◆会報第71 号より-06 宮廷と歌合①

シリーズ「宮廷と歌合」・・・①
宮廷と歌合、そして石清水宮寺
その1
大田 友紀子 (会員) 


はじめに

 今年も新春恒例の「歌会始(うたかいはじめ)の儀」が14日、皇居・宮殿「松の間」で開かれました。題は「人」で、天皇、皇后両陛下のほか、皇族や一般の入選者らの歌17首が、伝統的な節回しで披露されたとのことです(京都新聞、夕刊)。この方式は、あらかじめ出題しておく兼題歌合(けんだいうたあわせ)であり、歌合の実施形態の一つです。その他に、当日出題される当座歌合などがあります。このように、現在でも、「歌合(うたあわせ)」は名称を変えて、皇室の行事として受け継がれています。f0300125_2154782.jpg
 歌合の主体である「和歌」とはなにか。一般的には漢詩に対して、「漢字」と「かな」を使って詠まれた歌が「和歌」であるとされています。その時代、「漢字」は男手、「かな」は女手とされて、女性も歌を詠みその歌を書きつけることを安易に行えるようにと「かな」が発明されたともいわれています。最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の「仮名序」では、「やまとうたは、ひとのこゝろをたねとして、よろづのことの葉とぞなれる。(略) 花になくうぐいす、みづにすむかはづのこゑきけば、いきとしいけるもの、いずれかうたをよまざりける。ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬ鬼神をも、あはれとおもはせ、をとこ女のなかをもやはらげ、たけきもののふのこゝろをも、なぐさむは歌なり。」と、撰者・紀貫之(きのつらゆき)は書いています。
「勅撰和歌集」とは、天皇の宣旨または院宣によって、選ばれた撰者が編集した歌集をいいます。勅撰和歌集の編纂をすることは、歴代の天皇の業績の一つで、最も輝かしいものでした。そして、この頃の貴族の栄誉は、この勅撰和歌集に自作の歌が採られることであり、逆に撰に漏れたことを知ると大いなる悲嘆を味わいました。それほど、貴族社会での影響力が高いもので、勿論、漢詩の勅撰集も編纂され、教養の有る無しが個人の栄達にも関与するので、貴族のテキストにもなり、今日の私たちには耳慣れない話や情景でも、当時の人々には、一つの言葉、一つの情景が、共有されていて、それが歌に詠まれることとなりました。

勅撰和歌集と天皇
  
 『古今和歌集』をはじめとする「八代集」が勅撰和歌集として著名ですが、『新勅撰和歌集』から『新続古今和歌集』までの「十三代集」という勅撰和歌集の存在は、今日さほど知れてはいませんが、それらを編集することに込められた歴代の天皇の思いから、和歌の歴史について書いていこうと思います。
 和歌の歴史が「かな」の発明により始まったと書きましたが、私は、ひょっとするとあの有名な菅原道真の左遷事件も、「かな」で作られる和歌が盛んになったことと多少は関わっていたのではと推測しています。というのも、女房たちと「あそび」感覚でかな混りの和歌を作っていた藤原時平たち若者と、厳格な漢学者であった道真の思いが微妙な対立を生んだのでは、と思っているからです。今日でも若い人達の間で流っている風俗や言葉があり、それが「流行語」としてもてはやされてもいて、あまりに度が過ぎると批判の的にもなったりすることがあります。時平たちの遊びから、「和歌」が盛んになり、それまでは「男子たるもの漢籍を読まずして云々」と感じていた道真は、「漢籍」などの衰退イコール風紀を乱す、と思えたのかもしれません。その後、和歌熱の高まりが文学的な地位を獲得したことは、歴代の天皇の功績の一つとして勅撰集の編纂事業が挙げられるようになったことからも伺い知ることができます。
 そうした和歌の隆盛をもたらしたものの一つに、「歌合(うたあわせ)」があります。歌合とは、歌人を左右二方に分けて、出し合った歌を番(つが)わせてその優劣を比較して勝負を判定した一種の文学的遊戯で、平安初期(880年代)に発生し、平安末期から鎌倉初期にかけて最も流行しました。その方法・様式は、それが行われた時代と場所によって流行の変遷があり、必ずしも一定ではありません。
 勝負の決定をする審判役を判者(はんじゃ)といい、1人ないし2人があたりました。判者が優劣の決定について理由などを述べることばを判詞といいとても大事にされました。そのほかに、衆議判といって、一座の人々の相談によって決められることもありました。最初は高位の近臣が判者を務めたりしましたが、しだいに歌壇の実力者が務めるようになり、その実力者は「歌道の家」の当主となり、その当主が先導するようになっていきました。そんな歌道家の当主は、歌の修練に関わるようになってゆき、歌の上達は貴族の必須項目となってゆきました。当時の貴族社会において、社交上欠かせないものでもあり、その文学的意義は大きいとされています。

 『聖王』として名高い醍醐・村上両天皇の最も輝かしい業績として、「古今」「後撰」両和歌集の編纂があります。その撰者としては、それまでは藤原氏に後れをとっていた紀氏などからその道の達人として、紀貫之(きのつらゆき)や壬生忠岑(みぶのただみね)らが出てきました。その後も、白河天皇が編纂を命じた「後拾遺(ごしゅうい)和歌集」などが作られていきます。その後拾遺和歌集のあたりからは、これまでの王朝和歌だけでなく、口語や俗語による世俗社会の情景を詠んだ連歌が多く見られるようになってゆき、勅撰和歌集の転換の一画期を迎えました。
 「後拾遺和歌集」の撰者は藤原通俊(ふじわらのみちとし)。また、白河院となってからも源俊頼(みなもとのとしより)を撰者に「金葉(きんよう)和歌集」を編纂しています。白河院孫の崇徳院(すとくいん)は、「詞花和歌集」を編纂させ、その後、後鳥羽院の下命によって、『新古今和歌集』が藤原定家などを撰者に成立します。
 後鳥羽院の石清水への御幸は27回にもおよび、天皇の時の2回を加えると生涯29回来られています。そして、その頃、石清水八幡若宮での奉納歌合が頻繁に催されていたことは案外知られていないのではないでしょうか。『和歌大辞典』などによると、「石清水」を冠した歌合は何度も開かれており、石清水で開かれていた歌合が、新古今和歌集の成立に寄与しました。つまり、歌人たちの修練の場として開かれたことを省みると、石清水宮寺の歴史の一端が見えてきます。
 また、天皇の時に1度の行幸と、上皇・法皇の時には29回、そして親王時代の1度以上の参詣を含めると断トツの一位は後嵯峨院(1220~1272)です。後嵯峨院には、親王の時に参篭された時に、その翌朝に八幡神の神託を受け出家を思い留まった逸話が『古今著聞集』にあり、石清水宮寺と皇室との深い縁が偲ばれます。

「歌道の家」の変遷
  
 今日、「歌道の家」といえば冷泉家(れいぜいけ)ですが、院政の始まりの頃は、『後拾遺(ごしゅうい)和歌集』の撰者である藤原通俊などの白河院の近臣などが歌壇の中心でした。その後、『金葉(きんよう)和歌集』を編集する源俊頼(みなもとのとしより)が出てきて、その家系を「六条源家(げんけ)」と呼びました。六条に家があったことからで、同じく、白河院の乳母子(めのとご)で近臣であった藤原顕季(あきすえ)の家も六条にあり、顕季-顕輔―清輔‥‥と歌人が続いたので、この家系を「六条籐家」と呼びます。
 六条家は末茂流藤原氏で、平安中期は受領(ずりょう)や弁官などを勤める中流貴族でしたが、7代目の隆経(たかつね)が後三条院に目をかけられ、隆経の正室親子が白河院の乳母になったことから、その乳母子である顕季(あきすえ)は、院の愛顧により大国の受領を歴任し、富を蓄えて近臣として時めき、莫大な経済力と隠然たる権力を持ち正三位に昇りました。
 公卿(くぎょう)と呼ばれるのは、従三位(じゅさんみ)からです。官位がすべてであった貴族の中でも、異例の出世です。顕季は、父母や妻の兄通俊の影響を受けて、若い頃から和歌を好み、娘婿の藤原(三条)実行・源雅定、子の長実邸で歌合を催しては判者となり、初めて「人麻呂(ひとまろ)影供(えいぐ)」(※1)を行い、12世紀の歌壇に大きな影響力を持ちました。顕季の長男(八条)長実には2人の息子と娘がおり、寵愛の末娘は鳥羽院に入内して近衛天皇を生んだ美福門院得子で、従兄弟の藤原家成と共に鳥羽院政後期に勢力を持ちました。彼女の女房には女流歌人として名高い美福門院加賀がいて、後に藤原俊成(しゅんぜい)の妻となり、定家を生みます。顕季の次男(三条)家保の嫡男・隆季は、平清盛と結び、親王以外で初めて太宰帥(だざいのそち)となりました。
 隆季の嫡男の隆房(1148~1209)は、清盛の八女を正室に迎え、雅な平家文化に親しみ、『千載和歌集』以下に34首載る歌人で、平家滅亡後も順調に官位を進め、正二位権大納言となります。壇ノ浦から帰洛した建礼門院(けんれいもんいん)らの世話も妻と共に行いました。後白河院を経済力で補佐し、幾人かの裕福な廷臣の娘を妻とし、洛内に7箇所ほどの邸宅を持つに至りました。現在の東山の高台寺の地にも別荘を持ち、桜の花見の名所で、院や天皇が立ち寄ることが多かった理由は四条家(※2)の娘が皇子女の乳母になることが続いたことからでもありました。

 政権の中枢にいた四条家の姿を伝える史料が「石清水八幡宮史料叢書三 臨放記」にあります。「臨放記」は、放生会に関する記録で、会式を担当した貴族などの名が記されています。嘉応(かおう)元年(1169)9月15日の八幡放生会に、上卿(しょうけい)以下参向した者の名が書かれ、権大納言隆季、参議(藤原)親範卿、実務官僚である左少辨為親、右少将隆房朝臣、左近衛少将通資などの名があります。「上卿」は大納言などが務める責任職で、この時の奉行は隆季で、諸事万端から費用も賄ったものと思われます。
 賀茂社や石清水社などの臨時祭の上卿になることは、財力のある者を中心に、年頭などの「陣定」で決められます。それ故に、その役を逃れたいときなどはその場に列席する参議などに公然と賄賂が贈られていました。特に石清水の会式には莫大な費用が係り、近臣受領の懐に頼ることが平然と行われていました。平清盛が石清水臨時祭の舞人を務めた時も、白河院は顕季の次男家保夫妻が乳母であったことから、贅を尽くした装いが話題になったのでしょう。
他の社寺の行事に比べて、石清水の場合は船の手配とそのための人力、当日の夜の宿泊など、余計な出費が係りました。ちなみに、今日、京の二大祭とされる賀茂祭も当時は「臨時祭」を指しました。臨時祭は天皇が主宰しますから、華やかに執り行われ、裕福な近臣の力量を見せ付けることが競われました。こうしたことから、天皇や院は、彼らの富に甘んじて、大伽藍を建立させたりし、さまざまな形の「成功(奉仕)」によって官位を授けました。天皇の多くの皇子女たちを養育することもそうした近臣たちで、その養君が皇位に就くことにより、政権を左右する事態が生まれることもありました。
 歌道の家となった六条籐家は、顕季の三男顕輔(あきすけ)から始まります。顕季の邸の一つが六条南東洞院東にあり、顕輔の邸が六条大宮にあったことからこの家筋を六条家というようになったといわれます。顕季から和歌に関するすべてを引き継いだ顕輔は、崇徳院の下名で『詞花和歌集』を編纂します。また、その子である清輔も二条天皇の信任を得て『続詞花和歌集』の撰者となり、編纂に勤(いそ)しみますが、天皇崩御に会い、勅撰集にはなりませんでした。しかし、清輔は多くの歌会の判者となり、御子左家(※3)の俊成の台頭を押さえて、歌壇の第一人者たる地位を守り続けました。
 多様で優れた歌人であった清輔の没後は、後鳥羽院が御子左家(みこひだりけ)を支持するに及んで、歌壇の中心は、俊成が務めることとなりました。清輔の弟である重家が六条家を継ぎ、その息子である有家は『新古今和歌集』の撰者の一人となり、その子である知家(1182~1258)は藤原定家の弟子となりました。知家の歌に次の一首があります。
    男山秋のけふとや誓ひけむ 
    川瀬に放つよものいろくづ   (新六帖)
 石清水の放生会に参向した時に詠んだものです。「よも」とは多くの、「いろくづ」は魚です。放生川に魚などが放たれる光景を切り取って詠まれた歌です。
 御子左家の祖である俊成(しゅんぜい)は、91歳の天命を全うするほど長生きで、建仁3年(1203)11月23日、後鳥羽上皇より、二条御所で「九十賀」を賜り鳩の杖を戴きます。鳩の杖は、80歳になった功臣が宮中へ出務する時に杖をつく事が許された証として授与されたものです。この杖を王杖といい、後にその形状から鳩杖というようになりました。最初から鳩の飾りがついており、中国の漢時代から長寿の功臣が賜る儀礼がありました。この儀礼の日本での初見が俊成の時で、お祝いに戴いたこの杖は冷泉家に遺されています。
 鳩は陽の最大数字「九」を付ける鳥として、「鳩に三枝の礼あり」といわれ、小鳩は育ててくれた親鳥に敬意を表して、親鳥より三本下の枝に留まる、とされていることによるなどの諸説があります。それ故、日本では長寿を愛でる吉祥の鳥とされて、200歳の長寿を全とうしたという伝説の大臣・武内宿禰にあやかって鳩の彫刻のついた杖が贈られるようになり、また、八幡神である応神天皇のお使いが鳩であるとされ、臣下の「長寿を願う」天皇の思いから鳩杖が贈られる儀礼が続いて来たのでしょう。ちなみに、最後に下賜されたのは吉田茂元首相で、以後は廃止されました。
 こうして今日まで続く「歌道の家」、冷泉家(れいぜいけ)の時代が始まったのです。
(京都産業大学日本文化研究所 上席客員研究員)
 

(※1)人麻呂(ひとまろ)影供(えいぐ);藤原顕季がはじめた人麻呂影供は、その後、六条家恒例の行事として代々伝えられた。顕季から顕輔→清輔→経家・・・と伝えられ、画像の伝承者が六条家歌学の正統を継ぐ者とみなされたようである。その後、人麻呂影共は歌壇全般の流行となり近世にいたるまで続けられてゆく。(『和歌大辞典』より)
(※2)四条家;藤原氏北家末志茂の嫡流。平安末期の家成の子隆季に始まる。代々院の近臣として活躍し、天皇の乳父・乳母が多く出た。後醍醐天皇の近臣として知られる隆資(たかすけ)が八幡合戦にて戦死し、この一流は途絶えたが、別流で、幕末・維新期に活躍した隆謌(たかうた)は七卿落ちの一人。(『日本史広辞典』一部加筆)
(※3)御子左家(みこひだりけ);ふつう藤原長家―忠家―俊忠―俊成―定家という流を御子左家と称し、和歌の家としては大きな存在であった。但し、例えば俊成は五條、定家は京極に住み、六条家のように邸宅が一定というわけではなく、六条家などに対する総称の意味で使われた。(『和歌大辞典より)


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by y-rekitan | 2016-02-28 07:00 | Comments(0)
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