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◆会報第82号より-04 三宅碑⑨

《続》 2016年1月度の講演会より

『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出
その9

―松花堂・東高野街道・天皇聖蹟・綴喜郡―

中村 武生  (京都女子大学、天理大学非常勤講師)


(二)建設地選択に影響された文献

 次に西村芳次郎の建碑地選択基準は何であったかを検討します。まず参考としたと思われる主たる文献を二点指摘できます。
 1つ目は、1908年刊行の『山城綴喜郡誌』です。その「第六編名趾城堡」及び「第一〇編古墳」「第一一編伝説」で取り上げられた項目を列挙してみましょう(表3)。これと表1(※)および表2(※)と比べて見ますと、類似の項目が多く含まれていることが気づかれます。(※)表1及び表2は会報79号の「その8」に掲載)
表3『山城綴喜郡誌』 第六編名趾城堡、
第一〇編古墳、第一一編伝説、項目一覧

第六編 名趾城堡

 第一章 名所
1.雄徳山(又男山云ふ)、2.鳩嶺附狩尾山、3.石清水、4.香爐峯馬場、5.月弓岡、6.細橋、7.猪鼻坂、8.大阪自字平谷相槌稲荷社至本宮坂路也、9.放生川在頓宮東、10.かへらずの橋、11.伏拝松、12.夫婦石、13.七井、14.筒城野(又曰筒城之原)、15.筒城岡、16.玉川、17.山吹山、18.青谷梅林

 第二章 旧蹟
19.護国寺、20.宝塔院、21.大塔、22.愛染明王堂、23.開山堂、24.太子堂、25.瀧本坊附松花堂、26.山の井、27.絹屋殿趾、28.高良社、29.極楽寺、30.神宮寺、31.高橋、32.安居橋、33.橋本津及橋、34.意足軒、35.塩竃跡、36.足立寺、37.降宮跡、38.筒城都跡、39.玉の井頓宮、40.蛙冢、41.下紐、42.駒岩、43.玉の井、44.岩橋、45.井手山、46.推尾山観音寺、47.御栗山、48.御邸(大院馬場小院馬場)字高尾に在り、49.温泉趾、50.石童山、51.禅定寺峠関所趾、52.医王教寺旧蹟、53.行在所、

 第三章 城趾
54.内山城、55.天王山城、56.井出城、57.城山、58.山口城、59.岩本城、60.橋本陣屋

 第四章 古戦場
61.如法経塚、62.佐羅科、63.洞ヶ峠、64.狐川の陣、65.八幡山上山下の陣及び八幡宮炎上の事、66.梨間の宿

第一〇編 古墳

67.大石塔、68.大河内秀元之墓、69.車塚、70.上臈墓、71.桃井塚(或曰経塚)、72.小野杜冢、73.一休禅師廟、74.佐河田壺斎黙々叟墓、75.三村五郎墓、76.穴山梅雪之墓、77.近衛基通公憤、78.橘諸兄公憤、79.小野小町憤、80.田原又太郎忠綱墓、81.信西入道之墓、82.莵皇子憤、83.曽保利曾々保利の旧蹟(椀子の王墳、桜井王の墳、上殖葉皇子墳神前王女墳、神魂の丘、酒屋連墳、仲皇子墳、姫皇女墳―中村武生注)、84.美努王墳、85.美濃局憤、86.長谷川肥前守橘清福墓、87.下岡正康及同正詮の墓

第一一編 伝説

88.小えのゝ池(井手村)、89.玉水(井手村)、90.蛙、91.中道、92.下露の跡、93.玉井山荘(井手村)、94.高坊、95.男山中絶末社、96.新勝院、97.任覚坊、98.財園院、99.山瀧寺、100.弘法寺、101.相楽別業、102.井隄寺、103.虚空蔵堂、104.多賀城趾、105.浅井城趾、106.田原天皇祠、107.諸兄公山荘(井手村)、108.大光明寺、109.于貫岩、110.腰掛名号、111.美女石、112.神輿流失、113.艮の鬼門坤の鬼門、114.さじか谷の里謡、115.竹の由来、116.楠及び鳩の由来

 それはたんに項目名だけではありません。西村の著作の解説文(八幡史蹟名勝記ほか)の内容も、『山城綴喜郡誌』のそれとほぼ同一か、一部を抄出したにすぎません。例えば「大河内秀元墓」についての『山城綴喜郡誌』と西村執筆の「八幡史蹟名勝誌」の記載内容を比較してみます。

A『山城綴喜郡誌』(三六八頁)
 大河内秀元之墓
八幡町大字八幡荘鎮西派浄土宗正福寺内に在り、碑銘に云、興龍院前光録性成也、大居士 寛文六年七月二十日卒 云々とあり。
伝云、大河内茂右衛門尉秀元源三位頼政卿十九世之孫也父善兵衛尉政綱母大久保忠世妹慶長二年朝鮮之役太田飛騨守に属して南原城攻の先登し城将慶州判官を斬り、而して蔚山籠城に功あり、元和元年大阪の役に、井伊家の先鉾となり、城兵を若江に破り、河崎和泉守を斬りて、其従騎二人を擒にす、其後彦根を去て、山城八幡に住し、近衛関白信尋公の執奏を辱ふして、従五位下大膳太夫に任せりと云ふ。(傍線―中村)

B西村芳次郎「八幡史蹟名勝誌」
大河内秀元墓 正福寺
(略)一墳墓 大阪城元和役井伊侯ノ先鉾トナリ功アリ、其后井伊家去リ八幡ニ住シ近衛鷹山公ヲ執奏ヲ辱ヲシ従五位下大膳太夫トナリ。寛文六年七月没ス。是大河内秀元ナリ。此所埋ム。

 一見して「八幡史蹟名勝誌」の記載が、『山城綴喜郡誌』のそれの抄文であると理解できるでしょう。三宅碑建立地選択に『山城綴喜郡誌』の情報は大きく影響したといえます。
 なお八幡地域の地誌としては、嘉永元年春(1848年)成立の長浜尚次『男山考古録』を無視できません。『山城綴喜郡誌』にも一部が引用されていますし、芳次郎も目にしていました。ただし刊行されたのは昭和戦後で、芳次郎の没後です。おそらく写本などを入手していたのではないでしょうか。しかしその内容については頗る不満であったようで、自身の著作のなかで多く辛辣な批判をしています。それゆえ存在を意識していたことは確実ですが、建碑地選択の直接の根拠にはならなかったと判断されます。
 2つ目は『京都府史蹟勝地調査会報告』(のち『京都府史蹟名勝天然紀念物調査報告』)全20冊です。同書に取り上げられた史蹟・名勝のうち、20件に三宅碑が建立されています(表4)。

表4『京都府史蹟勝地調査会報告』(『京都府史蹟名勝天然紀念物調査報告』)の論文のうち三宅碑建立地と関連すると思われるもの。
執筆者の略称は以下。梅原末治〈梅〉、魚澄惣五郎〈魚〉、西田直二郎〈西〉、
中村直勝〈中〉、佐藤虎雄〈佐〉。

第1冊(1919年)
 八幡町西車塚〈梅〉、泉橋寺〈梅〉、高麗寺址〈梅〉

第2冊(1920年)
 美濃山ノ古墳〈梅〉、飯ノ岡ノ古墳〈梅〉

第3冊(1922年)
 淀城址〈魚〉、神童寺〈魚〉

第4冊(1923年)
 井手寺址〈梅〉、銭司ノ遺跡〈梅〉、瓶原国分寺址〈梅〉、綴喜郡八幡町
 茶臼山古墳〈梅〉

第6冊(1925年)
 法勝寺ノ遺址〈西〉

第8冊(1927年)
 禅定寺〈中〉

第10冊(1929年)
 美濃山の横穴〈佐〉

第11冊(1930年)
 笠置山の史蹟及び名勝〈佐〉、法華寺野の遺蹟〈佐〉

第12冊(1931年)
 朱智神社〈佐〉

第13冊(1932年)
 東車塚庭園〈佐〉、山瀧寺遺蹟〈佐〉

第19冊(1939年)
 高麗寺阯の調査〈梅〉

 同書は1917年7月創立の京都府史蹟勝地調査会の調査成果で、京都帝国大学国史学教室及び考古学教室の教員・教室員等によって執筆されています。芳次郎が同大学国史学・考古学両教室関係者と親しく関わっていたことはすでに述べました。城南の三宅碑の建立地として実に玄人跣な場所が選ばれているのは、この書、もしくはこれに関わった京都帝大両教室関係者からの情報に依拠しているからでしょう。
 ただし三宅清治郎が主に建碑を行った、京都市およびその近接地域では、同書の同地域の旧蹟地がほとんど選ばれていないことは注意を要します。例えば同書は聚楽城(聚楽第)跡、西寺跡、洛中惣構土居堀(「御土居」)、山科本願寺跡、等持寺跡、船岡山城跡などを取り上げています。聚楽城跡や洛中惣構土居堀には京都市教育会が1915年11月などに建碑しているため別にしても(拙著『京都の江戸時代をあるく』)、その他の旧蹟には当時全く建碑されていませんでした。建碑の意味はあったはずです。それにもかかわらず実現していないのは、三宅清治郎の身近には京都帝国大学の国史学や考古学関係者がなく、〈史蹟〉への建碑意識がもちにくかったことがうかがわれます。
 なお建碑地と密接に関わると思われる『京都府史蹟名勝天然紀念物調査報告』所収論文の多くは、佐藤虎雄執筆によるものであることを指摘しておきます。そのなかには芳次郎邸である「東車塚庭園」が含まれているほか、佐藤はのち芳次郎の負債にともない同所が差し押さえられた際、仮史蹟に指定し消失の危険を回避した京都府の旧蹟保存の実務担当者でした。これは後述します。

(三)道標

 ではこの2著などを参考に、建立地としていったい何が選ばれたのか、その対象及び場所の特徴を検討します。
◆会報第82号より-04 三宅碑⑨_f0300125_13103045.jpg まず当時存在していた寺社とは直接には無縁の紀念物(史蹟)への建碑が多くなされています。前述しましたように芳次郎が建碑にかかわる1926年以前には、古墳、古戦場、廃寺跡などへの建碑はほとんどなく、大半が当時存在していた寺社やそれに付属するものに建碑されていました。例えば「名古曾の滝」は大覚寺に付属したものです。一般に三宅碑イコール史蹟碑という印象があるかと思います。これまで当然のことのように三宅安兵衛もしくは清治郎が建立地の選択も行ったと理解されてきました。しかし実は大半は三宅父子ではなく、西村芳次郎の選択であったのです。
 ただそれらの碑に全く清治郎の意向が反映されていないわけではありません。例えば多くの史蹟碑に道標的文言が加味されている点は無視できません。たとえば「宇智王子故宮址」の場合(表2、105)、下部に割注のように小さい文字で「王塚八丁」と併記されています。また「水月庵」など規模の大きな碑なら、側面に「向て右、北八幡宮本社十丁、西幣原水月庵八丁/招提十八丁、枚方二里」などと刻まれています。清治郎の主導が確実な石碑の大半が、道標として建立されていたことを思い出してください。表1をご覧下さると「道」や「分岐点」などに多く建碑されていることが指摘できます。清治郎にとって当該事業は先祖供養のためでした。城南の史蹟碑に道標的文言が併記されるのは偶然ではないでしょう。西村の建碑地選択にあたって、原則として道標的文言を刻むよう清治郎が指示した可能性は高いと思います。

(四)天皇聖蹟

(1)宮都跡
 紀念物のなかでもいわゆる天皇聖蹟が多いです。例えば「神武帝旧跡祝園神社是十町」、「崇神帝十年役武埴安彦被斬旧跡」、「崇神帝十年役挑川故蹟」、「天武天皇故址」、「後醍醐天皇旧蹟是東一里半田村新田」、「恭仁宮大極殿阯」(聖武天皇)、「継体天皇皇居故趾」(筒城宮跡)、「樟葉宮跡」(継体天皇)、「水無瀬神宮」(後鳥羽天皇)などです。「仁徳天皇皇后磐之姫古蹟」「宇智王子故宮址」「宇智王子陵墓」「施基皇子故址」「田原天皇旧蹟」「高倉宮以仁王旧蹟」など后、皇子に関するものも含めてよいかもしれません。
 その大半が1928年以後に集中して建設されていることに注目します。というのは、この時期、史蹟名勝保護・顕彰に関する国の方針が、天皇聖蹟を第一に推進することを方針としているからです。それが周知されるのはその管轄が内務省から文部省へ移管する一九二八年で、三宅碑が天皇聖蹟を建設する時期と全く一致します。しかも文部省は、天皇聖蹟のなかでも宮都跡の保存・顕彰を最重要に挙げていますが、前記のように、三宅碑も城南に所在した宮都跡・離宮跡伝承地などの大半に建てられています。
 その意味で興味深いのは継体天皇の樟葉宮跡及び後鳥羽上皇の水無瀬神宮への建碑です。樟葉宮跡は「日本書紀」によると同天皇即位の地で、水無瀬神宮は後鳥羽上皇の水無瀬殿の故地に明治時代に創建したものです。いわば都城跡に準ずるものといえます。ところが両所とも京都府下ではなく、大阪府内に位置するのです。現枚方市及び現三島郡島本町です。周知のように、三宅碑は「京都の公利公益に役立てよ」という亡父安兵衛の遺言に従っています。亡父の遺言の履行期間の建碑(1921年~1929年上半期)でも、例えば現福井県小浜市や現滋賀県甲賀郡甲西町など、京都府以外に建碑する場合は、「安兵衛遺志」と刻まず、「清治郎建之」と自らの名で建碑しています。水無瀬神宮の碑は未確認のため亡父の名を刻んだか不明ですが、とはいえ『木の下蔭』所収「建碑箇所一覧」に掲載されているため、「安兵衛遺志」と刻まれていた可能性はきわめて高いと思います。確認できた福井県小浜市の碑など「三宅清治郎建之」と刻まれた碑は、例外なく「建碑箇所一覧」には列記されていません。ところが「樟葉宮蹟」は京都府に位置しないにもかかわらず、亡父の名を刻んでいます。天皇聖蹟には〈京都〉に建碑という原則を無視するのである。両所を選択したのは芳次郎であろうが、清治郎もこれを承認していることは注目してよい。が、清治郎の思いは別にして、芳次郎には、原則を無視してでも樟葉宮跡に建碑しなければならない理由がありました。それについては後述します。

(2)後村上天皇聖蹟
◆会報第82号より-04 三宅碑⑨_f0300125_12313081.jpg芳次郎の住む八幡は、「太平記」によると、南北朝期の正平七年(文和元、一三五二)、正平一統のおりに南朝の後村上天皇が皇居とした地です。ここでは合戦も行われたらしく、その戦蹟に関する三宅碑が多い。ただどういうわけか、村上天皇皇居跡そのものを示す建碑が行われませんでした。「俊馬」碑なるものさえ存在するにもかかわらずです。これについても後述します。
(つづく)


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by y-rekitan | 2017-11-27 09:00
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