◆会報第79号より-03 古墳と鏡③

シリーズ「八幡の古墳と鏡」・・・③
八幡の古墳と鏡(3) 
-八幡出土の三角縁神獣鏡(2) 西車塚古墳-

濵田 博道 (会員) 


西車塚古墳とは

 今回取り上げる西車塚古墳は前回の内里古墳とは違い、以前からよく知られた古墳です。『以文會筆記』(文化年間(1804~1818)、京都文人による書)に次のような記事があります。

f0300125_10153298.jpg「おとこ山の麓を南へ河内国に行く道は右にも左にも車塚といふあり。いと平らなる畑の中に物をおきたらんやうに南は円にして広く北は方にして狭く、帝王の陵に似たればとてそのかみ、(中略)不知の異物なり。」(『京都府史蹟名勝天然記念物調査報告 第十三冊』)
 江戸時代の書物において車塚とは前方後円墳のことをいいます。“河内国へ行く道を挟んで西に西車塚古墳(後円部上に八角院[堂]のある古墳)、東に東車塚古墳(現在、後円部の一部は松花堂庭園の築山となっています。前方部は消滅。)があり、陵(みささぎ)に似ているがよくわからない”と述べています。
 『男山考古録』(1848年)巻14にも「西車塚」の項があり、かなり詳しく説明されています。「志水南山道より西にて、小山廻り(後円部)およそ半町(約60m)ばかりもあり、四手原(幣原)村へ行く道の北(中略)これは何れ名だたる人をや葬りたりけむ、未詳。」さらに『山陵志(さんりょうし)』(1808年、蒲生君平(がもうくんぺい)著)を引いて「前方後円、壇三成。溝環り、後円部の頂に葬むる場所あり」「皇后皇子若重臣の墓か」とあります。
 八幡市八幡大芝に所在し、古墳時代を通じ木津川左岸最大、全長120m、後円部径60m、三段築成の古墳です。盾型(たてがた)の周濠(しゅうごう)は現在、埋められて畑になっていますが、発掘調査の結果からも確認されています。円筒埴輪も二個確認されていて、埴輪列があったようですが現在は見当たりません。葺石(ふきいし)は「確認されていない」(『京都府史蹟勝地調査會報告書 第一冊』)、「あったと推定される」(『八幡市遺跡地図』)との見解があります。「古鏡5面、車輪石10個、石釧(いしくしろ)3個、鍬形石(くわがたいし)2個、石製品(合子(ごうす))1個、(瑪瑙(めのう))勾玉(まがたま)11個、管玉(くだたま)120個、小玉72個、木片4個、刀残片27個」が出土し、東京国立博物館に収蔵されています。(鏡は特別展の折、一度展示されましたが、常設展示とはなっていません。)
 報告書で京都大学の梅原末治氏は次のように述べています。「墳墓の構造の偉大なるより推し、またその埋蔵品の種類に考へ、当時の有力者なりは容易に知るを得べく、古鏡の年代推定にして当らむか、以て支那三国(原文のママ、中国の魏呉蜀(ぎごしょく)三国のこと、220年~280年)前後における山城文化の発達の一端をうかがうを得べき貴重なる遺跡なり。」

西車塚古墳の石室

 古墳時代前期(3世紀半ば~4世紀末)において八幡市で石室を有する古墳は茶臼山古墳と西車塚古墳の2基ありました。他の古墳は竪穴式石室の簡易型といえる粘土槨(ねんどかく)(粘土床)です。ですから、この2つの古墳は八幡市の中で格が高くかつ古い古墳といえるでしょう。とはいえ茶臼山古墳はすでに盗掘され石室も破壊された状態で副葬品もほとんど残っていませんでした。ただ石棺(近畿で最初に導入された熊本県氷川(ひかわ)の阿蘇溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)製の石棺)が残されていたのは貴重でした。一方、西車塚古墳の竪穴式石室について、梅原末治氏は石室が破壊された後になって調査し、次のように述べています。「明治35年(1902年)6月18日、(八角堂)境内の土坑に際し遂に石室を掘り当て、遺物を出すに至れり。この時出土の副葬品は東京帝室博物館の所蔵に帰して調査なし得べきも、室は全く破壊され終わりて尋ぬべからず。」「塚の主体をなす石室は後円のほぼ中央にあり。東西に長く塚の主軸とは直角の方向をとれるいわゆる竪壙(たてこう)なりしがごとし。この形状の詳細は全く知る能はざる(後略)」(『京都府史蹟勝地調査會報告書 第一冊』(1919年[大正8年])
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西車塚古墳の被葬者像

 副葬品として古鏡や腕輪型石製品などを多く有していることから被葬者が祭祀を司り宗教的呪術的性格であったことがわかります。また腕輪形石製品の最高品位といわれる鍬形石2個が出土していることから高い威信をもっていること、三段築成の古墳であることからヤマト王権と関係が深かったことがうかがえます。腕輪形石製品について奈良文化財研究所『日本の考古学』(小学館)で次のように述べています。「腕輪形石製品は銅鏡と同様に、所有者の威信を高める重要な物品であった。その背景として、当時の中心的な勢力によってこれらが製作・配布されていたとする説が有力である。しかも一定の格付けがあり、鍬形石、車輪石、石釧の順で重要視されていたようである。」出土品の石製合子(ごうす)と瑪瑙製勾玉(めのうせいまがたま)は東京国立博物館発行『日本の考古ガイドブック』にも掲載されているほど見事なものです。私が東京国立博物館を訪れた時、ちょうど合子が展示されており、八幡市西車塚古墳出土との解説を見て感動したものです。これらを持ち合わせた被葬者とはどのようでしょうか。

西車塚古墳出土の鏡

 出土した5枚の鏡は3枚が舶載鏡(はくさいきょう)(=中国鏡)、2枚が仿製鏡(ぼうせいきょう)(=倭鏡)とされています。舶載鏡は盤龍鏡(ばんりゅうきょう)、三角縁神獣鏡、画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)各1枚です。
f0300125_20352491.jpg画文帯神獣鏡については石不動古墳からも出土しており、次々回とりあげます。
 盤龍鏡については、『八幡市誌』に櫛歯文帯龍虎鏡(くしはもんたいりゅうこきょう)という名前で記載されていますが、これは同じ鏡のことです。大塚初重『古墳辞典』(東京堂出版)によると「(龍虎鏡は)盤龍鏡のうち主文様が龍と虎の向き合う構図のもの、後漢(25年~220年から三国期(220年~260年)にかけてのもの」と説明されています。盤龍鏡の一部として龍虎鏡が存在するわけです。そして「各種の神獣鏡や盤龍鏡をもとに試作を重ね、三角縁神獣鏡が生まれた。」(注1)とされていますので、三角縁神獣鏡の母体となった鏡の一つであるといえます。盤龍鏡という三角縁神獣鏡が生まれる前の古い鏡である後漢鏡が三角縁神獣鏡とともに副葬され出土しているのも興味深いです。西車塚古墳の盤龍鏡は舶載鏡とする見解(梅原末治氏、『八幡市誌』、山城郷土資料館『鏡と古墳』)と仿製鏡とする見解(樋口隆康『古鏡』新潮社)がありますが、ここでは舶載鏡として扱いました。

三角縁神獣鏡などの副葬状態

 西車塚古墳の石室については、八角堂境内整備の際、専門家の立ち合いがなかったようで、石室の形や様子、副葬品の位置関係などの図面などが残されないまま、壊されました。そのためどんな石室であったのか、棺(ひつぎ)の外と内に石製品や鏡がどのように副葬されていたのか、とりわけ三角縁神獣鏡はどのように副葬されていたのか、これら威信財のうち被葬者が何を最も大事にしていたのか、などわからない状態です。ただ後年、石室調査に赴いた梅原末治氏は、発掘当時石室を実見した河井うのさんの話を聞いて次のように記述し感想を述べています。
 「室の大さは竪九尺(2.7m)、横二尺(0.6m)、高さ三尺(0.9m)内外にして、壁は積むに扁平なる水成岩を以てせり。今街道より八角堂に登る石階(段)に使用する石材是なりといふ。而して内部に於ける遺物副葬の状態は室の東方に接して鏡鑑類あり、付近より石釧などの石製品を発見し、勾玉小玉管玉の類は室の南辺に点在せりと云へり。然らば以外は頭部を東にして埋葬せるものと見るべきか。」(『京都府史蹟勝地調査會報告書 第一冊』)

西車塚古墳出土の三角縁神獣鏡

 三角縁神獣鏡の正式名は「三角縁天・王・日・月・唐草文帯二神二獣鏡」といいます。二神像・二獣像の外側の四方に「天」「王」「日」「月」という文字が方形枠で一文字ずつ銘記され、その外側に帯状に唐草文が描かれているからです。(注2)「『天王日月』の銘文は三角縁神獣鏡に時々見受けられますが、中国では後漢代の二世紀第三四半期(150年~175年)ごろに作成されたと推定される画文帯同向式神獣鏡に多くみられる」(注3)ようです。『天王日月』銘の起源はそのころまで遡るということになります。「天」は天子、「日」「月」は「太陽と月であるが、陽と陰の二元となり、天子と后をさす。」(注4)とされています。が、諸説あります。また、第一回の「八幡の古墳と鏡」で“西・東車塚古墳の三角縁神獣鏡はC段階の製作だから卑弥呼の鏡ではない”(卑弥呼の時代と合致しない)と述べました。この舶載三角縁神獣鏡の製作ABCDの四段階のうちC段階について、大阪大学の福永伸哉氏は次のように説明しています。「<舶載C段階>内区(ないく)四分割、六分割タイプ共存。捩文座乳(ねじりもんざにゅう)をもつ四神四獣鏡、三神三獣鏡、二神二獣鏡、三神二獣鏡など。外周突線の出土頻度さらに低下。銘帯もみられるがごく少数派。260年代の製作か。」(注5)西車塚古墳の三角縁神獣鏡は内区四分割の二神二獣鏡です。

西車塚古墳の三角縁神獣鏡の同型鏡

 この三角縁神獣鏡と同じ大きさ・文様のものが西車塚古墳のものを含めて9枚見つかっています。9枚もの同じ鏡をどうやって造ったのか。1つの鋳型から複数の鏡を造る同笵鏡による製作法では鋳型が破損していくので5枚が限度といわれています。同笵鏡による製作法で9枚は考えにくいというわけです。そこで原鏡から鋳型を造り、その鋳型から1枚の鏡を造り(踏み返し鏡)、その鏡から多くの鋳型を造って鏡を製作するという同型鏡による製作方法が考えられています。他にも同笵・同型両方の方法を使って製作したのではないか、あるいはさらに別の製作法もあったのではともいわれており、どうやってつくったのか意見がいろいろあります。同じ大きさ・文様のものが9枚見つかったというのは三角縁神獣鏡でも最多の枚数です。どういう古墳で見つかっているか調べてみますと、

ヘボソ塚古墳鏡(兵庫県神戸市東灘区岡本町、前方後円墳、古墳時代前期)
石切神社蔵鏡(大阪府東大阪市)
佐味田宝塚古墳鏡(奈良県北葛城郡河合町、前方後円墳、4世紀末)
長法寺南原古墳鏡A鏡(京都府長岡京市、前方後方墳、4世紀後半)
長法寺南原古墳鏡B鏡(     〃      )
西車塚古墳鏡(京都府八幡市、前方後円墳、4世紀後半)
長塚古墳鏡(岐阜県可児市、前方後円墳、4世紀末~5世紀初頭)
岐阜県円満寺古墳鏡(岐阜県海津市南濃町、前方後円墳、4世紀中~後半)
愛知県東之宮古墳鏡(愛知県犬山市、前方後方墳、3世紀後半~末葉)

 近畿から東海にまで分有が広がっているのです。ヤマト王権と同盟関係を結ぶ広範なネットワークが形成されています。また、長岡京市長法寺南原古墳からはこの鏡が2枚発掘されています。それは何を意味しているか。次のように考える説があります。“中国への遣使(卑弥呼・台与(とよ)の時代、数回の遣使記録がある)ごとに三角縁神獣鏡が輸入されたとすると、それによりヤマト王権は豊富に鏡を有していた。その鏡を同盟関係を結んだ各地の豪族に配布、分有し、特に重要な地域や功労のあった豪族には複数枚配布することもあったのではないか。”と。しかし「三角縁神獣鏡は百を単位に数えるほど多量に輸入されたとはいえ限りがあったから、それを補うかたちで仿製三角縁神獣鏡が日本列島において製作された。」(注6)男山・長岡・乙訓付近は水陸交通の要衝です。ヤマト王権としてはぜひともここを押さえる必要があったと思われます。それゆえ、淀川水系の両岸の勢力と強い同盟関係を結び、その証として三角縁神獣鏡を分有したといえるでしょう。また、椿井大塚山古墳から大量の三角縁神獣鏡が出土していますが、この木津川水系は北の桂川、東の宇治川それに巨椋池、西の淀川を通じて日本各地とつながっています。さらに王権の中枢に近く最重要拠点でした。だからこそ鏡の配布を担当する最高の役を持っていたのではないでしょうか。こうしてヤマト王権は山代(やましろ)や他の各要衝の勢力と同盟関係を結び、それらを押さえ支配を強め勢力を拡大していったと考えられます。

西車塚古墳の築造時期

 西車塚古墳の三角縁神獣鏡が配布されたのは、長岡京市の長法寺南原古墳築造とそれほど離れた時代ではなく、ヤマト王権がまだ鏡を多数保有していた初期のころで、鏡が足りなくなる時代=三角縁神獣鏡の仿製鏡を造る時代、までは下らない時期といえます。とすると西車塚古墳はいつごろ築造されたのか。西車塚古墳には舶載鏡と三角縁神獣鏡ではないですが仿製鏡がともに副葬されています。両方副葬されていたとなると古墳時代前期であっても初期ではないでしょう。そういうことと出土の腕輪型石製品、埴輪の編年、当時の王権中枢の古墳の形との相似性などを調べると、西車塚古墳の築造は4世紀の後半ごろと考えられます。しかし、後述しますがこの年代はまだ確定的ではありません。

ヤマト王権とのかかわり

 八幡に古墳が築造される4世紀後半という時代は、ヤマト王権に大きな変化がおきているときです。卑弥呼の墓といわれる3世紀中葉の箸墓(はしはか)古墳からはじまって、百数十年間大和東南部(天理市・桜井市辺り)に築造され続けていた200mを超す大型前方後円墳は4世紀中葉を最後に造られなくなり、かわりに奈良市北部・曾布(そふ)(添)の地域に大型前方後円墳が築造されるようになります(7基)。大和東南部から奈良市北部の地に移動していくのです(佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群)。「なぜ移動したのか」については、(注7)の書籍が参考になります。今の平城宮跡の北側一帯、近鉄京都線・橿原線と国道24号線の間、その近辺にあります。
 葛城の地域にも大型の前方後円墳が次々と築造されます(馬見(うまみ)古墳群)。この古墳築造の時期が八幡での古墳築造の時期とピタリと重なります。奈良盆地北部は南山城とも近く、八幡の勢力とかなり関わりがあったと思われます。また、この時期は東アジア的にみれば中国の朝鮮半島出先機関だった楽浪郡(らくろうぐん)・帯方郡(たいほうぐん)が高句麗(こうくり)により滅ぼされ(313年)、高句麗の南下により朝鮮半島情勢が不安定になり、「広開土王碑(こうかいどおうひ)」(高句麗王広開土王=好太王(在位391~412年))にみられるように高句麗と百済(くだら)・新羅(しらぎ)・倭(わ)の勢力が盛んに争っていた時期でもあります。『三国史記』『日本書紀』にもその断片が記述されています。

八幡の古墳編年

 1986年に発行された『八幡市誌』の解説では、八幡での古墳築造編年(前後関係)は
茶臼山古墳→石不動古墳→西車塚古墳→東車塚古墳→ヒル塚古墳→王塚古墳

となっており、八幡の古墳築造はだいたいにおいて4世紀後半、ヒル塚と王塚古墳は5世紀前半~半ばと理解したものです。ところが、最近発行された文献をみると、4世紀後半という理解は多数としても、この古墳の編年に変化が生じています。八幡全体の古墳築造編年はまだまだ確定していないように思われます。例えば昨年(2016年)発行・発表された文献から、八幡の部分だけ抜粋してみますと次のようです。
茶臼山古墳→ヒル塚古墳→西車塚古墳→石不動古墳→東車塚古墳→王塚古墳(注8)
西車塚古墳→東車塚古墳→茶臼山古墳→石不動古墳(注9)
ヒル塚古墳→茶臼山古墳→西車塚古墳→石不動古墳→東車塚古墳→王塚古墳(注10)

 八幡で最も早くに築造されたのはどの古墳で、どういう勢力が掌握していたのか。茶臼山古墳だとすれば前方後方墳の勢力、西車塚古墳だとすれば前方後円墳の勢力、ヒル塚古墳だとすれば方墳の勢力ということになり、その勢力の基盤、格付けも変わってきます。全国の築造数は前方後円墳が約6400基に対し、前方後方墳は約500基(注11)といわれていますから、数としては前方後円墳が圧倒的に多いです。
 ちょっと古い資料ですが、1972年に発行された龍谷大学文学部考古学研究室『南山城の前方後円墳』に、男山グループの古墳の特徴がコンパクトにまとめられています。
「始原が前方後方墳であること。茶臼山古墳に引き続いて築造された古墳はいずれも100m前後の大型前方後円墳であり規模の点で南山城の最も大型の前期古墳であること、それに対し中期型の古墳はむしろ若干規模の縮小化を見ること、かつて前方後円墳ないし前方後方墳を築造してきた古墳群にあって、中期型の古墳はむしろ若干規模の縮小化を見ること、(中略)首長墓の系列のみで周辺に小規模な群集墓をもたないことなど、木津川を隔てた対岸の久津川(くつかわ)古墳群の様相と全く異り、むしろ淀川北岸の向日市古墳群に類似性が認められる。なお、首長墓が時期的に近接して築造される現象は、首長権の一系的な世襲制の未確定な様相を示すものとして注目されよう。」(『八幡市誌第一巻P133』)
 最初の古墳築造や古墳の編年をめぐっては、これからの研究を注視していく必要があります。(次回は「東車塚古墳とその三角縁神獣鏡について」考えてみます。)
 
(つづく)  


(注1)大塚初重『古墳辞典』,東京堂出版,1987
(注2)同じ天王日月と書いてあっても、方形枠内に「天王日月」とセットで描かれているもの、「天王」「日月」と2字ずつのものなどの三角縁神獣鏡があります。(小林行雄『古鏡』学生社)実際に鏡を見ると明らかに違いがわかるのですが、文字にすると似ているので注意が必要です。そこで研究者は「天王日月」セットの場合「天王日月」、「天王」「日月」の2字ずつの場合「天王・日月」、「天」「王」「日」「月」の一字ずつの場合「天・王・日・月」と区別して鏡名を表しています。
(注3)安本美典『三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡か』,廣済堂出版,1998
(注4)藤田友治『三角縁神獣鏡の謎をさぐる』,ミネルヴァ書房,1999
(注5)福永伸哉「三角縁神獣鏡と葛城の前期古墳」 『古代葛城とヤマト政権』,学生社,2003
(注6)岡村秀典「三角縁神獣鏡と伝世鏡」『古代を考える 古墳』,吉川弘文館,1988
(注7)白石太一郎「百舌鳥・古市古墳群出現前夜の畿内」『百舌鳥・古市古墳群出現前夜』近つ飛鳥博物館図録,2013
(注8)『平成28年度特別展山城の二大古墳群-乙訓古墳群と久津川古墳群』図録,京都府立山城郷土資料館、2016年10月
(注9)塚口義信『邪馬台国と初期ヤマト政権の謎をさぐる』原書房,2016年11月
(注10)岸本直文「山城の前方後円墳と古墳時代史」『文化講演会山城の王権の実像に迫る!!』,ふるさとミュージアム山城,2016年10月
(注11)大塚初重『「古墳時代」の時間』,学生社,2004


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by y-rekitan | 2017-05-20 10:00 | Comments(0)
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