越前朝倉、周防大内氏などがいずれもその後滅びてしまったことから、王朝文化が「まさに亡国の王朝遺産となった」と結論付ける。

 最後に、戦国大名や天下人の神国観、天道観を紹介したい。
 織田信長による伊勢神宮内宮の遷宮費用や石清水八幡宮の若宮造営費の寄進、それを受け継いだ秀吉が京都に大仏殿を建立したことなどについて、「戦国大名や天下人にとって、寺社造営は、権力者の武威を飾るための政治的な演出であり、権威を正当化する儀礼であった」という指摘は的を射たものである。問題は、そのことが「亡国の遺産」に成り得るかのように述べる点である。「天道と神国」の項で、「戦国大名や天下人は、公儀を正当化するために、天道を喧伝して権威を裏付けたのである。また、「天」=「神」と解釈して、日本の神々・神仏によって武威を飾ったのである」と述べる。そこまでは成程と思うが、天下人はさらにエスカレートする。それは、今日の日本人の一般的な宗教観とは異質なものであろう。つまり、信長は、自分のことを国王であり内裏であると述べた。自身が神であると宣言したのである。秀吉は、九州征討に赴いた際に、伴天連追放令を発した。その理由が、「日本は神国」だからというものである。神国日本を宣伝してキリスト教国に対峙し、キリスト教の邪悪と仏法の正義を対峙させているのである。キリスト教の罪悪を罵り、イスラム教の優位を説く過激派の主張とどこが違うのか。秀吉は、朝鮮出兵の際に、中国の皇帝のようになりたいと願望していたともいう。家康はどうか。金地院崇伝が編集した『異国日本』の中で、家康は「日本国御主」と讃えられている。
 著者が「亡国の遺産」とネーミングした真意はわからない。京の王朝文化を招来して滅んだ今川や大内などの戦国大名が「亡国の王朝遺産」を受け継いだということだけを指しているとは到底思えない。
(中公新書 定価、本体820円[税別])

by y-rekitan | 2016-01-28 08:00 | Comments(0)
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