◆会報第71号より-02 中世都市八幡

f0300125_273775.jpg
《講 演 会》
中世都市 八幡

2016年2月  松花堂美術館講習室にて
 藤本 史子 (武庫川女子大学非常勤講師)

               
 2月14日(日)午後1時半より松花堂美術館講習室にて2月例会が表題のテーマで開かれました。講師である藤本史子(あやこ)さんは、歴史考古学が専攻で、現在は武庫川女子大学の非常勤講師を務めておられます。大坂城三の丸跡遺跡や兵庫県伊丹市の有岡城跡・伊丹郷町遺跡の発掘調査、淀川河床遺跡の整理作業に従事した関係で、とくに中世の都市と流通に関心をお持ちとのことです。
以下に講演の概要をまとめます。なお文章中のルビは編集者が付しました。参加者58名。


はじめに

 中世都市としての八幡を「八幡境内町」という名称でとらえたいと思います。八幡境内町とは、山上の社殿・各坊院や山下・宿院といった鳥居内の狭義の境内、あるいは鳥居前に発展した町場を指す門前町といった狭い範囲の都市的な場を示すのではなく、石清水八幡宮の成立、発展とともに形成された石清水八幡宮本殿を中心とする山上、山下・宿院そして「八幡八郷」とよばれた内四郷(科手・常盤・山路・金振)と外四郷(美豆・際目・生津・川口)を含む「場(空間)」全体を指す用語として使用します。なお、鍛代敏雄氏は石清水八幡宮寺と境内郷町をとらえる概念として「境内都市 八幡」という名称を提唱しています。

1、石清水八幡宮について

 石清水八幡宮は京都府八幡市の男山(標高142.5m)山頂から南側尾根筋そして東側山裾にかけて境内域が広がっています。交通路として、水路では木津川・桂川・宇治川三川が合流し、対岸の大山崎との間を淀川が流れ、陸路では東側山裾を東高野街道が南北に走り、途中で奈良方面へ向かう奈良街道と分岐しています。このように石清水八幡宮は水陸交通の要衝に位置し、男山山麓の西側は山城と河内の国境、対岸の大山崎は山城と摂津の国境に位置する重要な地理的環境にあるといえます。(第1図)
f0300125_1940405.jpg
 その歴史は、貞観元(859)年に南都大安寺の僧行教が大分県の宇佐八幡宮において神託を受け、翌年八幡神を男山に勧請したことに始まります。男山は都からみて裏鬼門(南西)に位置するため都の守護、国家鎮護の社として、そして伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟としての地位を獲得しました。遷座の頃より神仏習合の宮寺であり、石清水八幡宮の組織の中での要職は僧侶が占め、神官は従属的で本殿の祭祀も仏式でおこなわれていました。
 平安時代後半には荘園などで構成された所領も増え、軍神としての性格から武士の勢力が増すにともない代々の武家の棟梁に優遇され、守護・地頭として全国に配された武士が八幡宮を勧請したこともあり全国に八幡宮が造営されました。

2、空間復原のための基礎資料

(1)中世の八幡を復原するための基礎資料
主な資料として、以下の文献や絵図があります。
A、地誌 「男山考古録」 嘉永元(1848)年 石清水八幡宮宮大工職 藤原尚次
B、記録 「石清水尋源鈔附録」下 享保10(1725)年 神宝預禰宜 藤原(谷村)光信
C、売券 (表1)
f0300125_19433979.jpg
D、絵図
「男山八幡宮境内古図」(原本行方不明)…元禄11年の記載があるが絵図の制作年とは言えない。
「八幡山上山下惣絵図」(内閣文庫、幕府旧蔵資料)…山上の本殿周辺、山下に至る坊舎、宿院および境内全域、外四郷と各村の概略的な景観まで描き、境内町域の描写がもっとも詳細なもので八幡市立図書館に複製図展示してあるので常時見ることができる。
また、字限図(実地丈量一筆限下調帳、明治十一年市街成一筆限反別・収穫・地価調帳 明治四年新調土地図面綴)や地籍図(公図)も中世の八幡を復元する上で重要なものである。(地籍図による空間復原は第2図)
f0300125_1554335.jpg
地籍復原図を検討する中で以下のことがらが明らかになりました。
内四郷の中心南北道、東高野街道(常盤大路、志水大道)、および南北道から派生した東西道沿いに整然とした短冊形地割がみられる。
街路に面した土地は、屋地および畑地として利用される場合が多い。
常盤郷から山路郷の三叉路付近〔B・C〕まで、南北街路は比較的直線的に通るがそのほかの南北道、東西道共に微妙に屈曲する。
内四郷の南端について、東高野街道沿いの短冊形地割が「東林」近くで途切れる〔H〕
また、この地点すぐ南西の西車塚あたりに伝承では「市庭無常講」の碑があったとされ、このあたりで市が開かれていた可能性がある。その結果、「東林」あたりが内四郷の南端であるといえる。

E、考古学の成果
 中世の八幡境内町を復原するにあたり、次の四つの遺跡についてまとめてみます。
木津川河床遺跡(内四郷・外四郷)
科手郷・常盤郷・美豆・際目・生津の比定地では平安前期頃(10~11世紀)の遺物が出土した。
内四郷北西部は耕作地、常盤郷北の行幸橋付近では井戸が点在し生活痕が確認でき、牛馬骨も出土していることから牛馬飼育も考えられる。
山路郷の比定地では平安時代前期の遺物出土、後期以降出土量増加。この頃より町場として成立したと推定される。

清水井遺跡(内四郷-金振郷)
新善法寺家屋敷跡北側にあたるこの地点では、中世から近世の遺物出土が出土していることから、この地点の成立年代を推察。
女郎花遺跡
平安時代末から鎌倉時代(12~13世紀)にかけて谷(自然河川)を埋めて溝を造成(東高野街道の側溝)。このことから、遺跡周辺がこの頃に整備された可能性。正法寺〔建久2(1191)年成立〕の建立との関係が推察される。
木津川河床採集資料
平安時代末から鎌倉時代の土器・陶磁器が多く、大量の白磁・青磁などの貿易陶磁器、遠隔地の土器が含まれるなど周辺の集落遺跡とは異なった様相を示す。これらの状況は、八幡が流通拠点であったことを示している。

(2)空間復原をするための基礎資料比較検討の結果  
 以上、中世の八幡を復原するための基礎資料を比較検討した結果、次のことがいえます。
近世絵図の道筋・町並み表現が正確である。
地籍図が近世絵図と同様に近世に遡る景観復原の資料として利用が可能である。
田中家が位置する近辺の発掘調査(木津川河床遺跡第19次:山路)で平安時代から鎌倉時代の遺物が出土していることから、この景観を中世に遡らせることも可能である。

3、中世における都市構造の復原と変遷

 中世における八幡の都市構造を考えたとき、山上、山下、内四郷、外四郷の同心円的広がりととらえることができます。それぞれの在り様についてみましょう。別掲、第2図「八幡境内町地籍復原図」を参照ください。
 山 上
三の鳥居から八幡宮本殿までの一帯と各坊舎を含む二の鳥居より上の男山の範囲
 山 下
空間を限るものは次の通り。東;放生川、西;男山山際、南;二の鳥居、北;一の鳥居
極楽寺・頓宮・高良社を含む宿院一帯

内 四 郷(常盤郷・科手郷・山路郷・金振郷)
 内四郷(うちしかごう)の名称の初出は、正安3(1301)年の「菩薩戒会頭事」である。 
西端は科手郷、北端は常盤郷、東端は山路郷、南端は金振郷
郷に属する町名は『石清水尋源鈔附録』(江戸時代中期)によるが、中世史料にみえる町名も多い(表2 中世史料にみえる内四郷の町名 参照)。
f0300125_20415317.jpg
(1)常盤郷(ときわごう)(常盤・紺座・高橋・土橋・田中・市場・家田)
 四至は次の通り。東;柴座町内東端、西;放生川、南;安居橋から南へ延びる柴座町筋、北;大門
近世後期までの字名「門の口」。門に近い「戸際」から常盤の名が成り立ったか。
寛治5(1087)年23代別当頼清「別名、常盤」から、11世紀後半に成立していた可能性もあり。
常盤大路の名が、弘安2(1279)年『神輿入洛記』に「大御鉾一本、自常盤大路進発 (後略)」として記述されている。このことから、13世紀後半には成立。惣絵図に常盤大路に間口をひらいた街区が描かれる。
市場町が放生川東岸に形成される。市場町・柴座町・紺座町などの地名の出現から、中世末期には商業空間が広がったといえる。
八幡境内町における市の初見は、康平6(1063)年『宝殿并末社等建立記』に見られる「康平六年三月晦日甲午、社務別当清秀、於宿院河原始立午市、経両三年之後、立副子市」という記述である。当時、宿院域において午と子の日に定期市が開かれたようである。
八幡における市の常設化は、嘉禄3(1227)年『石清水皇年代記 上』にある「市庭被居新在家西向北近来売上等、先五宇作之」から読み取れる。このことにより、市庭在家(恒常的な市屋)=市が宿院と放生川をはさむ対岸のあたりにおかれた可能性があり、13世紀の初めころに常設店舗の成立が考えられる。
田中町・家田町……永暦元(1160)年 慶清法印(第29代別当)金振郷園町から田中町に移転、家田町に公文所職上野屋敷。絵図には家田町北側に公文所
田中屋敷…「応永永享年中ニ(14世紀末から15世紀前半)(中略)坊者(舎)一棟百坪之  檜皮屋也。日本一家也云々。」(田中融清「石清水祠官系図」)

(2)科手郷(橋本・大谷・科手・高坊)
 四至は、東;放生川、西;橋本、南;男山山麓、北;淀川の南岸
郷西北の垂井に光清(第25代別当)居住、科手町の檀に棟清法印(檀)(第35代別当)が坊舎を構える。
橋本…14世紀、森町人(山路郷)にのみ認められていた境内四郷内での麹売買権を犯した罪により楠葉郷内刀祢(とね)は橋本に追放となると記述する文献が見られる。このことから、境内町の境界が橋本であったことがわかる。
図師垣内(ずしかいと)…近世には図師茂左衛門道秀が居住。図師とは売券紛失の際の権利認定および保証をする者である。
大谷町…中世後期から八幡革之座の中心「大谷衆菖蒲革(しょうぶかわ)座」。これは、神宝用菖蒲革を納める神人集団の居住地を示している。

(3)山路郷(山路・東山路・奥・檀所・森・柴座)
 四至は、東;森町東端薬園寺、西;放生川、南;飼屋橋(カイヤ橋)北詰、北;安居橋
より東の東西街路(柴座町)。
地籍復原図における旦所町と森町(=杜郷)街路方向にずれが見られる。
これは、町の形成過程の相違を示していると見られる。杜(もり)郷(ごう)は八幡宮勧請前より薬園寺の門前に町並み形成されたが、旦所町以西は山路郷の形成と連動し町場化されたことによる。
森における麹相論(こうじそうろん)からどんなことがいえるのか。森町は薬園寺(天神社)を紐帯(ちゅうたい)とする共同体組織を構成し麹業を営んできた。そして、13世紀前半にはすでに専売区域独占(内四郷域を販売域とする)していたと見られる。

(4)金振郷(園・平谷・今田・馬場・茶畠・神原・志水・平田)
 四至は、東;園町東端、西;男山山麓、南;志水町南端、北;平谷北端
安元2(1176)年、祐清(第32代別当)が初めて大善法寺と称す。この頃馬場町に社家屋敷成立か。
園…志水大道から東へ派生した東西道に形成される。金振郷の「本郷」であり、園町東端の春日社は金振郷の総社であった。
勝清(第28代別当)は園町に居住して園殿と呼ばれた。
平谷(びょうだに)…『宮寺見聞私記』応永12(1405)年、北平谷在家失火により焼失とある。八幡宮側は北平谷地区が御馬屋や宿院に近接していることを理由に撤去を企て北平谷の私屋を境内郷人や諸神領・牧・交野の人夫に破却させ、放生川を拡張した。 
近世絵図では二の鳥居前まで家が描かれ、聖域を守ろうとする八幡宮側と町域を拡大しようとする平谷町人の攻防が読み取れる。
御馬所…御馬所御殿人(八幡宮関係者)が奪った麹を御馬所へ抑留した際、森町人は手出しできなかった。このことから、郷内八幡宮関係施設が聖域であったととらえられる。同時に、八幡宮側と内四郷住人とのちから関係を示すものである。
平田村(ひらたむら)…陰陽師居住が確認される。長禄年間(1457~60)『宮寺旧記』に、「平田ウシロ百姓仕丁源二郎太夫」(八幡宮下僕)が文明13(1481)年、森町人宅を壊す際、「内四郷邑老」は「両平田」の住人を実働部隊に命ずとの記載が見られる。このことから、芸能者や八幡宮に隷属する人々が居住していたことが推定される。
志水…建久2(1191)年、鎌倉幕府御家人高田忠国次男円誓が開基の正法寺が中心。高田氏は清水町に居住した縁で「清水」と改姓。後に八幡宮に憚って「志水」と称す。このことから12世紀末には志水町の成立が考えられる。 
長禄2(1458)年、『公方様御社参之時 執行可申付條々』に「一、北谷塔 坊ヨリ下地蔵堂辺マテハ、清水ノホウリ(祝ヵ)九郎ソウチ」とあり、将軍社参の際の宿院地区の掃除に志水の住人がかり出されている。このことから、キヨメに従事する住人の居住が考えられる。
東高野街道と奈良街道の分岐点に発達していた志水町と金振郷の総社である春日社が位置する園町は、郷中央に位置する馬場町に社家屋敷が成立したことを契機に一体化したのではないか。
内四郷の中で独自の郷社(春日社)を有するのは金振郷のみである。このことは、金振郷の独立性、自己完結性を示している。

外 四 郷(美豆・際目・生津・川口)
美豆(みず)・河口…応永9(1402)年「山城国守護代遊佐某遵行状」、文明2(1470)年「(田中)妙禅奉書」の存在から、室町時代にはすでに同所の地名が史料にみえる
美豆…京都から来た道が淀大橋を渡り常盤大路へと入る内四郷の北入口に位置する。
際目(さいめ)・生津(なまづ)…常盤大路から派生した東西道の延長上に位置する木津川沿いの集落であった。弘安11(1288)年、西園寺実兼・公衡親子が石清水八幡宮から春日大社へ向かう際には生津から乗船したと記述する文献あり。
川口…金振郷園町の東延長上にあたり、外四郷の中では八幡から南山城へと向かう玄関口であったといえる。
外四郷の村々は、内四郷から東へ延びる道筋の延長上に位置し、京・南山城・大和へ通じる交通の要路に立地していたことがわかる。

4、中世都市八幡境内町の特徴

 石清水八幡宮本殿を中核とし、山中に各坊院が点在する山上、その外側の男山の麓には頓宮・極楽寺を中心とする宿院(山下)がありました。それらは「聖域」と呼べるもので、その外側に境内町域(内四郷)が広がり、境内町域の周縁部にはキヨメや行刑に従事する隷属の居住空間を含んでいます。そして、さらにその外側には境内村落(外四郷)が広がるという構造を示しています。
一見すると近世城下町のようであるが、社家や図師など八幡宮に仕える人々の居住空間、御馬所などの八幡宮施設は山上・宿院にまとまってはおらず境内内四郷内にも散在。掃除などの労働や検断の際には境内住民とともに牧・交野など周辺の八幡宮領からも人を動員するなど周辺村落(後の外四郷も含む)とも八幡宮の領主権を媒介に密接な関係を結んでいる。
八幡境内町は宗教都市であり、経済都市でもある。石清水八幡宮関係の神職や参詣人で賑わっているという都市のイメージだけではなく、境内町内には職商人、陰陽師や芸能者、八幡宮に隷属する人々、事あれば周辺神領から動員される傭兵など多種多様な人々が活動している都市のイメージであった。
絵図・地籍図で復原した景観は考古学の成果によって時代を追って描くことができる。 
橋本や生津など淀川・木津川に面した湊、舟運によって集められた物資、東高野街道など陸路を通り運ばれた物資が集まる流通拠点であったという認識が必要である。このことは、木津川河床遺跡、淀川・木津川河床採集資料、石清水八幡宮遺跡、楠葉中之芝遺跡などの出土・採集資料から今後さらに解明できるのではないか。

おわりに

 中世都市八幡は、12世紀中葉から後半を画期として都市として発展したと考えられます。この時期、第29代別当慶清法印が金振郷園町から常盤郷田中町に移転し、第32代別当祐清が初めて大善法寺と称し馬場町に社家屋敷を構えたことにより(未詳)、内四郷の都市の骨格が整ったと推測されます。これは、山路郷内にあたる木津川河床遺跡第19次調査の12世紀中頃に出土遺物が増加し、木津川河床遺跡採集資料も12世紀から13世紀の貿易陶磁器や東海系の土器・陶器、防長系・吉備系土器が含まれ流通拠点としての様相が色濃くみられるという考古学の成果とも合致します。
 さらに、山上部における考古学の調査成果から12世紀前半には本殿、護国寺、宝塔院など主要堂塔がほぼ完成していたことが明らかになっており、山上部と境内町の都市プランが連動して進められていたことがうかがえます。
 12世紀前半以前は森の集落が「森(杜)郷」と呼ばれていたように個別集落が分散していた時期、12世紀中葉以降山上部・境内町域が連動し八幡宮主導で都市化していった時期、そして15世紀以降は境内四郷の住民が地縁共同体として住民結合を強め八幡宮に対抗してゆく時期であり、16世紀後半から17世紀初頭にかけて豊臣秀吉、徳川家康という統一政権による八幡宮領の召し上げ、安居神事への関与、神人身分の規定により八幡宮と住民との中世的な支配関係が解体され、中世の八幡は終焉を迎えたと考えられます。
【文責=土井三郎】 空白

参考文献(主な文献のみ)
鍛代敏雄 2008 『戦国期の石清水と本願寺』 法蔵館
藤本史子 1999 「中世八幡境内町の空間復原と都市構造」『年報都市史研究』7 山川出版社 
八幡市教育委員会編集・発行 2011 『石清水八幡宮境内調査報告書』


<<< レポート一覧へ        次の《講演会》レポートは⇒⇒
 
by y-rekitan | 2016-02-28 11:00 | Comments(0)
<< ◆会報第71号より-01 神應寺 ◆会報第71より-03 八幡大縁起 >>