◆会報第80号より-06 踏切道

消えた踏切道を思う

野間口 秀國 (会員)


 朝夕の散歩道を歩いている時や、いつもの道で車を運転している時に、「あれ??」と思った経験をお持ちの方は少なからずおられるのではないでしょうか。「いつもと何か違うな」そう思って改めて確認すると、つい最近まであったお店や建物や道が無くなったり、新しくなっていたりと、その変化に気づくことがあります。いつもお世話になっている京阪電車の橋本駅近く、淀屋橋方面に3つあった踏切道のうち最も淀屋橋側の1つがこの3月末に消えてしまいましたのでそのことを記しておきたいと思います。

 拙稿「大谷川散策余話⑫」(会報「八幡の歴史を探る 第49号」2014年4月28日刊)にて、“平成26年(2014)4月10日時点で橋本樋門と小金川樋門近辺で京阪電車の線路と大谷川を一跨ぎする新しい道路橋工事の真只中である”と書き、引き続き翌月の「同第50号」にて“樋門の隣で眠る洪水の足跡”の写真も掲載させていただきました。それから3年を経過して周辺の様子はかなり変わって、同じ場所に立っても当時の様子を正確には思い起こせないほどです。今でも周辺工事は続いておりこの秋ごろまでかかるようですが、前述の「線路と川を一跨ぎする新しい橋」は既に完成して供用され、踏切道もその役目を終えて消えてしまったのです。
f0300125_20552893.jpg 歴史上の出来事などを語る時に「文字や図面などで記されたモノ(文書や地図など)」が最重要視されることは多くの方々に知られておりますが、今年6月の京都新聞の報道だけでも、国内関連では「龍馬最長の手紙あった」(16日・夕刊)、「戊辰の目安箱訴状」(9日、16日)、「東寺百合秘話」(23日)など、また国外関連では「世界最古のシリア古文書・オーロラ観察記」(16日)など枚挙にいとまがありません。
 このように新聞等の報道で取り上げられる事柄と同列に論じられないとは思いますが、橋本の町中に今でも残る「橋本の渡し場道標碑」のある場所の道を挟んだおうちの壁には、かつての町の賑わいを描くかのごとく、お店などが描かれた地図を確認できます。歳月を経て読みづらくなった文字を追うと、先に書きました橋の工事が始まってからこれまでにも、お風呂屋さんが、お医者さんが、そして理髪店さんが店を閉じられました。三店のいずれも地図にはその名は残されたままですが、いずれは町の歴史を物語るこの地図さえも消えてしまうのだろうと思うと複雑な気持ちにはなります。

 ところで、役目を終えた踏切道のことについてもう少し書いてみたいと思います。ご存知のように京阪電車は明治43(1910)年4月に天満橋・京都五条間が開通いたしましたので、既に100年以上を経過しています。開通後42年目の昭和27(1952)年3月にこの「小金川踏切道」は新設されていますので、鉄道を横切る道路がこの年に開通したのであろうことも分ります。幾多の列車を初め、歩行者や自動車などの通行の無事を見届けた「小金川踏切道」は、この平成29(2017)年3月末に65年間(ちなみに筆者はこの7月で68歳ですが・・)の役目を終えて閉鎖されました。「小金川踏切道」の役目は新しく完成した、線路上を横切る橋「橋本高架橋(はしもとこうかきょう)」に引き継がれています。またこの高架橋は線路にほぼ並行して流れる大谷川をも跨いでおり、川を跨ぐ部分は「橋本大谷川橋(はしもとおおたにがわばし)」と名付けられ、男山方面から塩釜を経由して走る多くの自動車などを淀川左岸の道路へと導いています。

 工事が始まってからおよそ3年の後に、京都・大阪府境の橋本のはずれで、役目を終えて閉鎖された踏切道のことはおそらく文章で残されて多くの人の目に触れることはないでしょう。だからこそ、せめて歴探の会報にはこの小さなできごとを書き留めておく意味はあるのではないでしょうか。掲載しました写真を撮っていると、踏切道の閉鎖を知らずに来た1台の車がその場でターンして新しい橋へ向かうのにも気づきました。 最後に「小金川踏切道」の歴史についてご教示いただきました京阪電鉄のご担当者の方には紙面より感謝申し上げます。
(2017.6.30)--
                             
by y-rekitan | 2017-07-24 07:00 | Comments(0)
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