◆会報第78号より-03 古墳と鏡②

シリーズ「八幡の古墳と鏡」・・・②
八幡の古墳と鏡(2) 
-八幡出土の三角縁神獣鏡(1) 内里古墳-

濵田 博道 (会員) 


1.三角縁神獣鏡の副葬状態とその意味

三角縁神獣鏡の副葬状態

 1953年、京都府木津川市・椿井大塚山古墳(つばいおおつかやまこふん:国史跡)で三角縁神獣鏡が大量に発見されました。しかし府から依頼を受けた京都大学の研究者たちがかけつけた時、半壊の石室にはわずかに2枚の鏡しか残っていませんでした。鏡は鏡面を石室の側壁に向けて木棺のまわりに立てかけてあったそうです。他の三角縁神獣鏡はバケツ3杯に入れられた状態で、副葬状況はわからなくなっていました。(注1)
 しかし1997年に発掘された天理市・黒塚古墳(国史跡)は未盗掘だったため、副葬の詳しい状況が明らかになりました。発見された33枚の三角縁神獣鏡は棺(ひつぎ)の外に被葬者の頭を取り囲むように立てかけられ、原則として鏡面を木棺側に向けて被葬者を守るため、逆によみがえるのを防ぐために鏡の力が使われたかのように副葬されていたとのことです。棺内の頭の傍には画文帯神獣鏡が1枚立てかけられていました。(注2)このような副葬状態から、次のような疑問が持ち上がりました。“三角縁神獣鏡が魏の皇帝から貰った大切な鏡だとすれば、棺の外に置かれているというのは変ではないか。また、卑弥呼の百枚の鏡は公の鏡で、『魏志』倭人伝には魏の皇帝は銅鏡を「ことごとく以て汝の国中の人に示・・・」と書いてあるが、その約3分の2を椿井大塚山と黒塚・2つの古墳の被葬者が持っている、そういう鏡を個人の古墳に副葬しているというのはどういうことだろうか”など。(注3)そうした中、他の未盗掘古墳の発掘からも三角縁神獣鏡の副葬状態がわかってきました。例えば、滋賀県東近江市・雪野山古墳(前方後円墳、古墳時代前期前半、国史跡)の発掘で、被葬者が葬られた仕切り板の外側と足元に計3枚の三角縁神獣鏡が副葬されていました。被葬者の頭付近に立てかけられていたのは別の鏡《仿製内行花文鏡(ぼうせいないこうかもんきょう)》でした。
副葬状態の意味するもの

 こうしたことから、“三角縁神獣鏡はあまり貴重な鏡ではなかったのではないか”、“葬具としての意味をもっていたのではないか”、“ヤマト王権が葬具用に配布した鏡ではないか”、という見解も出されました。
 しかし、すべての三角縁神獣鏡が最も大事なものとして扱われなかったかというとそうではありません。例えば島根県神原神社古墳(かんばらじんじゃこふん)(古墳時代前期)では、被葬者の頭の横に三角縁神獣鏡が置いてありました。この鏡は魏の年号、「景初三年」(239年)銘の鏡でした。また、高槻市安満宮山古墳(あまみややまこふん)(3世紀後半)から5枚の鏡が出土していますが、2グループに分けて魏の年号・青龍三年(235年)銘をもつ鏡や三角縁神獣鏡が2枚副葬されていました。1号鏡である三角縁神獣鏡は布でくるまれていました。
 これらのことから560枚近くの三角縁神獣鏡の中で、卑弥呼が貰った鏡があるとしてもそれはその中の一部、紀年鏡(中国・魏の年号などが入った鏡)などが候補ではないかという説が出されるようになりました。

2、内里古墳出土の三角縁神獣鏡

 八幡から出土した3枚(内里古墳・西車塚古墳・東車塚古墳から各1枚)の三角縁神獣鏡はどうなのでしょうか。内里古墳出土の鏡からみていきます。

内里古墳の謎

 内里古墳については、出土した「三角縁神獣鏡の副葬を考える以前の問題」があります。その名は文献に時々登場しています。――例えば、国立歴史民俗博物館『研究報告第56号』、京都大学文学部『椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡』、近つ飛鳥博物館図録『銅鏡百枚』、奥野正男『邪馬台国の鏡』新人物往来社、樋口隆康『三角縁神獣鏡綜鑑』新潮社、橿原考古学研究所『黒塚古墳調査概報』、藤田友治『三角縁神獣鏡その謎を解明する』ミネルヴァ書房、京都大学・橿原考古学研究所・東京新聞『大古墳展-ヤマト王権と古墳の鏡』、『サンデー毎日-卑弥呼の鏡-』(1998年3月4日号)など。しかし内里古墳は内里のどこにある(あった)のか。不思議なことに、『八幡市誌』『八幡市遺跡地図』には載っていません。『八幡市遺跡地図』には内里池南古墳というのが載っていますが、築造時期・墳形・内部構造・出土遺物・発掘状況などは明らかにされていませんので、内里古墳と内里池南古墳の関係は不明です。
 一方、内里古墳の名の出どころを調べていくと、一冊の本にたどり着きます。本の名は『梅仙居蔵日本出土漢式鏡圖集』。(注4)この本は倭鏡の収蔵家として有名な高石市の山川七左衛門氏が所蔵の鏡のうち漢式鏡22枚を写真入りで図集として出版(大正12年[1923年])、京都大学の梅原末治氏がその解説を加えたものです。その中の1枚が内里にある古墳出土の三角縁神獣鏡です。梅原氏は解説の中でこう述べています。「本鏡は山城綴喜郡有智郷村字内里の発見に係るを以て、新に一資料加えたるものと云ふ可く、鏡面に今布片の附着し、また背面に粘土及び朱の残存などあるは、同鏡の出土せる墳墓が我が古式の墓制の類例多き粘土槨なりしを推察せしめて、古墳の研究上にも注意を惹く。なほ出土の古墳は丸塚(円墳)にして其の発掘は明治二十五六年(1892~93年)の頃なりしが如し。」[原文はカナ交じり文。()内は筆者追加] “有智郷村字内里”にある(あった)はずの内里古墳ですが、現在確認ができません。ご存知の方は教えてくださるようお願いします。鏡は山川七左衛門氏が亡くなった後、山川家の手を離れ、最後に広島県の耕三寺博物館の所有となりました。博物館では常設展示をされていないので見ることはできませんが、行方不明にならなくて本当に良かったと思います。
内里古墳出土の鏡の副葬状態

 鏡の副葬状態に関しては古墳の確認もできない状態ですので「わからない」のですが、鏡が「布にくるまれて、鏡に背面の粘土と朱が残っている」ことを考えると大切な鏡として副葬されていたと思われます。

内里古墳の鏡とその同笵鏡[同型鏡]

 三角縁神獣鏡の大きな特徴としてその種類の多様性(約200種)、同笵鏡[同型鏡](同じ鋳型⦅これを笵(はん)といいます⦆または原型で造った鏡)の多さがあります。88組275枚の同笵鏡[同型鏡](注5)(1995年現在)があるといいます。内里古墳の三角縁神獣鏡は1980年代終わりころまで、「同笵鏡[同型鏡]なし」と報告されていました。f0300125_11051761.jpgところが、1989年、徳島市教育委員会が国府町の宮谷古墳(前方後円墳、全長37.5m、3世紀後半から4世紀初めの徳島県最古級の古墳、阿波史跡公園内)で三角縁神獣鏡を3枚発掘、そのうちの1枚が内里古墳の鏡と同笵鏡とわかりました。これは驚きであると同時に疑問も湧きました。なぜ、遠い徳島県の古墳で八幡市の内里古墳と同じものが出土したか、両古墳の被葬者はどういう関係にあったのかなど。
 (徳島市国府町矢野遺跡からは突線紐式袈裟襷紋銅鐸(とつせんちゅうしきけさだすきもんどうたく)[97.8cm、重要文化財]が出土。八幡市式部谷からも同式銅鐸[66cm]が出土。状況が似ていて興味深い。)

ヤマト王権とのつながり

 約10年後の1998年、さらに新たな発掘・発見がありました。f0300125_11303048.jpg大和・天理市黒塚古墳(右写真)の発掘です。この発掘は八幡にとって大変重要でした。なぜか。黒塚古墳発掘の三角縁神獣鏡33枚のうち、第1号鏡と内里古墳の鏡が同笵鏡だと判明し、大和中枢の古墳と八幡の古墳の接点が出てきたからです。同笵鏡ということは阿波・宮谷、山代・内里、大和・黒塚の3つの鏡は製作地が同じであること、本来一か所にあったものがそれぞれの地域に分配されていったということを示しています。こうして黒塚・宮谷・内里の三者がネットワークでつながりました。徳島市立考古資料館には三者-黒塚・宮谷・内里-のネットワークを示す地図のパネルが展示されています。(右写真)
f0300125_11382415.jpg『日本考古学年報42(1989年度版)』(吉川弘文館)で三宅良明氏は次のように述べています。
「(宮谷古墳の三角縁神獣鏡と)同笵鏡と思われるものに、京都府・椿井大塚山古墳の北西約12kmに位置する八幡市(旧綴喜郡有智郷村)内里古墳(円墳・粘土槨?)出土といわれる銘帯六神四獣鏡(広島県・耕三寺博物館蔵)が存在する。両者の三角縁神獣鏡を比較してみると、外区の外向鋸歯(きょしもん)文帯などで大部分が一致するが、神像の福神などの文様などに相違点が認められる。」「三角縁神獣鏡が、畿内中枢勢力(初期大和政権)が地方勢力との間に政治的関係を確立した証として分配されたという前提に立てば、宮谷古墳の被葬者ひいては3世紀末から4世紀初頭のこの地域(注6)もまた畿内を中心とする勢力あるいはその傘下の地方勢力と強く結びついたことが物的証拠によって証明されたことになる。」
 大和中枢の黒塚古墳の鏡と同笵鏡を出土する古墳は、西は九州・福岡県から東は関東の群馬県まで全国の古墳に及んでいます。(注7)黒塚古墳の被葬者がいかに多くの豪族と同盟関係を結んでいたかがわかります。その同盟関係の中の一豪族として内里古墳の被葬者もいます。黒塚古墳から出土した多くの鏡と各地の鏡が同笵鏡ということについて大阪大学の都出比呂志名誉教授は次のように言っています。「大和を中心として、大和から各地、九州から関東に至る豪族に鏡を配布していたのではないか。そのことは、大和を中心とした豪族のまとまりが、すでに3世紀後半から4世紀の初めにかけて、できあがっていたという、日本の国家の形成を考える上でも、非常に重要な意義がある」(注8)
f0300125_11552548.jpg
◆本画像には提供写真が含まれており、転載を禁じます。

内里古墳の築造時期

 ここで新たな注目点が浮かび上がります。ネットワークを形成していた三者ですが、黒塚古墳の築造は3世紀後葉、徳島・宮谷古墳は3世紀後半~4世紀初頭です。では内里古墳はいつ築造されたのか?八幡での古墳築造は4世紀後半ころから始まるとされています。茶臼山古墳、ヒル塚、西・東車塚古墳、石不動古墳の築造はいずれも4世紀後半からです。黒塚、宮谷古墳築造の3世紀後半から70~100年近くの時間ギャップをどう考えたらいいか。これは何を意味しているか。普通、築造年代は土器・埴輪・古墳の墳形・埋葬施設・副葬品などを総合して推定されます。しかし、残念なことに内里古墳は古墳自体がどこにあるのかはっきりしないため、根拠とすべきものがほとんどありません。ただ、梅原末治氏が指摘しているように鏡に“粘土が付着”していますので、“埋葬施設は粘土槨ではなかったか”と推察されます。そうだとすると「粘土槨は竪穴式石室の簡略化されたもので、四世紀半ば以降」(注9)となりますので、内里古墳はやはり黒塚、宮谷古墳よりかなり後、築造されたことになります。鏡が大和中枢から三世紀半ばに配布され、同盟関係が結ばれたとすると、伝世(でんせい)されていたのでしょうか。

内里古墳の鏡は古式の三角縁神獣鏡

 また、黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡はすべてA・B段階のもの(240~260年ころまでに配布された三角縁神獣鏡の中でも古い鏡)と分析されていますから(注10)その同笵鏡である内里古墳の鏡も当然A・B段階のものということになります。一回目で述べたように西車塚・東車塚古墳の三角縁神獣鏡はC段階のものですから、内里古墳の鏡はそれらより古い鏡ということになります。八幡出土の三角縁神獣鏡中では一番古いと考えられるのです。(このことについてはもちろん、最終的には専門家による厳密な分析・鑑定が必要なことは言うまでもありません。)
 このように内里古墳の所在地・同笵三角縁神獣鏡の関係、大和中枢の豪族との関係、鏡の伝世など考えていくと、謎だらけで実に興味深い古墳であり、鏡であるといえます。
内里古墳鏡の銘文

 最後に内里古墳出土の三角縁神獣鏡の銘文についてみてみましょう。
 鏡名は正確には「三角縁銘帯六神四獣鏡」といいます。三角縁の内側に銘文があり、内区には6体の神像と4獣像が描かれているからです。内里古墳出土の鏡の銘文はところどころ摩滅していて全文は読めませんでしたが、黒塚古墳や宮谷古墳の鏡から、明らかになりました。次のようです。

銘文 張是作竟甚大好上神守及龍虎身有文章口銜巨古有聖人東王父渇飲飢食

(読解:『張氏が作った鏡はたいへん良い。(鏡の)上に神獣および龍虎があり、文章があり、に巨《矩(く)、さしがね。取っ手のついた直角に折れ曲がった定規。》を銜(くわ)えている。古(いにしえ)に聖人の東王父がいる。渇(かわ)けば飲み、飢えれば(棗(なつめ)を食うを省略)』
    は別ワク。君に宜しく、高(い位になる)に宜しい。)――読解は藤田友治『三角縁神獣鏡その謎を解明する』ミネルバ書房、1999
 
 京都大学名誉教授で泉屋博古館館長・橿原考古学研究所所長だった樋口隆康氏は『三角縁神獣鏡綜鑑』の中で、銘文を21種類に分析・分類しています。上の銘文はその中の一つですが、内里古墳の鏡および同笵鏡[同型鏡]は一部を省略しているようです。『三角縁神獣鏡綜鑑』には元のものと考えられる全銘文が載っています。次の通りです。
張是作竟甚大工好、上君神守及龍虎、身有宣文章口銜巨、古有聖高人東王父西王母、渇飲玉泉飢食官棗、[五男二女]長相保吉昌
 「張是」(=張氏)は製作者の名前です。鏡の製作者として陳氏とともに有名です。張氏は2派以上に分かれて製作していたといいますが、詳しいことはわかりません。このような製作者記名鏡は三角縁神獣鏡全体の一割強です。藤田友治氏は「銘文に西王母が省略されているのは発注者が男性であり、黒塚古墳の被葬者を考える一視点を提供している」と指摘しています。
 最近、銘文の韻(いん)から考えて、三角縁神獣鏡は日本国内で鋳造されたと主張する説が出されています。(注11)韻とは決まったところに繰り返す同種類の音をいいますが、韻を踏むことは詩歌を作る時の大原則であるそうです。中国で発掘される鏡の銘文にはそれがあるけれども、三角縁神獣鏡にはそれがない、だからこの鏡は韻を理解できない倭人が造ったもの、つまり日本製だというのです。しかし、卑弥呼の時代に文字を読み書きできる倭の工人がいたかとなると疑問が残ります。中国から工人が渡来してきて造ったとの説が有力ですが、証明するまでには至っていないようです。

おわりに

 いずれにしても、3世紀半ばに鋳造された鏡がヤマト王権から八幡の豪族に配布されていたこと、いつ配布されたかははっきりしないけれどそのころ八幡には鏡を配布される有力豪族がいたこと、その豪族を支える集落があったと考えられること、ヤマト王権から配布・分与される豪族のネットワークが各地に出来上がっていたこと、などは疑いないでしょう。八幡では、2世紀には66cmもの優美な銅鐸を持つ勢力がいました。京都府全体の出土銅鐸について調べてみると、この近畿式突線紐式銅鐸(とっせんちゅうしきどうたく)(注12)は京都府内では丹後・与謝野町比丘尼(びくに)城出土銅鐸(重要文化財)、舞鶴市と八幡市(式部谷)のもの、計3個を確認することができました。つまり“2世紀には少なくとも丹後・舞鶴・八幡に有力な勢力があった”といえるのではないでしょうか。(もちろんこの他にも山科の中臣遺跡などにみられるように有力な勢力はいたことは言うまでもありません。)そして4世紀末頃には天皇に意見をしていた内里の豪族(ごうぞく)甘美内宿禰(うましうちのすくね)(注13)(『日本書紀』応神9年4月条)がいました。(伝承記事になりますが・・・。)こう考えてくると昔の八幡をもっと知りたくなってきますね。
 次回は「西車塚古墳・東車塚古墳の三角縁神獣鏡について」考えてみます。 
(つづく) --

(注1)樋口隆康『シルクロードから黒塚古墳まで』、学生社、1999
(注2)図録『卑弥呼』弥生文化博物館、2015
橿原考古学研究所『黒塚古墳調査概報』学生社、1999
(注3)石野博信ら『三角縁神獣鏡・邪馬台国・倭国』新泉社、2006
(注4)『八幡遺跡地図』には「王塚古墳の文献」の一つとして『梅仙居』が載っています。
(注5)同笵鏡と同型鏡はその製法において違いがあり、同じ形・大きさ・文様の鏡でもそれを同笵鏡と考えるか同型鏡と考えるか研究者によって違います。ここでは同笵鏡[同型鏡]を単に同笵鏡と記すことにします。
(注6)徳島市国府町辺り
(注7)三角縁神獣鏡同笵鏡[同型鏡]分有図(分布図)は次の本に掲載されています。
白石太一郎ら『纏向発見と邪馬台国の全貌』、KADAKAWA、2016、P227
京都大学ら『大古墳展』、2000、P85
藤田友治『三角縁神獣鏡-その謎を解明する』、ミネルヴァ書房、1999、P322
(注8)NHK取材班「鏡が映す古代大和政権/黒塚古墳と三角縁神獣鏡」『堂々日本史第23巻』、KTC出版、1999
(注9)奈良文化財研究所『日本の考古学』小学館、2005
(注10)福永伸哉『三角縁神獣鏡の研究』大阪大学出版会、2005
(注11)森博達「毎日新聞2000年9月12日」付け
島根県神原神社古墳(かんばらじんじゃこふん)出土の鏡の銘文についての記事から
(注12)突線紐式銅鐸は1式~5式に区分されており、八幡・式部谷出土の突線紐式銅鐸は「3式」です。『豊饒をもたらす響き 銅鐸』弥生文化博物館、2011では「3式は紀元2世紀」という年代観を示しています。
(注13)八幡市・内神社の祭神。『古事記』では「味師内宿禰(うましうちのすくね) 《こは、山代の内の臣が祖ぞ》」と記述されています。武内宿禰(たけうちのすくね)とは異母兄弟にあたります。


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by y-rekitan | 2017-03-22 10:00 | Comments(0)
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