◆会報第76号より-02 八幡の古道

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《講 演 会》
八幡の古代遺跡と道
-古山陽道と古山陰道-
2016年10月 八幡市文化センターにて
 引原 茂治
(公益財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター調査課)


 10月16日(日)午後l時半より、八幡市文化センター第3会議室にて表題の講演が行われました。概要を報告します。
 なお今回の概要は、講演会で配付された講演資料を編集担当が画像の挿入やルビをれ、講師の引原茂治氏の同意のもとに掲載するものです。参加者33名。

1、はじめに

 道の整備は、いつの時代にも必要な事業でした。その道によって、人や物、情報が行き交いました。日本では、7世紀中頃から8世紀にかけて、中国の政治体制である律令制を取り入れ、中央集権的な国家となりました。戸籍を作って国民個人を掌握し、税を徴収するなどの業務を円滑に行うため、地方行政機関を整備するとともに、それらをむすぶ官道の整備が必要になりました。f0300125_20272213.jpg 国内は、都が所在する畿内を中心に東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の七道に区分され、都と地方を結ぶ官道が敷設されました。官道は、物資や情報・命令ができるだけ早く伝わるよう、最短距離になるように敷設されました。距離を縮める工夫として、できる限り直線的に計画されました。
 南山城地域には、古代の官道跡と考えられる道路遺構が確認されている遺跡があります。城陽市の芝山遺跡と八幡市の内里八丁遺跡です。
 芝山遺跡は、木津川によって形成された河岸段丘上に、内里八丁遺跡は木津川の沖積平地に位置しています。なお、官道は、起点が都であるため、都が移れば、官道でなくなることもあります。南山城に推定されている官道も、都が平城京から長岡京・平安京へと移転するにつれて官道ではなくなったと考えられますが、それでも主要な道路として機能していたものとみられます。また、官道以外にも、古代の道路遺構とみられるものが確認された遺跡がありますので、それも併せて紹介したいとおもいます。

2、古代道路が見つかった遺跡

(1)芝山遺跡
 城陽市寺田から富野にかけて広がる遺跡です。古墳時代から奈良時代にわたる複合遺跡です。この遺跡では、南東から北西に並行して延びる奈良時代の溝が3条見つかっており、官道の北陸・東山道の側溝と考えられています。溝と溝の間は12mと9.7mで、他地域で確認されている初期と改修時の東山道の道幅と一致するようです。
 この推定北陸・東山道の西側に隣接して、奈良時代前半頃の掘立柱建物群が見つかっています。東西棟の3間×7間の建物が中心建物とみられ、その周囲に大型の掘立柱建物が正方位に沿って整然と配されています。その中には、倉とみられる総柱建物もあります。このような建物群は、一般集落のものとは考えられず、官衙(かんが)的な性格を持つものと考えられます。出土遺物も、瓦や磚(せん)・土馬(どば)・斎串((いぐし)など、一般集落とは様相のちがう遺物が出土しています。
 この建物群の性格については、久世郡衙や駅屋など、様々に考えられています。道路遺構に近接しており、官道と係わりの深い官衙遺跡とみられます。これまでの調査範囲は、遺跡全体からみれば部分的であり、今後の調査で、その性格を物語る資料が見つかる可能性が考えられます。

(2)上狛北遺跡
 木津川市山城町に位置します。この遺跡では、正方位に沿って南北に延びる溝が約100mにわたって見つかっています。調査地の制約上、対となる溝が見つかっていないので、道路遺構と断定はできませんが、北側の里道の延長部分にあたるので、道路遺構の可能性が考えられます。この遺跡では、墨書土器や木簡などが出土しており、官衙的な施設があったと考えられます。

(3)森垣内遺跡
 相楽郡精華町に位置します。ほぼ南北方向に延びる側溝と考えられる溝が2条見つかっています。2条の溝の間隔は4.8mであり、官道ではないものとみられます。

(4)三山木遺跡
 京田辺市三山木に位置します。ややハの字状ではありますが、北西から南東方向に延びる2条の溝が見つかりました。奈良時代の溝と考えられます。間隔は6~8mです。官道の山陰・山陽道を踏襲すると言われる府道八幡木津線の方向に近く、官道の方向に沿った地割の溝の可能性もあります。

3、内里八丁遺跡

 八幡市内里にあります。弥生時代から中世にかけての複合遺跡です。弥生時代の水田跡が見つかったり、古墳時代の竪穴建物や古代の掘立柱建物跡や井戸などが見つかったりして、注目されている遺跡です。
 奈良時代の遺構として注目されるのは、道路側溝と考えられる溝です。奈良時代末頃に設けられた溝で、2条の溝が北西から南東方向に延びています。2条の溝の間隔は12mで、芝山遺跡で見つかった北陸・東山道の側溝と考えられる溝と、ほぼ同様です。9世紀中頃には幅員が5~6mに縮小され、10世紀頃まで存続していたようです。歴史地理学者の足利健亮氏が復元された山陰・山陽道の推定路線付近に位置することも重要な点です。
 平成15年度に行った第20次調査では、奈良時代から平安時代初期の、倉と考えられる掘立柱建物や井籠組の井戸が見つかっています。f0300125_20442568.jpg掘立柱建物は3間×3間の総柱建物で、柱穴は方形で、一辺0.6~1mと大きく、柱は直径0.4m前後とみられます。しっかりした建物と考えられます。井戸は角材に近い板材を井桁状に組み上げたもので、その内部に細い板材をホゾで桶状に組んだ内枠を設けています。宮殿や上級の役所などに設けられる例が多い井戸です。一般集落では設けられることは無いようです。この井戸からは、銅製黒漆塗の帯金具や「水」と書かれた墨書土器、皇朝銭の「承和昌寳(じょうわしょうほう)」(835年初鋳)などが出土しました。
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井戸枠材には、その位置と組み立て順を墨書したものがあります。また、付近の調査地では瓦も出土しています。このような状況から、奈良時代から平安時代初期頃の内里八丁遺跡は、一般集落とは様子が異なることがうかがえます。この遺跡の性格を考える資料となるのが、絞胎陶枕(こうたいとうちん)です。

4、内里八丁遺跡出土の絞胎陶枕

 絞胎は、唐三彩(とうさんさい)と同じく、中国唐時代につくられた焼物で、鉛釉を施した軟質陶器です。白色土と赤褐色土を練り合わせて縞状の模様を表しています。出土した絞胎陶枕は、練り合わせた陶土の塊を板状に切ったものを貼り合わせて箱状に成形しています。外面には黄色味を帯びた透明釉を施しています。内面は無釉です。器壁の厚さは4~5㎜です。小片ですが貼り合わせの痕跡が見られ、その状況から陶枕の側板及び天板の一部とみられます。f0300125_2059990.jpg 出土した遺構は、土師器(はじき)や須恵器((すえき)が多数出土しましたが、破損品が多く、一種の廃棄土坑、いわゆるゴミ捨て穴と考えられます。これらの土器は、古いものでは7世紀頃のものも含みますが、多いのは、8世紀中期頃のものです。この土坑から出土した土器は、その頃に捨てられたものとみられます。
 絞胎陶や唐三彩などの中国唐代に生産された鉛釉(なまりゆう)軟質陶器は、日本の各地から出土していますが、量的にはあまり多くありません。そのような中で、奈良市の史跡大安寺跡からは、三彩や絞胎の陶枕片が多数出土しており、量的には群を抜きます。日本で唐三彩や絞胎陶が出土する遺跡は、古墳、都城跡、寺院跡および宗教関連遺跡、官衙および官衙関連の集落跡などです。一般的な集落跡などからの出土例はほとんどありません。全国的にみて、都城跡や官衙および官衙関連の遺跡から出土する傾向がみられます。

5、奈良時代から平安時代初期の内里八丁遺跡の性格

 内里八丁遺跡の付近に式内社の「奈良御園神社」があります。その周辺に広がる上奈良遺跡は、「延喜式」巻三十九内膳司の条に記載されている「奈良園」の候補地とみられており、則天文字が書かれた墨書土器などが出土しています。園は、天皇家の食材などを生産する国営農場です。内里八丁遺跡の総柱の掘立柱建物や井籠組井戸などは、かなり上級の官衙に伴う可能性が考えられます。園には、それを管理する役所が設けられていたと考えられます。上記の遺構は、まさに宮廷に直結する上級官衙にふさわしいものと言えましょう。具体的に、奈良園に関連する遺物は出土していないので、断定はできませんが、可能性としては充分考えられます。また、この遺跡が、官道の山陰・山陽道と推定される遺構の付近に位置することも重要です。この道は、天皇家の食材をも運ぶ道であったとも考えられます。
6、まとめ

 南山城地域は、南から北に向かって流れる木津川を挟んで東西に分かれています。f0300125_2184174.jpg東側には、平城京から芝山遺跡・久世郡衙と推定される正道遺跡・宇治橋・山科へ至る北陸・東山道が想定されています。西側にはおなじく平城京を起点として山本駅推定地の二股・三山木遺跡・内里八丁遺跡・山崎橋に至る山陰・山陽道が想定されています。
 これらの道路推定地に沿って、今回紹介した遺跡が点在しています。それぞれ、官衙的な遺構・遺物が確認されています。木津川の水運とともに、官道や官衙が円滑な物流に利用され、古代国家の運営に大きく貢献していたものと考えられます。

『一口感想』より
 巾6m以上もの直線道路を整備し、さらに道路を横断する埋没管を施設するなど当時の大胆な計画と土木技術には改めて感心させられました。古代ローマのアッピア街道のように、物流だけでなく軍事行動を迅速に展開できるようにするために建設されたのだと思う。 (中井智久)
 一般の遺跡とは違って埋蔵物が少ない古道は発掘例が少ないと聞いていましたが、芝山遺跡や内里八丁遺跡等の平城京からの官道発掘成果は注目すべきと思います。
 講演では内里八丁遺跡の道路遺構は、古山陰・山陽道と説明されましたが、現在活動中の「八幡の歴史を探究する会」の専門部会『八幡の道探究部会』では、文献や地域研究家に聞き込み調査及び現地確認等により京田辺市大住三野の関屋橋付近で平城京からの古山陰・山陽併用道が分岐し、内里八丁遺跡は古山陰道と推定しています。これからも八幡地域の古道について調査探究を継続する予定ですので、引き続き宜しくお願い致します。 (高田昌史)


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by y-rekitan | 2016-11-20 11:00 | Comments(0)
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