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◆会報第80号より-03 古墳と鏡④

シリーズ「八幡の古墳と鏡」・・・④
八幡の古墳と鏡 (4)
-東車塚古墳について-

濵田 博道 


東車塚古墳とは

 東車塚古墳は国史跡名勝に指定されている松花堂庭園(八幡市大字女郎花)内にある古墳です。というより、もともと古墳があったところを開発、利用して名勝松花堂庭園ができたという方が正確でしょう。この付近は江戸時代の終わりごろから畑地として開拓が始まっています。
『男山考古録』(1848年)巻14「東車塚」に概略次のような記述があります。
◆会報第80号より-03 古墳と鏡④_f0300125_171013.jpg「女郎(花)塚(おみなえしづか)といふ処の東に、四十間(約73m)ほどの小山のような塚があり、このことである。
(中略)この地は社士神原氏の所領だったが、志水町の民小衛門と儀右衛門という人が40年ほど前、山頂の樹木を切りここを開拓し畑にしようとして、鋤鍬で耕そうとしたが、皆その夜から病に伏して掘り崩すことはやんだ。
儀右衛門の子どもの清兵衛という人が恐れおののいて丘上に小祠を建てて祭った。このようなことは西車塚でもあった」。
 梅原末治氏の『久津川古墳研究』(大正9年(1920年)、水木十五堂発行)には次のような記述があります。
「(東車塚古墳は)北北西面の前方後円墳にして、北西にある西車塚と相去る約一丁(約109m)なり。後円部の西方に女郎花塚なる小円墳を伴ふ。◆会報第80号より-03 古墳と鏡④_f0300125_1743012.jpg古墳の全部は今全く井上氏の別荘の内に入て、大部分は地均を行ひ庭を形造り、ために原形を明にする能わざる(後略)」。
 古墳は「推定全長90m、後円部径50m、前方部50m、前方部幅30m、葺石・埴輪列、粘土槨(後円部)、木棺直葬か(前方部)」(注1)とされています。前方部は削平されており、現在その痕跡はなく、詳しい墳形や何段築成の古墳であったのか不明です。古墳としてはわずかに後円部が松花堂庭園の築山として残っているのみです。

東車塚古墳の埋葬施設・埋葬状態

 前書で、梅原末治氏は別荘工事を観察していた西村芳次郎氏より話を聞き、次のように記しています。「古墳の外形すでにこの如きを以て内部の構造、遺物の埋葬状態等は既に明瞭にする能わざる点多きも、(中略)この塚においては前方部と後円部との両者に埋葬物存せりが如く、最初前方部の地均の際古鏡一面と剣身一口を発見し、(中略)地表下約二尺(約60cm)にして、土砂に混じ偶然上記の二品を得たるものにして、なんらこれに特殊の造構を認めざり」。
 前方部に於いては「何らこれに特殊の造構を認めざり」とありますから、きちんとした埋葬施設があったのか、不明です。それゆえ、『八幡市遺跡地図』も「木棺直葬か(前方部)」と記述しているのでしょう。この前方部から出土した鏡が三角縁神獣鏡です。
 後円部の埋葬施設については、封土の下、約150~160cmの所に「やや前者(前方部)と様子を異にして、一種の粘土と礫石(れきせき)とより成る槨(かく)の如きものあり」。底に栗石を一列に並べた礫床(れきしょう)があり、次に朱層があってその上に粘土層を置き、「遺物はこの朱層中に存せり」とあります。「西に偏して長宜子孫内行花文鏡(ちょうぎしそんないこうかもんきょう)一面存し、それに隣て東にほぼ相重なれる位置に古鏡二面あり。両者の中間より硬玉製勾玉(こうぎょくせいまがたま)二個を発見せり。刀剣、斧頭、鏃(やじり)の類は鏡よりさらに東に並列し、鏃、甲冑(かっちゅう)の類は刀剣の北側、二面の鏡の東に位置せりと伝へ、鏡は三面共表面を上にして存せり。」(注2)と記されています。
 礫床(れきしょう)・朱層・粘土層を敷いた埋葬施設が一基あり、豪華な副葬品を持つことから、後円部の被葬者がこの古墳の主体であり、遺物も大切に埋葬されていることがわかります。

東車塚古墳出土の副葬品

 さらに「遺物の中にて最も貴重なる鏡にしてその中(中略)長宜子孫内行花文鏡は京都帝国大学に蔵せられその他は個人の有に帰せり」(注3)とあります。現在、鏡4枚のうち京都大学総合博物館(内行花文鏡1枚)と泉屋博古館(三角縁神獣鏡及び仿製六神像鏡の2枚)に分散、所蔵されています。残りの鏡1枚(鼉龍鏡(だりゅうきょ))、碧玉製勾玉(へきぎょくせいまがたま)二個、甲冑などは不明です。甲冑は衝角付冑(しょうかくつきかぶと)及び短甲(たんこう)であることがわかっています。梅原末治氏は大正5年(1916年)にこの古墳を訪れ実見し、「副葬品はその後四散して今行方を失せるもの少なからず。」(注2)と記しています。
 副葬品の刀剣「素環頭大刀」「大刀」(計9本)(注4)の写真が『八幡市誌第1巻』に載っており、松花堂資料館蔵とあります。この「素環頭大刀」とは何か。どのような意味を持った大刀なのか。そのことに関して松木武彦氏の『人はなぜ戦うのか』(講談社選書メチエ)に興味深い記事があります。
 “『魏志』倭人伝によると卑弥呼は晩年、「南」にある狗奴国(くなこく)と仲が悪く交戦していた。狗奴国を攻めあぐねた卑弥呼側は中国・魏の皇帝に援助を求める。皇帝はこれに応え、使者を立て、詔書(しょうしょ)と軍旗をつかわす。武器が供与された可能性がある(京都大学、岡村秀典氏)”(要約)。「その治世の後半頃に卑弥呼を支えたとみられる有力者たちの墓からは、把(は)(=つか)の先をリング状にした大刀が出る。素環頭という中国王朝風の大刀だ。これら素環頭のなかに、247年の軍事支援の折に魏から卑弥呼側にもたらされたものがあると考えている。素環頭は、卑弥呼側の最新兵器として威力を発揮しただろう」。
 東車塚古墳から大刀と共に出土した素環頭大刀(数本)ですが、“古墳の築造は4世紀末~5世紀初頭で、卑弥呼の時代は3世紀前半~半ばだから時代が違うし、関係ないではないか”と思われる方もおられるでしょう。もっともです。しかし、この古墳からは弥生時代後期の鏡(内行花文鏡)も出土していますので、この素環頭大刀が弥生時代後期・卑弥呼の時代のものでないとは断定できません。調査に値すると思います。また、“卑弥呼の側に立たなかった陣営(例えば出雲)の墓からは素環頭大刀は出土せず、そのリング(素環頭)を切り取った大刀が出土しており、陣営により区別していた”(注5)というのです。仮に素環頭大刀が弥生時代のものだとすれば、八幡の地域の勢力は卑弥呼側だったといえると思います。また、4世紀~5世紀の古墳に弥生時代の内行花文鏡と素環頭大刀が埋葬されているとすれば、そのことについてどう考えるか。それらは独自に手に入れたものなのか、伝世したものなのか、伝世したものであるとしても大首長やヤマト王権から配布されたのか、それはいつなのか、など興味深い点が多々あります。
 松花堂美術館で「大刀はどこで見られますか」と尋ねると、現在は所蔵していないとのことです。どこに所蔵されているのかについての最終確認はできていません。所在を市民が個人で訪問して調べたりすることの限界があります。八幡市民としては、市内出土の遺物を見学したいところですが、難しい状況です。

三角縁神獣鏡と甲冑

 東車塚古墳の副葬品の中に三角縁神獣鏡と甲冑(かっちゅう)が同時に存在するのは注目すべきことです。◆会報第80号より-03 古墳と鏡④_f0300125_9145539.jpg古墳時代前期(3世紀半ば~4世紀末)の有力古墳に共通してみられる三角縁神獣鏡の副葬は中期(5世紀)に入ると近畿を除いてほとんど見られなくなります。替わりに、中期には甲冑を含む多量の武器が河内の百舌鳥(もず)古墳群(堺市)や古市(ふるいち)古墳群(藤井寺市)を中心に出土するようになり、これらの古墳群からは三角縁神獣鏡は出土していません。三角縁神獣鏡が副葬されている古墳には甲冑は副葬されず、逆に甲冑が副葬されている古墳には三角縁神獣鏡は副葬されなくなります。ところが、東車塚古墳では古墳時代前期の三角縁神獣鏡と中期の甲冑、両方が出土しています(埋葬施設は異なりますが)。こういう古墳は珍しく、現在、近畿で7基しか見つかっていません(注6)。すべて前期から中期へ変化していく時期あるいは中期初頭、遅くとも中期中頃までの古墳です。大型古墳群は時代とともに、大和盆地東南部(3世紀半ば~4世紀半ば)→佐紀古墳群西群(4世紀半ば~5世紀半ば)→百舌鳥・古市古墳群(4世紀末~5世紀初頭)へと地域を移動します。それぞれの時期に主導権を握ったヤマト王権中枢の勢力の古墳と考えられています。大古墳群が移動するにつれ、古墳群の構成も複雑になり、副葬品も変化していきます。新時代の要請に対応する組織を作り出す勢力が主導権を握ります。東車塚古墳築造時期はまさに政権の移動の時期にあたります。東車塚古墳の勢力はそのキャスティングボートを握った勢力の一つであり(注7)、その結果、両方の威信財が埋葬されているのではないかと考えられるのです。しかし、そのことがよかったかといえばそうともいえません。八幡市域ではこれ以後古墳築造は衰退し、中期半ばの美濃山王塚古墳を最後に目立った古墳は築造されなくなります。西車塚古墳・東車塚古墳の時代は八幡における古墳時代の頂点の時期、東車塚古墳はその分岐点の古墳ともいえます。田中晋作氏はいいます。「西車塚古墳は、東車塚古墳より先に築造された古墳だが、周辺ではこれより古い古墳が現在のところ確認されておらず、また、東車塚古墳の後続古墳についても知られていない。南山城の古墳編年によると、久津川古墳群で久津川車塚古墳が築造されるころに、この地域(=八幡)の勢力が衰退する。この現象は久津川古墳群との関係によるのか、百舌鳥・古市古墳群を含めた畿内全体の動向の中でとらえるべきか、即断できないが、八幡東車塚古墳を最後に古墳の築造が停止する現象は注意しておく必要がある。」(注7)

三角縁神獣鏡の副葬状態

 東車塚古墳では前方部において「なんらこれに特殊の造構を認めざる」ところから三角縁神獣鏡が発見されました(前出)。このような状態で鏡が発見された例が他にもあります。第2回目でふれた徳島市宮谷古墳の発掘概要(『日本考古学年報42』、P541~P542』1989年)によると、三角縁神獣鏡は「3面分が第2トレンチ(前方部先端)より出土している。いずれも、本来鏡が副葬される内部主体から大きく離れており、後世の盗掘あるいは開墾などによる墳丘削平等によって原位置を移動したと思われる。」とあります。東車塚古墳の出土状況と似ているようにも思います。そのような埋葬状態から、三角縁神獣鏡はそんなに大事に扱われなかったのではないか、葬具、呪具ではなかったのか、という専門家の意見が出ています。

東車塚古墳出土の三角縁神獣鏡の銘文

 三角縁神獣鏡は「三角縁銘帯二神二獣鏡」といいます。『八幡市誌』には「尚方作二神二獣鏡」という名で載っています。次のような銘文があります。
銘文:尚方作竟佳且好 明而日月世少有 刻治今守悉皆右 長保二親宜孫子 富至三公利古市 告後世
 
(この鏡は尚方が作った鏡で立派で良い。明るく日月の世はまれだ。政治を刻み、今を守れば皆右。両親は長寿で子どもや孫に恵まれ 富貴になり出世し商売は繁盛する 後の世まで告げる。[訳:濵田] )
『尚方作竟』(竟=鏡)の「尚方」とは何か。松本清張氏は「漢の宮廷の鋳造所」といいます(注8)。森浩一氏は『考古学と古代日本』(中央公論社)の中で「『尚方作竟』の銘文も多くの三角縁神獣鏡にあるが、『尚方』とは国の官営工場のことで、漢から晋代にかけて中・左・右の三つがあり、魏では右尚方が鏡をつくっていた。」「また『尚方鏡』の銘文の中に『買此鏡者大富』(この鏡を買うものは大いに富む)とあるように、『尚方鏡』は私営工場でつくっていたことを示していて、三角縁神獣鏡の『尚方作竟』銘は尊大な虚詞」と述べています。『尚方作竟』と銘記されていても必ずしも官営工場で作られたものではない、というのです。いずれにしても、中国・魏の官営工房の銘が入った鏡が東車塚古墳から出土していることは事実です。

東車塚古墳出土三角縁神獣鏡の同笵鏡

 東車塚古墳出土三角縁神獣鏡の製作は舶載鏡C段階、260年代といわれています(注9)。同笵鏡は次の3枚が確認されています。  
 ①熊本県芦北郡出土(伝)
 ②奈良県新山(しんやま)古墳出土
 ③出土地不明(福原家所蔵)
 ①の芦北郡は八幡茶臼山古墳石棺・阿蘇溶結凝灰岩の産出地氷川(ひかわ)のすぐ南に位置します。八女市と水俣市の間にあり、八代海に面する南北に長い郡です。「鏡片」が出土したと報告されていますが、その場所の特定はできていません。他の出土品も不明です。
 ②の新山古墳は葛城地方最古・全長126mの前方後方墳です。4世紀前半の築造です。この古墳から鏡34、碧玉製管玉16、車輪石3、石釧1、金銅製帯金具24、鉄刀16、鉄剣16、鉄刀子16など数多くの遺物が出土しています。そのうち鏡は直弧文鏡(ちょっこもんきょう)3、三角縁神獣鏡9、画文帯神獣鏡3、方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)4、内行花文鏡14と貴重な鏡が多いです。

長宜子孫内行花文鏡(ちょうぎしそんないこうかもんきょう)

 東車塚古墳出土の鏡の中で、「最も貴重なる鏡として」(注3)位置づけられ、「全面黒漆色を呈せる美麗なる鏡なり。」「外区は細密精巧なる直線と円の文様により成り、四葉座紐(ちゅう)の間に長宜子孫の銘を印す。」(注2)と記されています。面径22.3cmで大型に近い中型鏡です。内行花文鏡というのは日本独特の呼び名で、鏡の弧の連続模様を花弁と見て付けられましたが、真に花弁を表したものかは疑問とされています。鏡の中には宇宙が描かれていてその宇宙の幕(連弧文はその幕である)を開けたものともいわれています(注12)。中国では連弧文鏡(れんこもんきょう)といいます。(『広辞苑』に鏡の図)
 中国・新(しん)-前漢(紀元前202~紀元8年)と後漢(25~220年)の間に15年ほど存在した国(8~23年)-の“王莽(おうもう)の時代に出現した可能性が強い”(注10)といわれています。主に後漢時代―日本では弥生時代―に作られた鏡で、「もっともオーソドックスな(=正統的な、一般に認められた)鏡」(注11)といわれています。「卑弥呼の鏡」候補の一つです。この時代、倭・中国(楽浪郡)・朝鮮半島南部の間で結構交流がありました。白石太一郎氏は「古墳副葬鏡について、二種類の機能」があり、「一つは(内行花文鏡など)司祭者の象徴として祭器とされていた鏡、もう一つは三角縁神獣鏡など呪具として葬送にともなって使われていた鏡」(注13)であるといいます。
 鏡名のはじめにある「長宜子孫」というのは「長生きし、子孫に恵まれる(子孫繁栄)する」という吉祥句(きっしょうく)で、内行花文鏡をはじめ多くの鏡に記銘されています。上に出てきた三角縁神獣鏡の銘文「長保二親宜孫子」も似たような内容です。
 内行花文鏡をはじめ、舶載鏡(=中国鏡)はまず北部九州に入ってきました。弥生時代の鏡の約300枚中200枚ぐらいが舶載鏡で、そのうち150枚ぐらいの舶載鏡が北部九州から出土しているそうです(注14)。そうだとすると、残りの舶載鏡は50枚ぐらいということになりますが、東車塚古墳の鏡は舶載鏡です。当時の倭の首長たちは「司祭者の象徴としての祭器」であるこの内行花文鏡が欲しかったようで、舶載鏡を真似た小型(5~12cm)の仿製(=倭製)鏡が多数出土しています。京都府下で内行花文鏡をみると26枚出土(注12)していますが、仿製鏡が14枚と過半数です。大きさでは小型、中型がそれぞれ12枚ずつ、大型が1枚(椿井大塚山古墳、3世紀後葉、27.7cm)です。東車塚古墳の内行花文鏡は府下2,3番の大きさです。
 福岡県(伊都国(いとこく))の平原(ひらばる)遺跡(弥生時代末期~古墳時代初期)では内行花文鏡だけでも20枚、うち巨大な(46.5cm)仿製内行花文鏡が5枚(出土40枚の鏡はすべて国宝)出土しており、当時の北九州勢力の強大さがわかります。私は福岡県・伊都国歴史博物館-ここは『魏志』倭人伝にある伊都国のあったところ-を訪問し、これらの鏡を見、その大きさと数に驚き圧倒されました。

半円方形鼉龍鏡(だりゅうきょう)

 鼉龍鏡について、梅原末治氏は「四面の古鏡中最も見る可きものなり」と書いています。「鼉龍鏡:仿製鏡(=倭鏡)の一種。だというのは、わにの一種であるといわれている。首の長い獣形が、半肉彫りに表され、その頸部に棒状のものが出ている。獣と獣の間に神像を配したものもある。山口県柳井市の茶臼山古墳から直径44.5cmの大型のものが出土している」(ブリタニカ国際百科事典)。また「鼉」は「形は蜥蝪(せきえき=トカゲ)に似るとも、龍に似るともいわれる。また横に飛ぶが、上に謄(のぼ)ることはできないともいう。その声は恐ろしくて、気を吐いて雲をつくり、雨をもたらすともいう。」(樋口隆康『古鏡』新潮社)と説明されています。しかし『日本歴史大事典』には「鼉龍とは鰐(わに)の一種をさすが、本鏡の文様とは直接の関係がない。」とあり、なぜ鼉龍鏡という名が付けられたのかはよくわかりません。
 この鏡は「独創的な図像」で「文様の精緻なことと共に古墳時代の仿製鏡の製作技術の高さを示す鏡の一つ」(『日本歴史大事典』)とされています。残念なことに東車塚古墳出土の鼉龍鏡は「現物なし」と報告されています(注15)。なお、鏡名の最初にある「半円方形」というのは鏡の内区に棒をくわえる怪獣がおり、次に半円方形帯があるのでその名が付けられています。
 次回は「石不動古墳出土の鏡について」考えてみたいと思います。 
(つづく)

(注1)『八幡遺跡地図』,八幡市教育委員会,2005
(注2)梅原末治『久津川古墳研究』, 水木十五堂, 1920
(注3)佐藤虎雄「東車塚庭園」『京都府史跡名勝天然記念物調査報告第十三冊』,京都府,1932
(注4)「古く用いられた直刀(ちょくとう)を『大刀』と表記し、平安時代以後のものを『太刀』と書く」(広辞苑)。つまり「大刀」には日本刀のような「そり」がありません。
(注5)松木武彦『人はなぜ戦うのか』,講談社選書メチエ,2001
(注6)三角縁神獣鏡と甲冑が共存する7古墳は室宮山古墳・池ノ内5号墳・円照寺墓山古墳、八幡東車塚古墳・久津川車塚古墳・芝ヶ原11号墳・和泉黄金塚古墳。(注7)のP64参照。
(注7)田中晋作『筒型銅器と政権交替』,学生社,2009
(注8)福永伸哉『三角縁神獣鏡の研究』,大阪大学出版会,2005
(注9)松本清張「三角縁神獣鏡への懐疑」『遊古疑考』,河出文庫,2007
(注10)岡村秀典「後漢鏡の編年」『国立歴史民俗博物館研究報告第55集』,1993
(注11)大塚初重『最新日本考古学用語辞典』,柏書房,1996
(注12)森岡秀人「銅鏡を作り始めた近畿弥生人の捜索」講義ノート,古代学協会,2017
(注13)西川寿勝ら「考古学と暦年代」,ミネルヴァ書房,2003
(注14)西川寿勝「三角縁神獣鏡の研究」,古代学協会佛教大学提携講座,2017
(注15)『国立歴史民俗博物館研究報告第56集』,1994 



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by y-rekitan | 2017-07-24 10:00
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