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◆会報第71号より-01 神應寺


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心に引き継ぐ風景・・・②
秀吉は神應寺に泊まったか
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 近年、その素晴らしい紅葉にリピーターの多い神應寺、この名刹は1156年前僧行教によって貞観(じょうがん)2年(860)、八幡宮社殿造営と同時に創建されました。
 八幡の歴史における神應寺の事跡は圧巻ですが、まず、秀吉の事です。神應寺十二代住職の「弓箴善僵(きゅうしんぜんきょう)」は豊臣秀吉と同郷朋友であり、北政所も深く帰依しました。
 秀吉が朝鮮出兵の首途に八幡宮へ参詣した折、八幡宮に従軍の人を求めましたが、この難題に八幡宮は対応できず、怒りを買いました。その事態を「弓箴善僵」はうまくとりなし、喜んだ秀吉は神應寺で「弓箴善僵」と一献交わしたそうです。「和漢三才図会」ではその時秀吉が神應寺に入衞したとあります。入衞とあれば秀吉が宿泊し、お供の兵士が寺の周りを警護したとも取れます。果して真相は如何に!
 「弓箴善僵」は名護屋(現佐賀県)の陣に随従しました。その後に、陣中見舞いとして贈った「帷子(かたびら)」を喜ぶ秀吉の朱印状が残ります。
 またこれも知られていませんが、「弓箴善僵」は東山「高台寺」の勧請開山で、「高台寺」は元々神應寺の末寺でありました。北政所は秀吉の死後、後陽成天皇から「高台院」の院号を授かると「弓箴善僵」和尚のもとで出家得度しました。
 神應寺は豊臣秀吉と徳川家康から共に百二十石の「領地朱印状」を給わっています。
(写真と文 谷村 勉)空白


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by y-rekitan | 2016-02-28 12:00
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