◆会報第72号より-02 山上伽藍

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《歴探ウォーク》
石清水八幡宮 山上伽藍の探訪


2016年3月 石清水八幡宮山上 にて
小森 俊寛 (有)京都平安文化財

 3月13日(日)、石清水八幡宮研修センターにて表記のタイトルで講演と山上の歴史探訪ウォークが開催されました。
 レジュメに沿ってその概略を紹介します。参加者52名。

(1)はじめに

 石清水八幡宮は、平安時代前期の貞観元年(859)に男山山上に鎮座されて以来、石清水八幡宮寺と称され発展してきた。男山の山上には、神社の祠や仏教的な堂塔が次々に建設され、平安時代後期頃には神仏習合の「山上伽藍(がらん)」が完成する。また平安時代後期から中世にかけては、伽藍の発展に伴うように、男山の東斜面にはのちに男山四十八坊と称される小寺院群が形成され、山下の頓宮(とんぐう)や極楽寺なども加えて、山上山下には寺と神社が一体化した独特の歴史的景観が成立する。明治時代初頭における神仏分離令の発布と、それに伴う廃仏毀釈運動によって、これらの伽藍のうち仏教施設であった堂塔が破却され、建物部分は全て姿を消すこととなった。これらの痕跡は、大塔(だいとう)跡、護国寺(ごこくじ)跡、瀧本坊跡の発掘調査で明らかになったように、地下の遺構として極めてよく残っていると推測されるが、地下だけでなく、目を凝らしてみると地上にも、石垣や平坦面(テラス)、あるいは柱の基礎である礎石として、石清水八幡宮境内の随所に失われた伽藍の痕跡が残っている。
 今日は「伽藍」の理解からはじめ、石清水八幡宮寺だけに特徴的に見られた神仏習合の山上伽藍の意味を考えていき、現場にたってイメージを深めたい。

(2)伽藍配置について

 伽藍配置とは、堂塔部、即ち塔・金堂・講堂・経蔵・鐘楼・回廊・大門・中門など寺院の中心を形成する堂舎の配置を指すと記されている(『日本考古学辞典』)。朝鮮半島や日本列島では、堂舎が左右対称性を有することや、一直線上に並ぶなどの配列が認められ、定形化したものが確認されている。
 寺とは「仏像を安置し、僧尼が居住し、道を修し、教法を説く殿舎」(『広辞苑』第二版)とされ、日本では古代以来現代に至るまで仏像を拝むことが重んじられる場であると認識されていたと理解される。
 インドにおける仏教の初期段階では、僧が修行する伽藍の中心はストゥーパ(仏塔)であった。それが中国大陸、朝鮮半島、日本列島へと伝わっていく過程で、伽藍の中心は塔から、仏像を安置した金堂へと変化し、金堂は後代には本堂と称される如く寺の中心施設となっていく。

(3)石清水「八幡造」と山上伽藍
 (『石清水八幡宮境内発掘調査報告書』より抜粋)

 本殿は「八幡造」で、本格的なものは4例ともされる遺存例の少ない形式の神社建築とされている。f0300125_1011322.jpg八幡造の始まりは宇佐神宮にあり、八幡三所大神と称される三神を並置して祀るという基本要素は石清水も宇佐と共通している。しかし、宇佐神宮では6宇3殿とされ、それぞれの大神の内院・外院の2屋根からなる独立した3殿が並ぶ分割型であるが、石清水は6宇宝殿とされる長大な前後2屋根からなっており、3殿が完全に連結する一体型形式へと変化している。このような建物構造の変化からは、宇佐神宮八幡造が、三所大神が集合した経過を残す原型となった最初期型であり、それに対して石清水の八幡造は、八幡大神が八幡大菩薩となり三所大神の結合がより進んだ形を示す「発展完成型」と評価できる。
 このような変化については、神社の本殿という一面からだけでは理解が難しく、神仏習合の進展からの視点が必要である。石清水の八幡造の本殿は、八幡宮という神社としての一面からだけで造られたものではなく、八幡宮寺の中心に座る本堂=金堂、あるいは密教系寺院では根本中堂とする意図を持って造られたと理解すべきで、既存の大寺院の金堂に匹敵あるいは凌駕するような威容を持った一体型の本殿を造り上げたものと考えられる。僧・行教が、完璧な青写真を持っていたとは考え難いが、男山の山上一帯に神仏習合の宮寺としての一大伽藍を形成しようとする強い祈念を感じ取ることができる。このことは、護国寺のあり方や宝塔院の位置等にもよく示されている。
 護国寺は、貞観年間の早い内に本殿と連動して建立されたと理解される。しかし護国寺は、創建当初から明治初年の廃絶期まで、一時期観音堂が併設されたりはするが、薬師堂単独の堂宇である。宇佐神宮の弥勒寺のような、塔・金堂・講堂などを備えた独立した伽藍が形成されることはない。護国寺本堂は中世から薬師堂とも称され、主要堂塔の一角を占め続けるが、山上に点在する本殿を始めとする他の堂塔と関連性を持って、全体として一つの伽藍を構成する一堂宇であり続ける。この点からは、創建期から本殿との関係のなかで、本殿の左翼となる東北部に位置付けて建立された、講堂、あるいは、第二金堂的性格を有する堂宇と理解される。
 宝塔院も、初期から存在する主要堂塔のひとつである。側柱の柱間が5間の天台密教系の塔で、真言密教系の大塔に近い規模である。護国寺の南西隣で、本殿の東総門から下る階段のすぐ南側の小テラスに建立されていた。f0300125_10213961.jpg本殿を中心にして、山上全体での位置関係からは、護国寺と共に本殿の東側・左翼に展開した仏塔である。平安時代後期には、宇佐神宮弥勒寺の新宝塔院を西宝塔院と称して、対照的に石清水の宝塔院を東宝塔院と呼称することが史料に見えるが、石清水の山上全体を一つの伽藍と見る観点からも、石清水八幡宮寺の東塔と呼称し得る。
 本殿、護国寺、宝塔院をこのように見ていくと、この三堂宇のあり方も山上全体を一つの伽藍としていく山上伽藍の構想が、初期から存在していたことを示していると考えられる。さらに山頂部と東側からやや北東側にかけて開発が始まる面からは、「国家を守護する」という八幡大菩薩遷座の主題が、東北方にある平安京を最も意識したものであることをよく表している。本堂東側が、谷部の発達した西側(西谷地区)よりも小なりとはいえ、開発が容易であったとも言えるが、決してそうではない。平安時代の護国寺は、北東へ延びる尾根線上に、平坦地を造る方法ではなく、崖面へ張り出す懸け造りという建築技法を駆使して建立に漕ぎ付けたとの推論が、護国寺跡の発掘調査成果から十分に根拠を持つことが明らかとなった。本殿も、当初は懸け造りを一部にでも用いた建造物であった可能性があることをここで指摘しておく。
 男山の山上伽藍の形成は、平安時代前期の創建期から断続は見られるものの、鎌倉時代初め頃にまで継続する。平安時代後期の12世紀代前葉頃に、西谷地区北部に白河法皇による大塔、同南部に待賢門院による小塔が建立され、鎌倉時代に下る八角堂を除くと、山上伽藍の軸となる主要堂塔がほぼ出揃う。院政期でもある平安時代後期が、山上伽藍の一応の完成期と見てよいだろう。この山上伽藍を図上復元した堂塔を入れて俯瞰すると、北奥に南面する本殿を中心とし、南総門から三ノ鳥居までの、尾根線に沿い東に若干振れ南に延びる参道を中軸線と見立てて、その両翼に伽藍を構成する主要堂塔が配される。本堂の東側・左翼に本殿と一連して建立された護国寺・宝塔院が、南西の西谷・右翼側には大塔・小塔、少し遅れてその北に八角堂が展開する。地形からの強い制約により、俯瞰しても全体としては不規則な並びとも見えるが、それぞれの堂塔の南北軸線は本堂とほぼ揃えられており、海抜約120mの山上に、一つのまとまりを持った伽藍が明確な意図を持って造り出されたと理解してよいだろう。
 先行する比叡山延暦寺、高野山金剛峯寺の山上伽藍と比較すると、若干コンパクトではあるが、石清水の場合は、主要堂塔の周辺に大小様々な社、堂塔が建ち並び、多彩な神仏が密集する。f0300125_10281141.jpg現状から想像することは難しいが、神仏習合を具現化した小宇宙を形成していた面に大きな特徴を持っていると考えられる。密教世界の胎蔵・金剛両界の曼荼羅に対して、八幡三所大神を始めとする日本の神々が加わった、神仏習合を基盤とする石清水八幡宮寺的曼荼羅世界が、山上に具現化したと考えている。

本日歩いたルート
三ノ鳥居から参道を経て本社へ。本社から南へ延びる参道は、山上伽藍の中軸線である。
本社で参拝。現在の社殿は、寛永期の造営であるが、豊臣時代の遺構もあるという説もある。 
本社から南面して右翼となる西谷北部へ。狩尾道からの入口となる黒門付近、大塔跡、八角堂跡、その間に三女神社(弁財天社)。大塔跡には通路上に濡れ縁の礎石がひとつ露出。
西谷南部、今の涌峯塔の辺り。小塔、元三大師堂、周辺には奥坊、法童坊、梅坊などが林立。小塔は待賢門院(藤原彰子)御願として1132年に建立されたと伝えられる多宝塔。
社務所北側で表参道を横切り、北東へ参道を下る。本社から南面して左翼となる地区。
本社東門、階段下近く、宝塔院(琴塔)跡礎石群の間を参道がくだる。さらに石段参道をくだると護国寺跡テラスへ。
f0300125_10364145.jpg護国寺を見た後、男山東麓の坊跡群の間をくだりながら山下へ。
護国寺すぐ下には瀧本坊、石清水社の前から入る。瀧本は石清水社横の瀧が語源。石清水社からさらにくだると、次のテラスは泉坊。松花堂昭乗が暮らした辺り。泉坊から下り二ノ鳥居へ。山下にて解散。
 
各遺跡の解説
① 大塔跡  
本殿南西の西谷に位置した。平安時代後期の嘉承元年(1106)に自河法皇の御願により建設が始まり、天永3年(1112)供養される。
建久10年(1199)西谷一帯の火事で、小塔と共に焼失.50余年後の建長5年に(1253)に再建。慶長10年(1605)には豊臣秀頼によって再興される。
中世以降の絵図では下重方形5間、上重円形の真言形式の大塔として描かれる。
江戸時代の指図(さしず)では側柱(がわばしら)一辺14.9m、高さ27.lmで根来寺(ねごろじ)大塔(国宝)とほぼ同規模。
発掘調査で北東・北西の雨落ち溝と礎石および抜き取り穴を検出。指図どおりの規模であつた。

② 宝塔院(ほうとういんー琴塔)跡  
本殿南東に造られた仏塔。遷座以前からの塔とも伝える。当時石清水の別当であつた元命(げんみょう)が、万寿年中(1024-28)に宝塔院領を定め、延久年中(1069-74)に修造したので、このときが成立との見方もある。(飯沼賢司『人幡神とはなにか』角川選書366、2004年)
近世には、軒の四隅に琴がかけられており、「琴塔(こととう)」と呼ばれた。
江戸時代中期の指図(『八幡山上山下惣絵図』)によると、塔の大きさは側柱一辺が10.92m、高さが11.9m。
本殿南東の参道をまたぎ、基壇の痕跡と礎石が残存している。東辺の側柱の両端が元位置を留めており、その長さは10.9m。指図と合致していることを確認した。
本尊は大日如来、供僧12人が法華不断経を修する(「石清水八幡宮堂塔目録」)。
絵図に残された塔の様式(方形二重塔)からみて、天台系の大塔と考えられる。
このことから、宝塔院がはじめて史料に登場する11世紀頃、法華信仰隆盛であった時代背景から、天台宗の開祖・最澄(さいちょう)が建設計画をした六所宝塔院と同じく法華塔であつたと考えられる。
(中安真理「石清水八幡宮寺の宝塔院(琴塔)について」(『美術史研究』第42冊 2004年)

③ 護国寺跡 
本殿に次いで貞観年間に造られた仏堂。真言宗の僧侶・行教が造った寺。
「石清水八幡宮護国寺」として、平安時代は本殿と一体の施設として全山を取り仕切り、八幡宮から発給される文書はすべて護国寺から出された。
本尊は釈迦・薬師。康和5年(1103)大江匡房(おおえのまさふさ)が十二神将を寄進。
嘉暦元年(1326)焼失、建武元年(1334)後醍醐天皇臨席のもと再建供養。
真言宗の東寺長者(とうじちょうじゃ)・道意(どうい)が導師(どうし)を勤め、足利尊氏(あしかがたかうじ)、楠木正成(くすのきまさしげ)、名和長年(なわながねん)などが警護を行う。ちなみに、「石清水八幡宮社頭図」に再建後の姿が描かれる。
明応3年(1494)近接した坊からの失火に類焼。延宝7年(1679)に仮御堂再建。文化13年(1816)本堂が再興される。

◆護国寺跡の発掘調査
-輪宝(りんぽう)と独鈷杵(とっこしょ)の出土-

江戸時代後期の本堂と見られる建物の柱穴を7基確認。柱穴1が側柱の北西角にあたる。柱穴は礎石の据え付け穴で、長径約lmの穴の中央部に礎石の基礎となる根石(ねいし)が残存していたが、その上にあるはずの礎石は取り去られていた。
本堂の柱列内側に、密教の祭祀具が埋納された直径約25 cmの小坑(しょうこう)を6箇所発見。小坑は地層から見て江戸時代後期のもの。
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小坑の底に輪宝(りんぽう)を据え、独鈷杵(とっこしょ)を突き立てた状態で出土。独鈷杵は1本を除き北方向を指していた。(図1)
約9m四方の範囲に規則的な配置。このことから剣頭状の八角形に配されたと推定される。関連して、鎌倉時代の護国寺指図(設計図)からみて、本堂の須弥壇(しゅみだん)を取り囲んだものとみられる。
輪宝と橛(けつ)を用いた地鎮(じちん)・鎮壇(ちんだん)の例は、日本全国で約8箇所12例みられる。
f0300125_12125114.jpg真言宗では、橛を先に置き輪宝を上から突き立てる。天台宗の修法は、先に輸宝を置き、その中央の穴に橛を突き立てるもので、出土状況でどちらの修法によるものかがわかる。護国寺の出土例は、天台宗の修法によるものである。(森郁夫『日本古代寺院造営の研究』1998年)
天台宗の修法は円仁(えんにん)が請来した経典「聖無動尊安鎮家国法」が典拠。護国寺例では橛でなく独鈷杵が用いられており(図2)特異だが、八方に埋葬する修法は「安鎮家国法(あんちんかこくほう)」であった可能性がある。
真言宗寺院として創始された護国寺であったが、江戸時代後期には天台宗との結びつきが強かったことが判明された。これは、江戸幕府との関係によるものか。

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by y-rekitan | 2016-03-28 11:00 | Comments(0)
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