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◆会報第72号より-03 五輪塔③

シリーズ「五輪塔あれこれ」・・・③
続 これは何なのか

野間口 秀國 (会員) 

 「廟(びょう)は墓では有りません。神として祀る所です。石清水八幡宮は、院政期において天下第二の宗廟といわれるようになりました。天皇の祖先神である応神天皇を神として祀る所であるからそういわれているのです(*1)」。鍛代敏雄氏の講演「神国論の系譜」を報じた歴探の会報第54号にはこのように書かれてあります。書かれた文面からは、石清水八幡宮の五輪塔は墓石や墓標では無いことになるのですが、現地の解説板には、「・・・、鎌倉時代の武士の霊を慰めるために建立された武者塚である・・」との伝説もあることが書かれてあります。本章では「これは何なのか」ついてもう少しこだわってみたいと思います。
 『男山考古録 巻十』(*2)には「・・承久ノ兵乱二軍師数ヲ盡(つく)シテ落命ス、之為承應年中築之、依テ称武者塚云々・・」とありますので、承久の乱(承久3年/1221)の戦死者の為に、承應年間(1652~1655)に建立されたであろう墓塔なのだと分かります。承久3年に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れたこの兵乱で、命を落とした兵士は両軍合わせると当時としてはかなりの数に及んだと考えられます。これら兵士の死を弔うことを決め、当時では最大規模の墓塔建立を発願し、その造立にあたらせたのは誰だったのでしょうか。また、「元寇の犠牲者を供養するために建てられたのでは、との説が近年研究者らに有力視されている」(*3)と報じられていたことも「何なのか」を考えるヒントになりそうなので記しておきたいと思います。

 ところで、戦で倒れた兵士を弔う墓塔を実際に見る機会がありましたので、そのことに触れてみたいと思います。2015年の秋、鳥取県西伯郡大山町の長綱寺と名和神社を訪れました(*4)。◆会報第72号より-03 五輪塔③_f0300125_16243182.jpgこの寺と神社は96代・後醍醐天皇(1318~1339)を主君と仰ぐ名和(なわ)長年(ながとし)の墓所です。長綱寺の裏山には名和公一族郎党の墓所があり、住職さんより「悪意を持って入らない限り問題無いですよ」とのお許しをいただき小高い裏山に登りました。昭和5年(1930)の山林開発中に発見された小型五輪塔など200余基が集められた石塔群は、まさに700年ほど前に起きた船上山の戦い(元弘3年/1333)の様子を彷彿とさせるものでした。これに勝利した名和長年は後醍醐天皇により伯耆守(ほうきのかみ)に任じられましたが、延元元年(建武3年/1336)の湊川の戦いの後に京に入った足利尊氏に敗れ討死しました。また京で討死した名和年長と長男・義高、三男・高光の首塚と伝えられる三人五輪も名和神社からほど近い同町内で見ることができました。名和長年の戦没遺蹟が京都市上京区西陣の名和公園に今も残ること、かつてこの公園のある学校区と大山町との交流があったことはあまり知られていないのではないでしょうか。

 解説板にも書かれてあり『男山考古録 巻十』でも確認できる今一つの「何」が忌明塔(きあけのとう)【注1】です。当時の郷中に一般的にあった習わしとして、父母などの七々日(なななぬか-しじゅうくにち)の忌明け日(50日目)にこの石塔を詣でて賽銭2~3穴(穴のある硬貨を2~3枚)を供え、喪の汚れを清めたという。が、このような慣習さえもその謂れが分らないとも同書には書かれています。石清水八幡宮とともに京都市内には忌明けの信仰を伝える寺として、◆会報第72号より-03 五輪塔③_f0300125_16325267.jpg知恩院五輪塔(東山区)、観音寺五輪塔(上京区)、行願寺五輪塔(中京区)などが知られています(*5)。また解説板にはありませんが「蒙古襲来に際して、亀山上皇が弘安4年(1281)6月20日に八幡宮社前で祈願されたことに関連して造立されたものではないかとも考えられる」との記述もあります(*6)。

 このように「石清水八幡宮五輪塔が何なのか」を知ることは難しいと分かってきましたが、とは言え五輪塔は古くは平安時代後期から造られております。その大きさは鎌倉末期に最高の水準に達し、それ以降は造立者の階層が中級へ、そして市民へとなるにつれて、室町時代頃には小さいものが普遍的に造立されるようになり、今日では墓地のあちこちで見ることができるのです。書籍や史料、その他の刊行物などには、「塔は密教の五つの思想(空・風・火・水・地)を上から団形(空輪)・半円(風輪)・三角(火輪)・円(水輪)・方形(地輪)に表したものと考えられている」と、ほぼ同じような説明が見られますが、塔の宗教的解説は関連する専門書などを参照いただきたいと思います。「石清水八幡宮五輪塔が何か」について確定的なことは分りませんが、『男山考古録 巻十』に書かれていることや言い伝えなどを尊重することは大切であると思います。なぜなら、五輪塔が海難を逃れた報恩の標し、先祖を祀り冥福を祈る供養塔、戦に倒れた兵士を弔う碑、喪の汚れを清める忌明けの塔などと称され、いずれもがその時々を生きた人たちに崇められたものと伝えられているからです。

 本章の最後に資料や情報提供いただきました大山町教育委員会のご担当者、長綱寺御住職様に紙面をお借りして感謝申し上げます。次号では五輪塔の歴史的な時間軸「いつ/When」についてお墓の歴史などと共に考えてみたいと思います。

参考図書・史料・資料等:
(*1)2014(平26).8.31 鍛代敏雄氏の講演「神国論の系譜」(歴探会報54号)より
(*2)『男山考古録 巻十』 長濱尚次著
(*3)日本経済新聞2014(平26).3.27夕刊記事 「武運長久 見守った巨塔」
(*4)『大山町文化財ガイドマップ』鳥取県西伯郡大山町教育委員会編
(*5)『京の石造美術めぐり』竹村俊則・加藤藤信著 京都新聞社刊
(*6)『八幡市誌・第一巻』第3編 古代の八幡
【注1】忌明塔(きあけのとう)は、(いみあけのとう)との読みもあります。


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by y-rekitan | 2016-03-28 10:00
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