◆会報第74号より-02 丹後バスツアー

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《6月例会 歴史探訪バスツアー》
丹後を訪ねて
―2016年6月 丹後歴史資料館~ちりめん街道―

藤田 美代子 (歴史探訪担当幹事)


 前回の長岡京から、もう少し足を延ばそうと今回は丹後を計画しました。山城郷土資料館とは兄弟分にあたる丹後郷土資料館を皮切りに籠(この)神社からちりめん街道へと向かうコースとしました。
 4月15日下見を実施致しました。道路状況は渋滞なく快適であることを確認し、途中休憩をはさみ、各所での説明時間を組み込んで充分夕方には(6時頃)八幡に帰着出来る目処をつけ、バス会社との契約、チラシ作成を行い、募集をはじめました。最終的には38名の参加者となりました。
  6月9日、昨年同様ひかりバス停~中央センターバス停~市役所前~石清水八幡宮一の鳥居前と順次バスに乗車の後、一路丹後郷土資料館に向け出発致しました。途中山間部の緑は非常に美しく、下見通り、味夢の里PAにて途中休憩の後、丹後郷土資料館へと向かいました。到着後はバス内で班分けの通り、二班に分かれ学芸員の案内を受けました。一階は古代から近代に至る迄の発掘品、家系図、北前船、クジラ漁や藤の織物と展示が続きました。藤の織物ですが、 見た目は麻の様で、肌ざわりは麻とは又違います。昔は全国的にあったそうですが、次第にすたれ、丹後では、今この織を保存会の方々が守っておられ、年間を通じての講座に全国から泊まりがけで受講者が集まり、7月末、京都市左京区のギャラリーにて作品展が開かれるそうです。二階では文政一揆を中心に古文書が多く展示されておりました。
  私は雪舟の「天橋立図」をゆっくり見て、詳しいご説明を楽しみにしておりました。f0300125_1613596.jpg以前京都国立博物館にてオリジナルを見ており、迫力ある描き方に圧倒された印象が忘れられません。さすが国宝だと思われました。資料館展示の「天橋立図」はレプリカではありますが、見応えのあるものでした。1500年代の景観が描かれているとのこと。雪舟生没年1420~1506年頃からしますと80才を過ぎた禅僧の描いた水墨画になります。三角形の構図がとられている智恩寺、籠神社、成相寺に朱色が入れられております。何故なのか、謎の1つでもありますが。先日京阪・文化フォーラムで田中宮司のご講演で、「明治の神仏判然令は政府の政策であって日本人の心は決して変わっていない」。「神も仏も」であるとおっしゃっていたのを思い出しました。下見で頂いた冊子の中、山折哲雄さんや鳥尾新さんがおっゃっている様に、この天橋立図には神仏習合が生きづいている様に思えます。
  資料館すぐそばに旧永島家住宅(大庄屋の母屋の移築)があり、こちらも見学しました。農具や調度品が展示されており、実際に手に触れることが出来ました。今回のツアーのチラシ右片隅に印刷しました「しりはり」も玄関頭上に見ることが出来(長男が生まれた家に親戚がお祝いで作って送った飾り物。家の魔除けとして玄関につるしたそうです)、八幡では見られない丹後の風習の一つを感じました。資料館前庭は雪舟の画にも見られます国分寺跡が残っており、国の史跡にもなっております。

  同館を後に籠神社へと向かいました。石造りの鳥居をくぐりますと桃山時代の優品である阿吽1対の石造狛犬(国重文)が参拝者を迎えてくれます。神門をくぐった正面拝殿の奥に鎮座する本殿(府有形)は江戸時代後期の造替で伊勢神宮とほぼ同じ唯一神明造りの様式をとっています。f0300125_16191455.jpg
  参拝が終りますと、皆さん思い思いに、バス内でお配りしたお食事処のマップを参考に昼食を取って頂くことと致しました。ちなみに私は海鮮丼を頂きました。新鮮でおいしかったです。食事を終えバスに戻る迄の間、参加費の少しばかりの残余金をゼロにすべく、飲物にという意見もあったのですが、鯵と小鯛の干物を買い、バス内でお配りし、持ち帰って頂くこととしました。帰られましてから炙って、ほんのお酒のお供にでもと。お味は如何でしたでしょうか?

  午後、時間通り集合頂き、次の目的地ちりめん街道に向け出発致しました。到着しますと午前と同様に二班に分かれ(私は第二班でした)、ガイドさんの案内を受けながら重要伝統的建造物をめぐりました。現在ちりめん街道に並ぶ建物約260棟のうち約120棟が江戸・明治・昭和初期のものだそうです。かって郵便局の使命を担っていた街道筋で最も古い建物の下村家住宅。主屋は文化元年(1804)です。旧伊藤家医院診療所はまわりの和風建築の中にあって洋館が目を引きました。木造2階建て、入母屋造り、桟瓦葺き。玄関まわりのしっくいのレリーフは大変美しいものでした。加悦の左官職人萬吉さんが神戸の洋館建築で修行の後、大正6年施工したと伝えられています。丹後に現存する唯一の明治時代のちりめん工場である西山工場へも行きました。老朽化が進み3棟ありましたが現在は1棟のみの稼働で、私達が説明を受けていました時もガラス戸は閉っていましたが、中から機織りの音が絶え間なく聞こえていました。二班のちりめん街道しめくくりは旧尾藤家住宅です。下見に訪れました時は、座敷に幟が展示されていました。驚きましたことに、図柄が石清水八幡宮御祭神であります神功皇后と応神天皇だったのです。私達幹事は興奮し何とか2ケ月後のツアー時に展示して貰えないか、その場で即依頼致しました。「6月になりますと、しつらいが夏様に変わり、幟もしまい込むのですが、遠くから来ていただけるので、当日のみ準備しておきます」との返事でした。
 今回のツアーで訪れますと、お約束通り玄関を入ると座敷に展示していて下さいました。f0300125_16253250.jpgご無理をお願いしましたのに非常に嬉しく思いました。南の八幡と北の丹後の距離感が一瞬にして圧縮された感じがした瞬間でした。町中をバスが走っている時も「男山」という地名があり不思議な気がしましたが、皆さんお気づきになられましたでしょうか? 尾藤家の歴史は、入館時の資料や展示パネルにより、1521年~1546年まで第12代将軍足利義晴の花押のある書状が伝わっていることから中世は武士であったようです。慶長7年(1602)、検地帳にも善右衛門として7丁余りの田畑と家臣の屋敷が記録されており、中世は武士であったことが裏付されているとのことです。17世紀末から18世紀初めにかけ大庄屋善右衛門として加悦の寺社に燈篭や鳥居などを盛んに寄進し、庄蔵家が確立するのは18世紀後半で、その後代々庄蔵を名乗る様になります。7代庄蔵さんは酒造業のかたわら大庄屋として文化3年(1804年)、伊能忠敬にも面会、その頃の庄蔵家は520坪の屋敷を構え、70石を超える石高を上げるまでに成長、9代庄蔵さんは天保11年(1840)8代から家督を相続後、岩滝村の廻船問屋山形屋佐喜蔵方で、およそ10年に及ぶ奉公で商いを学んだ後、安政3年1856)頃加悦に戻り生糸ちりめん商として再出発します。生糸ちりめん業の傍ら北国と大阪を結ぶ北前船「蓬莱丸」を所有し廻船業をも営みます。文久3年(1863)、現在の旧尾藤家住宅の建築に着手し、2年後に建物が完成します。建物全体の配置は中庭を囲んで周囲に座敷や蔵を配置する現在も見られるものです。10代庄蔵さんは縁戚の下村五郎助家(9代の妻ふさの親族)より迎えられ、明治19年加悦で生糸ちりめん問屋を開始しその後、京都市と山田村(現野田川町)に支店を構えます。京都に支店を構えたことは庄蔵自身が常に京都の文化に触れる機会となり、今日10代庄蔵の手によるものとして母屋と奥座敷には明治期の画家達による襖絵群が展開しています。家業にかける情熱と文人画にみられる数寄屋趣味は共に11代に受け継がれます。又丹後で最初の銀行となる柏原銀行加悦支店を開店し、後に丹後銀行の創設に奔走し頭取をも務めます。11代庄蔵さんは生糸ちりめん問屋「合名会社尾藤商店」を設立し、同店経営は順調に推移せるも大正9年の第一次世界大戦後の不況で多大の損害を被り、同11年尾藤商店の経営を親族の下村商店に譲渡し、江戸時代から続いた生糸ちりめん業から撤退します。昭和3年加悦町長に就任、前年の丹後大震災で町の甚大な被害を受けた為、町役場庁舎の建設、加悦駅前道路、府道網野福知山線の新設など復興事業に着手、大きな手腕を発揮し加悦鉄道(株)社長に就任しています。町長に就任した昭和3年、念願の洋館が建てられます。文久3年(1863)の着工以来、昭和初期の洋館や米蔵等々の完成まで、約70年間にわたった旧尾藤家住宅の建築工事は完了し、今日の姿になっております。現在の尾藤家は加悦を離れ、宮津で袋屋醤油店を営んでいるそうです。
  f0300125_16385992.jpg旧尾藤家住宅は近畿北部の大型農家を基本とし、それに丹後の生糸ちりめん商家の要素が加わり、さらに昭和初期の洋風住宅建築が付加され、和と洋の世界が融合した建築と評価され、平成14年3月26日京都府有形文化財に指定。同年11月に尾藤家から与謝野町(旧加悦町)へ建物が寄付され、与謝野町が平成15年9月から翌年9月まで保存修理工事を行い、10月24日から一般公開されています。延床面積924.15㎡。内部を見学しますと欄間や書院窓や床の間など和の美しさがあらゆるところに感じられ、下見時、夏のしつらいになりますとおっしゃっていましたが、各部屋に涼やかさが感じられ、日本家屋の素晴らしさを見る思いが致しました。5月美山かやぶき屋根の放水を見ましたが、始まる少し前、かやぶき屋根の資料館内部でお茶を飲んでいました時、何とも言えない涼しい風が頬及び家の中を通ってゆき、その涼やかさに驚きました。旧尾藤家も美山のかやぶき屋根も、本来日本人は自然の中にあって、自然と共に、涼しさを味わっていた様な気がします。暑ければ冷房、寒ければ暖房と便利な生活に現代の私達は慣れ切ってしまっており、元来の日本人は住まいの中にも、しっかり季節感を取り入れ、それを今よりずっーと楽しんでいたのではないだろうかなどと思いました。尾藤家歴代の歴史の流れと共に、商家としての建築を見ながら、且つ和風建築の素晴らしさを味わった(再認識した)様な気がしました。
  ちりめん街道を後に帰路につきます。皆様のご協力のもと、10分程度の遅れはありましたものの、予定通り無事、八幡に戻りました。

 後日、ご参加の方々から、「とても良かった。次回も参加したいので、是非連絡して欲しい」などのご感想お聞きし、歴史から学ぶ実りあるツアーを今後も企画してゆければなどと思いながら、報告を終えさせていただきます。

参加者の感想記
 
八幡に伝建地区を

 今回のツア-に参加させて頂き、お蔭さまで一日を楽しく過ごさせていただきました。
 丹後は、古代に大陸からの窓口であったことから多くの古い歴史遺産を残していることが印象的でしたが、今回、最も興味のあったのは与謝野町の「ちりめん街道」です。その理由は、ちりめん街道が国の指定する「重要伝統的建造物群保存地区(以下、伝建地区と記載する)」であるからで、八幡市の高野街道も伝建地区に相応しいのではないかと以前から考えているからです。伝建地区は、昭和50年に文化財保護法が改正され、伝建地区の制度が発足し、昨年夏までに43道府県90市町村で110地区が指定されています。3項目の選定基準があって、高野街道を想定した場合、「全体として意匠的に優秀なもの」と言う項目に不具合があるかもしれませんが、他の伝建地区と比較して、現状ならば選定されるように思っています。八幡市が観光を重視するならば必須と思います。問題は、地区住民と市役所の賛同を得ることです。
 八幡に伝建地区を導入するもう一つの理由は、世界遺産の指定です。国宝石清水八幡宮、三川合流、高野街道、橋本地区などを併せれば可能性があると秘かに信じています。
 種々ご意見はあることと思いますが、皆様方の賛同が得られることを願っています。
(伊佐 錠治) 空白
            
文政一揆の百姓たちのエネルギーに感動

 薄曇りの空模様の中、古い街並み歩きの大好きな私は期待感と少しの緊張でバスに乗り込みました。
 今まであまり馴染みのなかった丹後への訪問でしたが、丹後郷土資料館では中国大陸との交流の遺物や、文政一揆の百姓たちのやむにやまれぬ怒りのこもった連判状等を目にして、確かにそこに住んだ先人達の生きるエネルギーに感動しました。
 午後はちりめん街道をガイドさんの流暢な案内で、当時の繁栄に想いをはせながらの楽しい散策でした。
 歴史の教科書で習ったくらいの知識しかありませんが、庶民の暮らしも確かにそこにあったと思うと、歴史は奥深く、ますます興味が涌いてきます。
 役員さんの方々の綿密な下見やご計画のおかげで、私たちは一日楽しく歴史に浸ることが出来ました、ありがとうございました。   
(秋山 幸子) 空白

古民家の街並み保存に思いをいたす

 八幡歴探主催のバスツアーに初めて参加した。
 久し振りに夫婦で早起きし、集合場所へいく。あいにくの雨模様であったが、バスに乗ると参加者の賑やかな声、心は晴天気分となる。
 それまでは、単発的に講演会には参加していたが、バスツアーでの遠出は、初めてのことと聞いた。
 丹後の天の橋立は、中学生時代に臨海学習で、大学生時代も海水浴に出掛け、成人してからも、松本清張の執筆部屋がある木津温泉に泊ったり等と、思い出深い地でもある。
そして、初めて寄る「ちりめん街道」与謝の町は古民家の町並保存が行き届いて美しかった。八幡の町並みもこの様に保存出来ていたらと思うのは私だけだろうか?
 次回のバスツアーも期待しています。ありがとうございました。
(真下 慶子) 空白

籠神社と伊勢神宮

 本年6月9日、バスツアー(丹後を訪ねて)が開催されました。その中で私が注目したのが、籠神社で昼食時の自由時間での参拝でした。石清水八幡宮は「第二の宗廟」と言われております。「第一の宗廟」は、伊勢神宮です。籠神社は「丹後一宮・元伊勢」の表示があります。三重県出身の私には大いに関心があります。
 籠神社御由緒には「昔から奥宮・真名井原に豊受大神をお祭りしていた。第10代崇神天皇の時代に天照大神が大和笠縫邑からお遷りになり、吉(よ)佐宮(よさのみや)で一緒に4年間お祀りした。その後天照大神は第11代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は第21代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお遷りになった。それで当社は伊勢神宮の内宮・外宮の元宮の意味で「元伊勢」と呼ばれている。後、奥宮真名井神社から現在地へお遷して、社名を籠宮(このみや)と改め、養老3年に、天孫彦火見命を主祭神としてお祭りした」とあります。
 関連して、坂本政道氏著「伊勢神宮に秘められた謎 ベールを脱いだ日本古代史Ⅱ」に面白い事が書かれており紹介します。
内宮外宮の正式名称は、「皇大神宮(内宮・祭神天照大神)」「豊受大神宮(外宮・祭神豊受大神(天照大神の御饌都神)」。「内宮」は元々宮中で祀っていたが、第10代崇神天皇6年、命で大和笠縫邑に遷、皇女豊鋤入姫命が祀る。第11代垂仁天皇25年皇女倭姫が跡を継ぎ、御杖代として伊賀・近江・美濃・尾張諸国を経て伊勢で神託、五十鈴川上流に祠(磯宮)を建てたのが始まり(垂仁26年9月)。崇神天皇は3世紀後半から4世紀初めの人。伊勢遷座は4世紀中頃。外宮は第21代雄略天皇22年(478)、夢に天照大神が現れ「食事が安らかでない。丹波国の比沼真奈井の御饌都神。豊受大神を近くに呼び寄せよ」。同年7月7日度会の山田の地に迎えた。これで内宮外宮が揃う。
 2世紀後半、倭国は乱れ、邪馬台国連合を形成、トップに海部氏の一族卑弥呼が女王になる。海部氏は太陽信仰・男神の天火明命(本来の天照大神)を祀る。卑弥呼は巫女で三輪山で天照を祀る。死後国内大混乱。その隙に天照一族(後のヤマト王権を建てる部族・天皇家)が北部九州に勢力を広げる。卑弥呼の宗女トヨが跡を継ぎ乱が収まる。トヨは天照をそのまま祀る、が次第に分裂する。トヨ晩年(3世紀末)連合弱体化で、天照族の神武(崇神)が北部九州から大和に乗り込み、王権簒奪(神武東征)。天照をそのまま祀る。が、疫病・飢餓で神託により三輪山の大物主をトヨの子孫大田田根子に祀らせ平穏になった。崇神はトヨ・巫女を殺す(箸墓古墳)。天照の祟を恐れトヨ親族女子1人(豊鍬入姫)に天照の祀りを許す(宮中でなく倭国笠縫邑)。跡を継いだ倭姫が伊勢に落ち着く(古くから海の民・度会氏が太陽神を祀っていたから)。
 7世紀後半672年の壬申の乱で、大海人皇子(天武天皇)が尾張氏(海部氏と同族海の民。天照信奉)の支援を受けた。即位後祟神の復活、卑弥呼自身を祀る対象とし太陽の女神とした。天照を天皇家の祖先とし、各地の神と天照の関係を体系化した。
 天照大神は倭国・木乃国・吉備国・大和国・伊賀国・淡海国・美濃国・伊勢国と24の地・宮を巡行しているが、これは稲作を伝授広げる為との意見もあります(井沢元彦氏)。蛇足となりますが、ご本殿神明造りの高欄上に五色(青・黄・赤・白・黒)の座玉(すえたま)がありますが、これは伊勢神宮御正殿と籠神社以外には拝せられないもので、古来のご神徳・御社格を象徴するものだそうです。
(村山 勉) 空白


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by y-rekitan | 2016-07-28 11:00 | Comments(0)
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