―展示会場:八幡市文化センター3階ロビー― 八幡の歴史を探究する会 「八幡の道探究部会」 2016年10月29日、30日の二日間、八幡市の文化センターにて例年通り市民文化祭の展示発表がありました。各市民サークルの力作が展示発表される中「八幡の歴史を探究する会」からは昨年発足した専門部会の「八幡の道探究部会」が中心となり『八幡の古道』を展示タイトルとして発表しました。 展示内容は 1.古地図5枚、 2.古道地図2枚(写真6点)、3.江戸時代の道標地図2枚 (写真27点)で、当日は道部会の担当者や歴探の幹事が中心となって説明にあたりました。
(以下の地図はいずれもクリックで二段階に拡大表示されます) 一方、関屋橋で分岐した古山陽道は美濃山廃寺、志水廃寺、西山廃寺をかすめて楠葉に到り、橋本の山崎橋までのルートを図示しました。 今回、道部会の全員で京田辺市大住の現地聞き取り調査を行った結果、古山陰道、古山陽道の分岐点が手原川の関屋橋であるという有力な情報を現地の郷土史家から得ることができました。 (2)中世から近世の 男山周辺の道 江戸時代の道標27カ所の写真とその位置を示す地図を2枚展示しました。 八幡の道標調査の過程で大阪府下の高野道の道標調査を行ったときは、やはり地蔵像や観音像等素晴らしい個性的な道標の数々を目にしていました。 八幡には昭和初期に建てられた三宅安兵衛碑が89基確認されていますが、その殆んどが角柱仕様です。八幡及び周辺の江戸期の道標には大阪府下の道標と同じく地蔵像や役行者像が肉彫りされたもの、舟形光背を持つ地蔵道標、墓石に道案内を彫った墓石道標などが多く確認され、道標からも八幡の歴史の奥深さを感じずにはいられません。 特筆すべきは下奈良井関墓地入口の「往生礼讃道標」で、善導大師の「往生礼讃」の一節が刻まれ、正面には「阿弥陀三尊と僧形4体」が肉彫され、その内、僧形2体は善導大師と法然上人です。 次に美濃山の「指さし地蔵道標」です。普通、錫杖を持つ右の手が「八はたへこれから」の文字を指さしていました。この様な地蔵道標は初めてです。 三つめが『石清水八幡宮鳥居通御幸道』の「正徳3年道標」です。平成21年(2009)末頃迄御幸橋南詰にありましたが、「御幸橋」付け替え工事に伴い撤去され、保管先が分らなくなりました。色々捜しましたが結局、八幡宮に保管されてあることが遂に分かりました。早速、西禰宜さん立会いの下、頓宮内裏庭に入り、道標の覆いを取ると、そこには文字の最後に「御幸道(みゆきみち)」の文字が彫られてありました。『男山考古録』に「正徳3年(1713)、石清水八幡宮鳥居通御幸道という標碑を建てられたるは、検校新善法寺行清法印也」とあり、山上山下惣絵図や石清水八幡宮境内全図(重文)に「御幸道」と共に「正徳3年道標」の位置も記載されています。折損の為、御幸道の部分がコンクリートによって塗り固められていた為、御幸道の文字が隠れていましたが、紛れもなく「正徳3年道標」であることが確認されました。 文化祭の2日間は沢山の人々に「八幡の古道」に関心を持っていただきました。 中には早速、現場へ道標確認に行かれた方が何人か居られました。展示の道標の位置を表した地図を欲しいと言われる人が数十人もおられ、関心の高さに驚いた次第です。 今回展示した地図に入りきらない「八幡宮」への道標が数基ありますが改めて別の機会に紹介したいと思います。 なお、「八幡の道探究部会」は、今回1年間の活動成果の古代~江戸時代までを展示発表しましたが、引き続き毎月部会を開催し活動は継続する予定です。
by y-rekitan
| 2016-11-20 06:00
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