◆会報第71号より-04 五輪塔②

シリーズ「五輪塔あれこれ」・・・②
これは何なのか

野間口 秀國 (会員) 


 「鎌倉初期の在銘遺品はまだ知られていないが、将来発見の可能性はある」(*1)と書かれているように、鎌倉時代の初期、中期の五輪塔には銘を見ることは少ないようです。私がこれまでに訪れた五輪塔にも、大きさに関係なく多くは銘が刻まれておりませんでした。一方、それらの近くで見られた墓碑や記念碑、道標などの多くには建立目的やその年(月・日)、建立者名や団体名などを確認できました。このように銘が有るか無いかで五輪塔に対する人々の興味が薄れたりも、逆にまた深まったりもするのではないでしょうか。

 対象物の「何」「いつ」「誰」「どこ」などが不明な時には、解決の入り口として先ず「何なのか」から考えてみることも一方法であると『兵庫県謎解き散歩』(*2)に書かれてありました。f0300125_9485339.jpg同書には兵庫県高砂市の竜山山塊の宝殿山にある日本三奇の一つである生石(おうしこ)神社のご神体について書かれてあり、それは岩山から刳り貫かれた一辺が約6メートルを測る巨大な石造物です。しかし、これがいつ、誰によって、何の目的で造られたかは複数の説があり正しくはわかっていないようです。本章では、同じように諸説ある(*3)石清水八幡宮五輪塔の、これはいったい「何/What」なのか、を前述の図書(*2)からの学びに従い私見も含めて書きたいと思います。

さて、前章で紹介しました現地の解説板には航海記念塔とも記されてあり、「摂津尼崎の商人が・・(略) 海難を逃れた恩に報いる為に建立された・・(略)」ものともあります。このことは、八幡の歴史カルタの 「う」 の読み札の裏に書かれた解説文からも、中国・宋からの帰途にシケを逃れて帰国できたことに感謝して建立されたことが分かります。また、船乗りたちが航海の無事を祈願に訪れるようになったことから「航海記念塔」と呼ばれるようにもなったようです。ここで、八幡の歴史や出来事などを学ぶ時に避けて通れない、長濱尚次によって書かれた『男山考古録』(*4)をひも解いてみたいと思います。その巻十にある「大石塔 或曰経塚」の項には「・・石清水ノ方ヲ伏拝ミテ、此危難ヲ救ワセ給へト祈請シテ本土二帰ル事ヲ得タリ、其後報賽二一基ノ如法塔ヲ建立ス、・・」と書かれてあります。この記述からも、「航海記念塔」もしくは「如法塔」と、呼称は違えども海難から逃れられたことへの石清水八幡宮への感謝の印しであることには相違ないことが解ります。

 続いて「石清水八幡宮のご利益は何か」について調べてみました。八幡宮を参詣すると入手できる案内書には複数の御神徳が記されてあります。また京阪電車八幡市駅の大阪方面行きホーム中ほどにも、厄除開運、必勝祈願など複数項目が書かれた案内がありましたが、共に先に書きました「航海の安全」もしくは「海難除け」の項目はなぜか見当たりません。海上交通安全の神様は、多くの人に知られる香川県琴平町の金刀比羅宮なのかも、また、災難除(さいなんよけ)、旅行安全、交通安全などの祈願のいずれかに該当するのかも知れません。

f0300125_10241447.jpg ご利益については少なからず気になっていましたので、ある日の夕ぐれ時、高良神社の鳥居傍にて日章旗を降納されていた同世代とおぼしき方に、「石清水八幡宮において、五輪塔のある場所、若しくは上院にて航海安全祈願や関係者の安全操業祈願などの行事が執り行われているのでしょうか」とお伺いしました漁業ところ、「個人的にその目的で来られる方もおられるとは思いますが、神社として特別な航海安全祈願は行っておりません」とのお答えでした。ちなみに前述の案内書の「主な祭典行事」にも11月19日に執り行われる「交通安全大祭」の他にはそれらしき項目は見当たりませんでした。

ここで今一度、解説板に書かれた「摂津尼崎の商人が・・(略)海難を逃れた恩に報いる為に建立された・・(略)」に戻ってみたいと思います。『男山考古録 巻十』にはまた「・・(略)叉或説云、承安年中尼ヶ崎富優(有)ノ大賈(たいか)アリ、交易ノ爲二入唐シ・・(略)」と書かれてあります。そこで、尼崎の歴史が書かれた史料に、石清水八幡宮五輪塔と尼崎の商人とのつながりを見いだせないかと考え尼崎市立図書館に足を運びました。が、 『尼崎市史』にも同市立地域研究史料館にて紹介いただいた史料、『図説尼崎の歴史』にも、承安年間(1171~1175)にそのような記録や伝承らしきものは見出せませんでした(*5)。また同書には「・・承久ノ兵乱ニ軍師数ヲ盡(つく)シテ落命ス、之為承応年中築之、依テ称武者塚・・」と書かれてあり、この記述からは承久の乱(承久3年/1221)の戦死者の墓であると理解できます。

 これら「承安年間の摂津尼崎商人説」と「承久の乱の武者塚説」の二つの史実には50年ほどの開きがあります。また五輪塔の造立年代が鎌倉時代と考えられている(現地の解説板にもあり、後の章でも書きますが)ことからも、個人的には承安年間の尼崎商人説には少なからずの疑問は残ります。本章ではここまでとして次章でももう少し「何/What」にこだわって考えてみたいと思います。

参考図書・史料等

(*1)『石造美術入門 歴史と鑑賞』 川勝政太郎著・社会思想社刊
(*2)『兵庫県謎解き散歩』大国正美編著・日経出版刊
(*3)日本経済新聞2014(平26).3.27夕刊記事 「武運長久 見守った巨塔」
(*4)『男山考古録 巻十』 長濱尚次著
(*5)『尼崎市史』第1巻・第4章、及び『図説尼崎の歴史』中世編第1・第2節


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by y-rekitan | 2016-02-28 09:00 | Comments(0)
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