◆会報第73号より-04 詩歌と八幡の歴史①

シリーズ「詩歌に彩られた八幡の歴史」・・・第1回
淀川べりの俳諧二句

 土井 三郎 (会員) 


 八幡は、その歴史と文化の豊かさから、古来より数多くの詩歌が詠まれてきました。和歌あり、俳諧あり、漢詩、狂歌、ざれ歌の類もあります。近代に入ってからも短歌や歌謡が見られます。それらの詩歌の文学的な味わいもさることながら、詩歌を通して八幡とその周辺の歴史の断面が見えてくることがあります。ジャンルや時代を超えて、具体的な作品をもとにそれらについて考察してみたいと思います。
 内容として、一応以下の項目を考えてみました。
淀川沿いの俳諧二句、歌枕-美豆、橋本-蕪村の思い、豊蔵坊信海と狂歌、庶民の俳諧三昧-『奉納八幡谷不動 京知石撰』より、名所図会にみる名歌、松花堂昭乗と和漢連句、吉井勇と八幡残夢

 第一回は、淀川べりの俳諧二句を取り上げました。出典は『淀川両岸一覧』です。『淀川両岸一覧』は、文久年間(1861~63)に、文章を暁晴翁が著し、絵を松川半山が描いて、江戸や京都、大坂で出版されました。淀川の上り船、下り船からみた沿岸の景観を描き、名所・旧跡を紹介しています。当時の淀川の風情を今に伝えるとともに、掲載される俳諧や和歌・漢詩は味わい深いものがあります。大坂の八軒家(現在の天満橋)から京都三条に至る両岸の名所案内記ですが、八幡にちなんだ俳諧二句とその挿画を紹介します。

新月やいつを昔のおとこやま  其角

 f0300125_1464078.jpg右の挿画(※1)は、橋本の夜景を描いたもので、谷崎潤一郎の小説「蘆刈」に登場する絵画としてよく知られています。小説では、水無瀬にやってきた「わたし」が渡し船で対岸の橋本に向かう最中(さなか)に、「淀川両岸の絵本に出てくる橋本の図」つまりこの挿画を見ながら目の前に広がる橋本の実景を眺めるのです。作品が成立した昭和初期の橋本と江戸末期の橋本の風景に、鉄道の開設以外にさほどの違いはなかったのかもしれません。
 宿場町橋本の夜の風情がかもしだされ、三味線や鼓の音、酔客のだみ声や女の嬌声が聞こえてくるようです。ひときわ大きく描かれる甍(いらか)は西遊寺のお堂でしょうか。背後の男山にも堂塔の影が見えます。石清水八幡宮の大塔もしくは琴塔のようにも見えますが定かではありません。
 さて、挿画の左上に掲載されるのは景樹の和歌と其角(きかく)の発句です。
 和歌は、「をとこ山峯さし登る月影にあらはれわたるよどの河ふね」とあります。作者である香川景樹は江戸時代後期の歌人とのこと。月影に淀の川舟が現われたという通り、夜間にも航行する船があったのです。挿図をよく見ると、右側の船のマストから張られた綱を堤の上から引っ張っている人影が見えます。大坂から淀川をさかのぼる場合、このように堤から綱で引きながら航行することがあったのです。大坂の八軒家と伏見を結ぶ旅客船の内、人々に親しまれたのは三十石船です。長さ約15mで定員は28名とのこと。昼船・夜船と間断なく運行されていました。
 さて、其角の句について吟味してみましょう。
 「今見るこの月は、いつも昔からこのように光輝いているのだ」と訳すこともできますが、『古今和歌集』にあるよみ人しらずの「今こそあれ我も昔はおとこ山さかゆく時もありこしものを」の一首が思い出されます。つまり、月を眺めながら、若かりし時代を思いだし、懐旧の念に耽っているかのようです。
 其角(1661~1707)は、父が江戸に住む医師で本多氏に仕えたとのこと。14、5歳のころに芭蕉に師事し、やがて大名・旗本や紀国屋文左衛門らの豪商と交流をするなどして蕉門の高弟としての位置を占めるようになりました。但し、「師芭蕉の枯淡に倣わず、生来の資質と才気によって作意をこらし(中略)独自の表現をめざした」(※2)と評価される一面をもっています。「いつを昔」というフレーズが気にいったものか、元禄期に『いつを昔』と題する俳諧撰集を編集しています。

五月雨何と茶にくむ淀の人  鞭石

 鞭石(べんせき)(1650~1728)は、其角より生まれが早く、其角よりも長寿の俳諧師でした。京都の人で、八幡の谷不動(神応寺から徒歩5分)に奉納する俳諧集の選者である知石(ちせき)は鞭石の弟子に当たります。
 鞭石の句は、五月雨(さつきあめ)を淀の人が何と茶にくむとは!と驚いたというものです。
 「五月雨(さみだれ)を集めてはやし最上川」と詠んだのは芭蕉です。五月雨(梅雨)が降り続けば最上川は増水し流れも速くなります。芭蕉は、梅雨の長雨で水かさが増し、岸辺いっぱいにどっと流れる最上川の情景を瞬時にとらえました。船上から詠んだ句だとすれば、乗客の緊張感も伝わってくるというものです。一方、長雨が降り注げば川水は濁ります。鞭石の句は、そんな濁り水を茶に汲むとは、淀の人はなんと酔狂なことをするものか、というものです。芭蕉の句と比べて調子ものどかです。f0300125_1430023.jpg
 ここでいう「淀の人」とは淀川べりの人のことではなく、八幡に接した淀の住人という意味です。淀の住人はなぜ酔狂なことをするのでしょうか。淀は八幡と接しています。八幡といえば石清水八幡宮のご当地。石清水がこんこんと湧きでる地なのですから梅雨の時期でも川水は濁らないと洒落ているのです。ちなみに、橋に向かって左岸が淀、右岸が八幡の美豆(みず)です。
 挿画の背景にある淀大橋はどっしりとしたもので、大名行列の場面が描かれているようです。
 淀はかつて木津川・宇治川・桂川の三川合流地点であり、巨椋池(おぐらいけ)の下流とも連なり、淀川の起点でした。中世の頃より軍事的な拠点として、納所(のうそ)の辺りに城がありましたが、秀吉は淀城を茶々の産所にあてるために天正16年(1588)から修築にとりかかります。やがて生まれたのが鶴松。まもなく茶々も鶴松も大坂城に移り淀城は衰退し、文禄3年(1594)伏見城建設が決められ、淀城の機能はすべて伏見城に移されてしまいました。
 徳川の世となった元和9年(1623)、今度は伏見城が廃され、江戸幕府は京都守護のために新淀城再建を決定します。同年閏8月に松平定綱に築城と淀への入封が命じられました。城地は納所から宇治川を隔てた対岸の島に移されます。その松平定綱が寛永10年(1633)に転封となり、永井尚政が入部して、特に城内町の拡大と河川整備が進められます。
 永井尚政の木津川改修で、淀城と城内町は、宇治川と木津川の間の三角州におかれることになり、納所との間の宇治川に淀小橋が架けられ、八幡の美豆村との間の木津川に淀大橋が、全面的な幕府の負担による公儀橋として架けられたのです。淀大橋・小橋の架橋は寛永16年(1639)のこととされます(※3)。
 淀大橋は幅4間2尺(約8m)・長さ137間(約250m)とありますから実に立派なものです。幕末、孝明天皇が石清水八幡宮に参詣するためにこの橋を渡り、鳥羽・伏見の戦いを描いた瓦版には、新政府軍がこの大橋を渡って、八幡方面に逃げようとする旧幕府軍を追撃する場面が描かれています(※4)。
 その淀大橋も明治初年の新政府による木津川の改修によってなくなりました。しかし、京都市に編入されたかつての八幡美豆は京都市伏見区淀美豆町としてその名を残しており、淀大橋のあった辺りは、旧淀川の窪地としてかすかにその面影を残しています。その地に住み、醤油業を営むKさんの菩提寺は八幡市内にあり、八幡との縁は切れていないとのことです(※5)。

※1 『淀川両岸一覧』(個人蔵)、見開2枚の挿画を1枚に合成(次の図も)
※2 『俳文学大辞典』
※3 平凡社『京都市の地名』
※4 八幡の歴史を探究する会発行『歴史たんけん八幡』65頁
※5 会報「八幡の歴史を探る」第53号所収「ひょっこり訪問記」


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by y-rekitan | 2016-05-30 09:00 | Comments(0)
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