◆会報第79号より-05 八幡合戦

『太平記』八幡合戦の石碑を訪ねる

谷村 勉 (会員)


 「八幡合戦」の石碑は京阪八幡市駅から近く、男山山上の御本宮や護国寺跡より中ノ山墓地・正平塚まで凡そ片道4kmの距離にある。途中、歴史的な道標、
石碑を沢山目にするが、今回は「八幡合戦」(正平の役)に関連する道標をピックアップしました。八幡市民図書館横の⑥「園殿口古戦場」石碑を見た後はそのまま南へ旧街道の面影を残す旧道を歩き、突き当りを右に折れて、神原交差点から、さらに南の志水道に入るコースをお薦めします。
 なお、本記事で紹介の石碑等の場所は、下図に矢印と石碑番号を記入しています。
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① 護国寺薬師堂跡碑 (八幡高坊)
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 正平の役で山上における後村上天皇の行宮になったと思われるのが護国寺です。「八幡合戦」の終盤、ここから志水大道に下り、賀名生(あのう)まで多大な犠牲を払いながら脱出に成功した。明治の廃仏毀釈で建物は無くなるが、永く当山根本精舎の役割を担ったところで、八幡宮遷座以前、行基菩薩の開基と伝わる。本宮東門よりケーブル乗り場の道を左にみて、真直ぐ階段を下った左の広場が護国寺跡地になる。
 慶応2年(1866)発行の「八幡山案内絵図」にはほぼ中央に護国寺が描かれ、南側には琴塔や伊勢遥拝所が、西には大西坊へと案内する今も現存の大きな常夜燈が見える。護国寺本尊であった重要文化財の薬師如来や十二神将は廃仏毀釈以降、淡路島の東山寺(とうさんじ)に移され、現在も素晴らしい保存状態で大切に祀られている。

② 八幡行宮跡碑 (八幡市八幡土井)
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 飛行神社から南へ約30mの行宮碑、左に折れると後村上天皇行宮跡碑がある。

③ 後村上天皇行宮跡碑 (八幡垣内山) 
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 当時はこの周辺に石清水八幡宮祠官の田中家の広大な屋敷が在り、正平7年(1352)閏2月19日八幡宮別当田中定清の邸宅を行宮とした。

④ 青林院の正平役供養塔 (八幡旦所)
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 念仏寺の東隣、正福寺の向かいの「青林院」裏の墓地にある。表からは入れず、写真左の横道から南へ抜けると墓地に到る。青林院より東に信号を越えて行くと森堂口、薬園寺に続く道となる。
 この青林院は昭和19年(1944)「中ノ山墓地正平塚」を整備した今中伊兵衛氏が得度・隠居した寺です。

⑤ 正平役城ノ内古跡 (八幡城ノ内) 本妙寺
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 青林院から「八幡宮道」に戻り、更に南に進んで大谷川の「買屋橋」を越えて暫く行くと右手の「本妙寺」に到る。当時の実際の現場は城ノ内の南側からスーパー「コノミヤ」辺り一帯であったらしい。

⑥ 正平役園殿口古戦場 (八幡菖蒲池) 八幡市民図書館横
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 八幡市民図書館横の「園殿口古戦場」の三宅碑は本来の場所から移動している。「園殿口」とは江戸中期の「石清水八幡宮全図」等によると、現在の「法園寺」から東の川口方面に向かった大谷川の辺りを指すが、三宅碑は「小谷食堂」(八幡山本)近くの三叉路東南角付近(八幡菖蒲池)に設置されていた。道路工事等で現在の場所に移転したようだが、園殿口から大きくずれている。(図書館ロビーに江戸時代中期の「八幡宮山上山下惣絵図」あり)

⑦正平役馬塚古跡 (八幡東林)
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 志水道(八幡宮道)を登りきった「志水の四辻」にある内藤精肉店を左に入り、「ありあけ児童公園」を左に見てやや下り、二本目の筋を左に入ったところに「三宅碑」がある。八幡合戦では戦場の主力武器は弓矢であり、その死傷原因も殆んどが矢疵であった。四条隆資卿が斃れたのもこの道筋辺りであろうか。

⑧ 正平役血洗池古蹟 (八幡大芝)
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 志水道(八幡宮道)を松花堂庭園近く、「水月庵」の道標を見て右(旧道)に入り、八角堂を少し越した所に「三宅碑」がある。この古蹟からすぐ左の志水道を行くと中ノ山墓地に出る。血洗池とは古くは西車塚周濠溝の跡。「往古死罪人御成敗の時、太刀取刀をすすぎ候池と申伝え、其池茅原生茂りて名に呼びしか、血アライと称して、あやしき附言のさかしらを云伝えたるものならむ」と『男山考古録』(江戸後期の八幡の詳細な地誌)にあり。

⑨ 正平七年神器奉安所「岡の稲荷社」の道標 (八幡月夜田)
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 血洗池石碑から南に進み、中ノ山墓地を見て道路の坂を下りると、月夜田交差差点の東南の角に「岡の稲荷社」の三宅碑が見える。中ノ山墓地へは西に坂を登り返す。正平七年(1352)五月、八幡合戦に敗れた後村上天皇が賀名生に落ちのびる際、岡の稲荷社に神器を隠し置いたとするが全く不明です。

⑩ 中ノ山墓地東入口     ⑪ 正平塚遠景 (八幡中ノ山)
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 月夜田交差点から西に約50m坂を登ると中ノ山墓地東入口に到り、階段を登りきると、左方向に楠木の大木が目に入る。ここが正平塚です。

⑫ 四条隆資卿塔並びに将卒三百人墓
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 戦時中の昭和19年(1944)に慧俊信海(けいしゅんしんかい)(今中伊兵衛)によって、この正平塚は整備された。城ノ内町の畳商を営む今中伊兵衛は史跡松花堂の前所有者西村芳治郎氏の実弟でもある。今中の整備の20年前に西村芳次郎が東西20間、南北15間の敷地を定め、石柱を四方に立て保存に努めた。東口と北側にある「正平塚古墳」の石碑は昭和2年のいわゆる「三宅碑」である。
 昭和の初めころから塚は荒廃し、放置すれば南朝忠臣の四条隆資らを祀る塚が消滅することを危惧した今中伊兵衛は自費数千円を投じて整備した。
(この項のみ、京都府立大学文化遺産叢書第4集・中ノ山墓地の景観と庶民信仰:竹中友里代著から要約)

⑬ 三古碑      
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 正平の役で斃れた3人の公卿の古碑であるが詳しいことは判っていない。

【歴史を重ねた八幡宮道】

 最近、八幡東麓の道を「東高野街道」という人もいるが、近年観光客誘致の目的で、平成の歴史街道運動に乗って行政が名付けたと聞いています。実はその名称は八幡の洞ヶ峠を起点とする大阪側の道の呼び名であって、八幡の住民はこれまで殆ど「八幡宮道」の歴史的呼称を使用するか、町名を冠した例えば「志水道」、「常盤道」あるいは「新道」、「旧道」などと呼んできました。観光客や八幡の歴史に関心のない人が残念ながら「東高野街道」と呼ぶようです。
 特に近世以前、八幡の歴史上に存在したかのような記述があれば、それは歴史の理解不足であり致命的な錯誤となります。ここでは、「石清水八幡宮参詣道」として発展してきた歴史的経緯を踏まえた名称を使用します。

  主な参考文献:男山考古録 (嘉永元年・1848) 長濵尚次
        :八幡史蹟 (昭和11年・1936) 中村直勝
        :京都府立大学文化遺産叢書第4集(平成23年・2011) 
--------- 中ノ山墓地の景観と庶民信仰:竹中友里代
by y-rekitan | 2017-05-20 08:00 | Comments(0)
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