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◆会報第72号より-04 宮廷と歌合②

シリーズ「宮廷と歌合」・・・②
宮廷と歌合、そして石清水宮寺
その2

大田 友紀子 (会員) 


石清水若宮と歌合

 ここで石清水宮寺での「石清水若宮」の存在について考えてみたいと思います。
 古来より重要視されてきた「若宮」とは、本宮に祀る神の御子神であると説明されます。本宮(=本殿)に祀る神の御魂は『和御魂(にぎみたま)』で国家を護り安寧に導くとされ、穏やかな魂の働きをします。それに対し、『荒御魂(あらみたま)』は神の荒ぶる魂であり、「若宮」の姿の一つであるとされています。そして、人々は、静の「和御魂」と動の『荒御魂』という二つの神の姿を信仰していたのです。                       
 現在でも、伊勢神宮の本宮では、日本国の平和と安泰を祈り、個人の祈願は摂社の荒祭社にて行うとされています。石清水八幡宮寺の境内にある「細橋(ささやきばし)」の伝説には、伊勢の遥拝所の方向から天照大御神がおみえになり、本殿から来られた八幡神とこの橋の上でお会いになり、この国の行く末や私たち人間のことを話し合われるといわれています。伊勢も石清水も共に天皇を守護する神社です。そのためでしょうか、天皇の政(まつりごと)によからぬことがあれば、石清水の本殿が鳴動して天皇に宣(のたま)うとされ、『太平記』などにも鳴動のことが出てきます。◆会報第72号より-04 宮廷と歌合②_f0300125_1903161.jpgそのような時には、きっと若宮が行動を起こすと信じられたのでしょう。
 そんな強い力で行動する神である若宮に、神を讃える和歌を奉献し、そして自身の誓願も和歌にしたためて祈ったのです。具体的には、若宮社の社殿前、もしくは近くの殿舎などに集まり「歌合(うたあわせ)」が催され、後に、詠まれた歌が奉納されることが流行るようになりました。

神社での歌合

 神社で行われる歌合の始まりは、嘉応2年(1172)10月9日に、住吉社にて道因法師が催したとされています。この時の判者は藤原俊成が勤めます。橘成季(たちばなのなりすえ)が著した『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』には、この「住吉社歌合」とそれを羨やんだ廣田大明神が3人の歌人の夢に現れたので、このことを伝え聞いた道因法師は、ならば広田社でもなそうと出かけ「広田社歌合」を催したことが書かれています。廣田社の祭神は天照大御神(の荒御魂)とされていますが、古代、もしくは中世には神功皇后とされていたのでは、と私は思っています。なぜなら、住吉大社の第四宮には神功皇后が祀られていて、この頃、「住吉の神 和歌の神」とされていて、両社に共通して祀られているのは神功皇后だからです。
 和歌の歴史は、歌合と共にあると言っても過言ではありません。歌合は、日本で発生した独自の文学的遊戯で、それまで模範として尊重されてきた中国にもありません。その始まりについては諸説ありますが、平安貴族の間で流行っていた「物合(ものあわせ)」や宮中儀式、行事に加えられることで徐々に盛んとなっていったようです。「物合」とは、貝合(かいあわせ)や絵合(えあわせ)など、共通する二つの物を比べ合わせてその優劣を決めるという遊びですが、そこに和歌を持ち込むことで、遊戯性と文学性という要素が混じり合い、貴族に好まれるようになったようです。
 歌合は後になるほど複雑な取り決めがなされ、歌人関与のあり方も制約がありましたが、だんだんに勝負を重んじる方向に転じ、歌合に負けたことにより病死するという説話まで語られるようになっていきます。院政期の頃より開催されることが多くなり、それに「和歌の家」の問題がからみ、鎌倉期になると、勝負の結果がことさら大事となり、歌人も判者も独自の創作法や判定法で対処するようになっていきました。院政期の最後の頃の歌合となった「(石清水)若宮社歌合」は、建久2年(1191)3月3日に開催されています。判者は阿闍梨顕昭で、六条籐家の歌人です。その後は、御子左(みこひだり)家の俊成・定家父子が務めるようになっていきます。

和歌に詠まれた石清水宮寺

   ここにては 雲ゐにみえて をとこ山 
   あまの河こそ ふもとなりけれ

 この歌を詠んでいるのは、前僧正隆辨(さきのそうじょうりゅうべん)(1208~1283)です。隆辨自身は、あまり著名ではありませんが、四条家の出身です。兄の隆衡(1192~1255)は、平清盛の娘を母として生まれています。父は後白河上皇の側近として仕えた四条隆房で、建礼門院の世話を妻と共にしたことなど、四条家の財力のほどをうかがい知る逸話を多く残しています。
 隆辨は隆房の息子ですが、生母については不明です。けれども、園城寺の円意に灌頂をうけ僧の一歩を踏み出していること、その後園城寺の最高位である長吏に建治2年(1276)に還任(かんにん)していることが記録されていることから、生母は正室の清盛の娘ではないか、と私は推測しています。というのも、宝治元年(1247)に鶴岡八幡宮寺の別当にも就いているからです。園城寺の長吏の前任に就いた年は不明ですが、還任自体があまりなかったことからも、その才が非凡ではなく、祈祷僧としての業績が伝わっています。また、北条時頼の妻の御産の話、つまり、次期執権時宗が生まれた建長3年(1251)5月15日、出産時間まで予言した話などの霊験譚(れいげんたん)などが著名です。あるいは、隆辨が八幡大菩薩御影像を造立して、鶴岡別当坊に安置したことや、怪異を静めるために29日間、時頼邸に出向いたことなど枚挙にいとまがないほどです。
 「ここにては」の歌を『男山考古録』では、文永8年(1271)、隆辨が熊野詣の後、天河のほとりにさしかかった時、男山の方を見て詠んだとあり「天の川ハ(略)河内国交野私市を過て、枚方驛の北禁野という所にて淀川に注ぐ、前の歌ハ、西の方より遠く望てよめる也」と述べられています。想像ですが、隆辨は奈良へ行く前に石清水宮寺(大乗院?)に立ち寄ったようです。石清水宮寺と園城寺との係わりについてはわかりませんが、平安後期の摂関家の藤原頼長(よりなが)の日記には奈良の興福寺との関係が頻繁に出ています。「何宗にも俗さず」であった石清水宮寺は、裏返せばすべての宗派との交際があったのかもしれません。
 石清水宮寺をイメージさせる「石清水」や「男山」は、数々の和歌に詠みこまれて、八幡の文学碑にある能蓮法師(のうれんほうし)の歌のように、多くの歌合が宮寺の境内で催され、八幡大菩薩の若宮神への「奉納和歌」となりました。『古今和歌集(こきんわかしゅう)』の撰者である紀貫之(きのつらゆき)(?~946)も「松も老いまたも苔むす石清水行く末とほくつかへまつらむ」と詠み奉げています。
 隆辨は「雲ゐ」を天上界と詠み、神の山である男山に坐す八幡大菩薩を重ねて、その威光が今自分 がいる河内国の天の河の畔までも及んでいることを感歎して詠じています。
 石清水若宮への奉納和歌では、水神とされる「石清水」「いはし水」と詠みこんでいるものが最も多く、次に「男山」「をとこ山」「八幡山」「やはた山」と神山への崇敬の心を表す歌が続きます。この頃の風景を彷彿とさせるのが、平成23年(2011)、八幡市教育委員会より発行された『石清水八幡宮境内調査報告書』の資料編に載っている「五街道其外延絵図 東海道巻第十二」で、淀川沿いに築かれた堤(=京街道)に護られるように描かれています。もちろん、隆辨の時代に堤はありません。神の山である男山とその麓には、頓宮や大乗院・高坊が立ち並び、大谷川(=放生川)の東側には田中殿などの屋敷を中心に町並みが連なり、市が開かれてにぎわう門前町が形成されて行きました。
 以前、安芸の宮島・厳島神社に行ったことがあり、「厳島は観音さまの島であり、島の形が観音さまの寝姿に見える」という説明を聞きました。近づいて来る宮島を見ていると、左側の観音さまの頭部、真ん中の低い所は首、そして胸へと続く丘陵が見え、海の波の布団を掛けてゆったりと、眠る観音さまをイメージさせる神の島がありました。
 江戸時代まで宮寺が存在した男山は、そのまわりを海のように広がる田畑に取り囲まれた島のようで、まさに宮島と同じではなかったでしょうか。というのも、東を流れる大谷川を越えたところに墓地が営まれ、中ノ山墓地も南の端万称寺山にあります。それは、神の山である男山も宮島と同様に聖なる地であり、その丘陵の形容は、巨大なお釈迦さまの寝姿といわれていたそうで、まさに「涅槃」そのもの。現在でも、御幸橋の辺りから眺めると、八幡宮本殿がある山が頭部で、横たわった姿に見えます。それゆえに、石清水宮寺が「阿弥陀の浄土」とされていたのかもしれません。
 江戸時代の図会(=観光案内書)には、男山丘陵は鳩が羽を広げたようである、とも書かれています。
 昔の木津川の流路は、久御山から淀に向かう府道15号線上であったとされ、ひょっとすると、淀大橋の辺で見た男山の姿かも知れません。
 ところで、後鳥羽上皇は、三種の神器が無いという特殊な状態で即位されました。それ故に、神仏を深く信仰され、石清水宮寺へは合わせて29回も詣でておられます。けれど、その祈りは届きませんでした。そのことは、後醍醐天皇も同じです。そして、それは奸臣を周辺に侍らせていたことによる、と言われています。それは、時代に選ばれなかっただけではないでしょうか。 (完)
(京都産業大学日本文化研究所上席客員研究員)空白


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by y-rekitan | 2016-03-28 09:00
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