◆会報第73号より-02 石清水八幡宮

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《講 演 会》
石清水八幡宮の由緒と建築様式

2016年4月 石清水八幡宮研修センターにて
 神道 尚基 (石清水八幡宮 権禰宜)

              
 4月21日(木)午後1時より、石清水八幡宮研修センターを会場に、今年度はじめてのイベントとして年次総会と例会を開催しました。朝からのあいにくの雨にも拘わらず多数の方々にお越しいただき感謝申し上げます。総会の後、同じ会場で表題の講演が行われました。概要を報告します。なお今回の概要は、神道尚基(じんどうひさもと)氏に直接執筆していただき、編集担当がルビや西暦・画像を挿入し、執筆者の同意のもとに掲載するものです。参加者38名。

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1、由緒と歴史

 男山は平安京の裏鬼門を守護するだけでなく、三川合流や陸路の要として重要な位置にあり、以前から山頂には石清水寺(現在の護国寺跡)が所在していた。
 この男山に貞観元年(859)、八幡大菩薩が勧請(かんじょう)され翌年には社殿が創建された。そして、貞観5年(863)に行教が元々あった石清水寺を護国寺と改め神宮寺としている。行教の甥、安宗(あんじゅ)が初代別当、行教の弟、益信(やくしん)が初代検校(けんぎょう)となりこの宮寺を維持運営していた。ちなみに、別当(べっとう)は山内から選ばれ職務全体を統括監督する役目をもっており、検校は朝廷から任命され就任し別当より上の位として宮寺を管理していた。貞観18年(876)には安宗の弟、紀御豊(きのみとよ)が神主となり、その後、別当と神主は御豊系の紀氏の僧侶が世襲し相続していく。なお、現在の宮司家は紀御豊系の子孫になる。
 神仏習合の宮寺として存続してきた八幡宮寺も、明治元年(1868)の神仏分離令(判然令)によって大きな変革が起きる。明治政府は全国の神社に対して「別当」「社僧」の還俗(げんぞく)【俗人に還る】と仏像を御神体とする神社の廃仏や仏教的施設の排除を命じた。さらに、この八幡宮寺にいた別当・社僧は還俗し、神主・社人の職名に変更となった。このような神仏分離令は古代より神仏習合の形をとってきた八幡宮寺にとっては体制が大きく変わる政策であった。なお、護国寺や大塔などは入札により売却され、護国寺の薬師如来像と十二神将像は尼寺の東山寺(淡路市)に引き取られた。その後、明治2年に八幡宮寺は男山八幡宮と改称し、明治4年に官幣大社、同16年(1883)に勅祭社となった。そして、大正7年(1918)に男山八幡宮は石清水八幡宮と復称され現在に至っている。

2、社殿の変遷・建築様式

 先ず、『石清水遷座略縁起』に「貞観二庚辰、造立寶殿、随則安置云々」[六宇寶殿(ほうでん)、正殿三宇、禮殿三宇]とあり、貞観元年(859)行教によって八幡大菩薩が勧請された翌年に社殿が創建されている。この六宇(う)の宇というのは単位で、寶殿は社殿のことであるので、六つの寶殿が建てられ、その内訳として、正殿(内殿)3つ、礼殿(外殿)3つとなる。この時は社殿が独立していたのか連立していたのかは史料を欠きわかっていない。
 次に『宮寺縁事抄』に「貞観二年六月十五日、行教造神殿、本社右傍、是行教安宗祖先也云々」とあり、社殿が創建されてすぐに、行教・安宗が祖先とする武内社(御祭神:武内宿禰命)を寶殿の右傍(神様から見て右傍)に造られている。
 次に、『石清水八幡宮御修理造営之記』に長元2年(1029)「御殿北高欄、前後犬防、幣殿南楼階日隠等始造」とあり、社殿の北側に高欄が設けられ、社殿の廻りには瑞籬(みずがき)が造られている。さらに、幣殿が建てられ、南楼の階段に階段を覆う屋根が付けられている。
 次に、『八幡宮縁事抄 巻十五』に天喜4年(1056)「寶殿大廻築事清成時、天喜四年作之云々」とあり、社殿の外廻りに築地(ついじ)が造られる。なお、清成(せいせい)は十九代検校元命(げんみょう)の息子になる。
 次に、『宮寺縁事抄』に「康平四年冬、清成取宝前舞殿中柱、渡虹梁造立云々」とあり、舞殿の中央に立つ柱を取り除き虹梁(こうりょう)が架けられる。これは、儀式をするにおいて便宜を図るための改造だと思われる。さらに、應徳3年(1086)「舞殿に石を敷く」とあり、舞殿に石が敷かれ、現在の形となる。この時点、平安時代終わり頃までには社殿を構成する建物のほとんどが整えられている。f0300125_20145743.jpg
 また、『日本三代實録』仁和2年(886)5月に「二十六日甲辰、降雨、天の東南に声有りて、雷の如くなりき。長日、山城国石清水八幡大菩薩の宮自ら鳴りて、鼓を撃つ声の如く、南楼鳴りて、風波の相激して声を成すが如く、数刻を経て停まざりき。」とあり、これは、八幡大菩薩が太鼓を打つように自鳴し、南楼も風波が激突するような音を数刻出し続けた、という怪異を伝えている。ここで注目したいのは南楼で、この南楼が楼門のことであれば楼門が単独で建っているとは考え難く、創建して間もない886年には既に廻廊が造られていたと考えられる。
 社殿が整えられ始めて炎上するのが保延6年(1140)である。正月23日に宝殿以下が炎上し、同年2月29日には宝殿六宇と廻廊の上棟(じょうとう)を行っている。この時は造国制(分担制)の下、再建が行われ、次の造国司が分担している。
 美作国(岡山県北部) 平 忠盛  
   寶殿六宇
 播磨国(兵庫県南部) 藤原忠隆  
   廻廊東三十五間、南楼一宇、馬場屋一宇
 越前国(福井県北部) 藤原顕隆 
   廻廊西三十五間、舞殿、幣殿、馬場廊屏、築垣、鳥居、門
 鎌倉時代に入ると社殿の改造が行われ、先ず、建久6年(1195)に内殿と外殿の間に板が敷かれ、正中元年(1324)には楼門前の石壇と石階に造石が使用される。この時に楼門、東門、西門、北門の前の階段が木階段から石階段になるが、現社殿にはない北門がこの時点で存在していたのは貴重な記事である。
 室町時代に入り二度目の火災が起きる。暦應元年(1338)7月5日に寶殿以下の建物が兵火に依り焼亡するが、11月25日には正殿の柱が立てられ上棟を行っている。この再建は足利直義(ただよし)が造営の責任者となり4カ月程で完成している。
 その後、建徳2年(1371)5月8日に触穢(しょくえ)【けがれ】があり、その触穢があったためか7月6日に正殿が破却され、10月25日には社殿の柱が立ち上棟が行われている。なお、この触穢以外にも元中5年(1388)、永享元年(1429)、文明18年(1486)に穢に触れるが、社殿の取り壊しまでは行われず修理で済ませている。
 戦国時代に入り、三度目の火災が永正5年(1508)に起きる。この火災で寶殿以下の社殿が炎上するが、再建されるのは大永3年(1523)になってからで、保延・暦應の火災時とは異なり15年も経過している。しかも、焼亡した建物の半分程、本殿・幣殿・舞殿くらいしか再建されていない。この時は、足利幕府が再建すべきであったが弱体化した幕府にその力はなく八幡宮寺に任されることになる、しかし、荘園をほとんど失った宮寺にもその力はなかったようである。
 安土桃山時代に入り、天正7年(1572)大山崎にて縁起を聴いた織田信長は早速に社頭の修理と若宮の造替を命じる。その修理内容は、六宇宝殿、幣殿、舞殿等の上葺きとなっており、この時に、築地塀が造られ本殿の樋も木製から銅製に改められている。この修理時に取り替えられた樋が、有名な信長公寄進の黄金の雨樋である。(※史料によっては樋の材料に金銅(銅に金鍍金)、唐銅(銅と錫の合金)、赤銅(銅と金の合金)などがあるため、詳細は今後の調査を要する。)
 次に、天正17年(1589)豊臣秀吉が母の病気平癒を祈り造営料二千石を寄進して社頭四方の廻廊を再興している。これで永正の火災以降の復興はすべて完了となるが、実に80年の月日が経っていた。
 次に、慶長11年(1606)豊臣秀頼によって造替が行われ、その内容は寶殿(内殿・外殿)、幣殿、舞殿、武内社を悉く造替とあり、社殿の中核を成す建物がすべて造り替えられている。しかし、楼門や廻廊の記載がなく造替の対象外であったと思われる。f0300125_15503879.jpg
 江戸時代に入り、徳川家光による造替が行われる。寛永8年(1631)11月に神社仏閣破損の目録が作成され、寛永11年(1634)8月22日には正遷宮が行われている。この時、幕府としては本殿の修理を葺き替えにとどめたい意向であったが、八幡宮寺の強い要望により造替となっている。なお、神社仏閣破損の目録には、造替にするもの、修理を要するもの、再興を願うもの、に別けて申請されており、造替分(本社部分)としては、内殿・外殿、武内社、楼門、廻廊が申請されている。

3、現社殿の修理と特徴

 寛永11年(1634)に現在の社殿が建てられて以降、社殿の建て替えは行われず、今日まで修理で済ませている。近世の主な修理は、寛文5~6年(1665~6)、元禄4~6年(1691~3)、享保11年(1726)、延享2年(1745)、安永7年(1778)、文化元年(1804)、文化9年(1812)、安政6年(1859)に行われており、寛永11年、延享2年、文化9年の棟札が現存している。
 近代になると文化財の保護が図られるようになり、先ず、明治30年(1897)に古社寺保存法が制定され、それまでの文化財は「特別保護建造物」又は「国宝」に指定され、石清水八幡宮は特別保護建造物として指定される。また、昭和4年(1929)の国宝保存法では、古社寺所有以外の文化財も保護する目的から、公有・私有のものも国宝の指定対象とし、その折に「特別保護建造物」を国宝と称することとした。そして、昭和25年(1950)に文化財保護法がだされ、国宝保存法時代の特別保護建造物を重要文化財として指定し、「旧国宝」と称した。
 明治以降の主な修理としては、明治45年、大正9年、昭和11年、昭和44年、平成21年に行われており、昭和11年の修理は第一室戸台風の後、昭和44年の修理は第二室戸台風の後、そして、平成16年に近畿地方を縦断した台風二十三号の後と、近年は大きな台風ごとに修理をしている。なお、明治45年修理時の写真では本殿の側面に雨除け板が取り付けられており、外部からまったく側面が見えない状態であったが、その後の修理で取り外され現在は痕跡を残すのみである。
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 次に現社殿の特徴をあげてみると、先ず、本殿が内殿と外殿を前後に二棟並べた連立の八幡造りであること、そして本殿の両側面に付けた扉(馬道)があり、正面に蔀戸(しとみど)を嵌めその前に幅広い階段を設けたこと、である。この八幡造りの本殿と側面の扉、正面の蔀戸は宇佐神宮で成立したと思われるが、三殿連立の本殿と正面に設けた幅広い階段は石清水八幡宮で成立している。また、石清水八幡宮の社殿は基壇上に建ち四周する廻廊を備えているが、同様の基壇・廻廊を持つ宇佐神宮、伊佐爾波神社、鶴岡八幡宮の基壇よりもずっと高く、他社の廻廊が各一梁間、一棟であるのに対し、石清水八幡宮は二棟廊(複廊)に庇が加わった物で、前の三社とは規模・構成が大きく異なる。さらに、楼門から舞殿・幣殿・本殿まで連続して建ち並び、舞殿の棟だけが縦向きだが、すべての屋根は檜皮(ひわだ)で葺(ふ)かれ(それ以外は瓦屋根)、床面が完全に一体化している。
 まとめてみると、三殿連立の八幡造本殿は側面と正面から出入りでき、正面には幅広い階段が設けられている。そして、本殿を囲む廻廊は二棟廊に庇が付いた大型のもので、廻廊の正面にある楼門から舞殿・幣殿・本殿までが一体化している。これらの複合建築物が高い基壇上に建っている、というのが他の神社にはない特徴である。

4、平成の大修造事業

 平成5年より「平成の大修造事業」として境内摂末社を順次修復している中、平成16年10月に襲来した台風二十三号により本殿の檜皮屋根が剥がれ、急遽翌年から本殿の修理を行い平成24年に完成している。f0300125_168382.jpg
 当宮では平成15年から重要文化財である本殿の国宝昇格、また、未指定建造物の重要文化財追加指定を目途として取り組みを開始し、先ず、平成15年から境内諸建物の調査を行い同19年に「諸建造物群調査報告書」を八幡市と協力して刊行、文化庁へ提出している。この報告書では本殿以外の建物全てを調査しており、平成20年12月2日新たに八棟が重要文化財として追加指定を受けた。
 ・摂社若宮社本殿  一棟(江戸前期)  
 ・摂社若宮殿社本殿 一棟(江戸前期)
 ・摂社水若宮社本殿 一棟(江戸前期) 
 ・摂社住吉社本殿  一棟(江戸前期)
 ・東総門      一棟(江戸前期) 
 ・西総門      一棟(江戸前期)
 ・北総門      一棟(江戸前期) 
 ・摂社狩尾社本殿  一棟(慶長六年)
 当初、本殿の修理は平成18年からを計画していたが、予期せぬ台風被害が発生したため、急遽文化庁の許可を得、平成17年から平成24年まで8年に亘り本殿の全面的な修復工事を行なった。台風被害によって生じた檜皮屋根の葺き替えは「災害復旧事業」として、檜皮屋根以外の瓦屋根や彩色・塗装工事等は一般的な「修復事業」として修理を行なっている。本殿・幣殿・舞殿・楼門の屋根は檜の皮を材料とした檜皮葺き、彩色や塗装などは自然にある物から材料を作る顔料で塗られている。なお、顔料には、鉛丹(鉛を錆びさせたもの)、朱(水銀)、緑青(孔雀石などの鉱石)、黄土(土)、胡粉(貝殻を磨り潰したもの)の粉末が使用され、熱した膠(にかわ)と混ぜて塗布していく。※ 膠(動物の脂を固めたもの)
 この修理期間中に迎えた御鎮座1150年を起点として、有識者各位と京都府及び八幡市を加えた調査委員会を組織し、社殿建築の軸となる木部は年輪年代測定や炭素測定で調べ、社殿を装飾する欄間彫刻や錺金具(かざりかなぐ)は墨書や作風から年代の測定が行われた。そして、平成26年、徳川家光公御造営380年を記念して「本社調査報告書」を刊行している。

5、まとめ(国宝指定までの経緯)

 平成26年、「本社調査報告書」を文化庁へ提出し、翌年、10月16日文部科学大臣が文化審議会へ答申する旨連絡が入る。そして、平成28年2月9日官報告示が出され正式に国宝指定を受けることとなった。
 国宝とは「文部科学大臣は重要文化財のうち、世界文化の見地から価値の高いものでたぐいない国民の宝たるものを指定することができる」とある。
 当宮の本殿が国宝に指定された理由は大きく2つある。先ずは「八幡造本殿が国内の同形式本殿の中では現存最古で最大規模である」ということ、次に「本殿などを廻廊で囲み一体化するという古代に成立した荘厳な社殿形式を保持している」ということである。
 その他の八幡造本殿は主に宇佐神宮、伊佐爾波(いさにわ)神社、柞原(ゆすはら)八幡宮があるが、宇佐神宮本殿は安政2年~文久元年(1855~1861)、伊佐爾波神社本殿は寛文7年(1667)、柞原八幡宮本殿は嘉永3年(1850)であり、石清水八幡宮本殿は寛永11年(1634)と最も古い。また、一遍聖絵(1299)に見られるように平安時代に構成された社殿群が現在までほとんど形を変えずに受け継がれてきた、ということが国宝指定の大きな要因となった。
 また、国宝指定に際し「本殿」と「本社」の用語の統一がされた。それは、「本殿」とは内殿・外殿から構成される八幡造本殿、「本社」とは石垣上に建つ本殿・楼門・舞殿・幣殿・廻廊などの建物の総称として明確に区別された。さらに、八棟だった文化財が十棟に増え一部名称の変更がなされた。それまで附(つけたり)指定であった瑞籬と摂社武内社がそれぞれ本指定となり、新たに附指定として棟札(むなふだ)が三枚、そして、「本殿及び外殿一棟」が「本殿(内殿・外殿)一棟」と改称され、正式な国宝指定名称は「石清水八幡宮本社 十棟 附棟札 三枚」となった。
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『一口感想』より

石清水八幡宮の建築様式がとてもよく解りました。興味深いお話もたくさんお聴きすることが出来、非常に有意義な例会でした。八幡に住む者として国宝石清水八幡宮を誇りに思います。 (藤田美代子)
国宝指定の苦労話、大変興味深かったです。歴史的な経緯を再度勉強する気になりました。ありがとうございました。(竹内勇)
過去からの歴史、年表など詳しい資料を見て感心しました。国宝になるまでのご苦労やいきさつが知れてよかったです。建物の絵図などがわかりやすくて参考になりました。文化財の保存・維持は大変なことと再認識しました。(匿名希望)
神道氏の講演で最も印象深かったのは、国宝指定になった二つの理由です。つまり、「石清水八幡宮の本殿が国内の同形式本殿の中で現存最古で最大規模である」こと、もう一つは「本殿などを廻廊で囲み一体化するという古代に成立した荘厳な社殿形式を保持している」という二点です。前者に関連して、一遍聖絵の存在が大きいと思います。この絵によって現在の社殿が鎌倉時代のものとそう変わらないことがわかります。また、後者については、後の質疑応答で話題になりましたが、石清水八幡宮が「宮寺」つまり神仏習合の様式を残しているということです。そんな特異な様式を持つ社殿が石清水八幡宮本社であるということが再認識されました。ありがとうございました。(土井三郎)
既に存在する国宝(宇佐神宮)との違いを、専門家の視点から調査、整理して申請され、国宝指定へと繋がれた皆様方のご尽力にはたゞたゞ敬意あるのみです。  (野間口秀國)
by y-rekitan | 2016-05-30 11:00 | Comments(0)
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