◆会報第78号より-02 謡曲

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《会員研究発表》
謡曲から見た八幡

2017年2月  松花堂美術館講習室にて
猪飼 康夫 (会員)


 2月15日(水)、午後1時30分より、松花堂美術館にて表題の会員研究発表がありました。能や謡曲のあらましにはじまり、八幡を舞台にした謡曲の数々、能や謡曲の文化を次の世代に残す取り組みなどが実演を交えて発表されました。 以下に概要を報告します。参加者40名。

1、謡曲とは何か

 謡曲(ようきょく)とは、能楽の脚本のことです。シテ方などが身に着ける装束、能面の種類などが紹介され、登場人物や地謡の台詞、物語などが綴られています。
 続いて、能舞台の様子が語られ、猪飼氏自身が能装束や能面を付ける場面が紹介されました。f0300125_20544728.jpg 能面は通常シテ方が付けますが、面(おもて)をつけない場合もあります。それを直面(ひためん)といいます。直面で台詞を言う場合、面を付けた時と同様に口をパクパク開けないようにすることが求められます。まるで腹話術をするようです。舞台の後ろの演奏者を囃子方(はやしかた)といいます。向かって右から笛、小鼓、大鼓、ばちを持った太鼓と並びますが、この並び方は雛祭りの五人囃子と同じです。
 続いて、謡曲の種類として素謡(すうたい)、連吟(れんぎん)、独吟(どくぎん)の種類があること、謡(うたい)と唄や歌との違いが説明されました。謡は正座して朗詠するものですが、舞は手足を動かしてしぐさや感情を表現するものです。仕舞といいます。舞と踊りは異なります。大きな違いは、舞はほとんど中腰で、腰の位置がいつも一定ですが、踊りは腰の位置が上下します。 
         
2、謡曲のふるさと八幡 

  八幡は謡曲のふるさとと言われるくらい数々の作品があります。「弓八幡」「放生川」「女郎花」がそうです。

弓八幡(ゆみやわた)

 謡曲「弓八幡」の物語は、後宇多天皇から参詣の命を受けた臣下が、石清水八幡宮へやって来ることから始まります。f0300125_21163261.jpg臣下は、多くの参詣者の中に、袋に納めた弓を携えた老人を見つけ、尋ねますと「私は長年この八幡宮に仕えている者ですが、後宇多天皇に弓を捧げようと、貴方が来るのを待っていました」と述べ、さらに「弓は袋に納めて、戦わずして天下を治めるように、これが神の思し召しです。自らは高良の神です」と言って消え失せるのです。その後、どこからともなく音楽が聞こえ、芳香が漂い、高良の神が姿を現し、高良の神は、この世の繁栄を祝い、八幡宮の神徳を讃え、舞を舞うのです。「弓八幡」は、戦わずして世を治めることを説いています。

放生川(ほうじょうがわ)

 謡曲「放生川」は、平安時代から続く石清水八幡宮の行事 放生会(ほうじょうえ)をもとに作られています。
 男山八幡宮の祭りの日に鹿島の神主が参詣すると、魚を桶に入れた老人と出あいます。「神事の日になぜ殺生するのですか」と尋ねると、老人は「今日は生き物を放つ放生会です」と答えます。そして、魚を放生川に放し神事のいわれを語り「私は、石清水八幡宮に仕える武内の神です」と名乗り、山頂に立ち去ります。やがて月が上り、神楽の音と共に武内の神が現れ、平和の御代を讃える舞を舞います。

女郎花(おみなめし)

 謡曲では「女郎花」を「おみなめし」と読ませています。大変人気のある曲で、よく演じられています。肥後の国の僧が都へ上る途中、石清水八幡宮に参詣しようと男山に立ち寄りますと、山麓には女郎花が美しく咲き乱れています。旅僧が土産に一本手折ろうとすると、一人の老人が現れてそれを止めます。二人は古歌を並べ合って問答しますが、旅僧が古歌に詳しく、感心した老人は花を折ることを許します。老人は、八幡宮の社前に案内し、更に男塚・女塚を見せ、これは小野頼風夫婦の墓で、自分が小野頼風であることをほのめかし、消え失せます。旅僧が、土地の人から詳しく頼風夫婦の話を聞き、夜もすがら菩提を弔っていると、頼風夫婦の霊が現れます。頼風の霊は、夫の足が遠のいたことを恨み女が放生川に身を投げたこと、女塚から生えだした女郎花がまるで頼風を避けるように靡きしりぞいたこと、自分もまた身を投げたことを語ります。そして、今はともに地獄に落ち、邪淫の悪鬼に責められ苦しんでいるので、どうか助けてほしいと僧に救いを求めます。女塚は女郎花塚といって、松花堂庭園に立派に保存されていますが、男塚(頼風塚)は、八幡今田の民家に囲まれた狭い空地にひっそりと残されています。生い茂る芦が女塚の方向をむいているので、“片葉のよし”ともいわれ、哀れを誘っています。
 
3、能の生い立ち

 室町時代、足利義満と観阿弥・世阿弥の親子が今熊野神社で出会ったことから、能の演者が時の権力者に寵愛されるようになります。以後、能が大いに発展するのです。それは戦国時代にも引き継がれ、信長、秀吉、家康ら天下人によって能は大いに保護されます。
f0300125_22122720.jpg 一般に武家は公家とことなり文化的アイデンティティを持っておらず、そのことにコンプレックスを持っていたと言われます。能はそのような武家の劣等意識を補ってくれたのです。江戸時代には幕府からの庇護のもと、能楽者は扶持され経済的に自立できました。ところが、明治時代となり、能楽者は独自の運営を余儀なくされ、観世など流派ごとに経営を維持するよう努力するのです。
 そして現代、古典文化財として、ユネスコ世界遺産に登録されるようになりました。
 
4、次世代にむけて

 猪飼さんは、能の文化を次世代につなげるために様々な取り組みを行ってきました。小学校での授業もその一つで、かつて八幡東小学校や東大阪市の子どもたちに能についてじかに指導されてきました。f0300125_21353731.jpg また、企業研修会に呼ばれたり、八幡地域では「謡曲と朗読」と称して夫婦で実演し、謡曲同好会を立ち上げ、毎年発表会を持ったりしています。
 なお、平成5年8月9日に、石清水八幡宮の頓宮にて薪能が催され、かがり火のもと「弓八幡」などが観世流の片山九郎右衛門さん一行によって熱演され、市内外から集まった2000人の観客を魅了したとのことです。
<文責 土井三郎>--

『一口感想』より

八幡の地に因んだお能、謡についての猪飼先生のご講演を拝聴して、八幡が文化的に大切な地と認識しました。古典芸術を次世代に継ぐための猪飼先生のご尽力、ご活躍に感動しました。仕舞の実演、お能のビデオもありがとうございました。(M)
能の歴史や概要を教えていただき、大変参考になりました。機会がありましたら能舞台を鑑賞したく思いました。(A)
能の解説は理解できた。しかし、本題の「謡曲から見た八幡」の説明は物足りなさを感じた。例えば、「放生川」などが生まれた背景、八幡がなぜ「謡曲のふるさと」と呼ばれるのか。その理由が知りたかった。(B)
Bさんの疑問に答えられるかどうかわかりませんが、八幡がなぜ「謡曲のふるさと」になるのか、その理由を考えてみました。一つには、石清水八幡宮の存在があります。謡曲が生まれ、さかんに演じられた中世、人々は現代人以上に信仰心が篤く、石清水八幡宮を崇敬したのでした。そんなことから八幡神の神徳を称える謡曲が生まれたのです。もちろん、八幡宮と朝廷との深い関係が背景にあります。もう一つの理由として、和歌の力が大きかったと思います。鎌倉時代に、「古今和歌集」の序文の解釈本が生まれ、その中から「高砂」や「松虫」などの謡曲が誕生するのです。八幡を舞台にした「女郎花」もその一つです。(土井三郎)

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by y-rekitan | 2017-03-22 11:00 | Comments(0)
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