人気ブログランキング | 話題のタグを見る

◆会報第82号より-05 石清水祭

勅祭・石清水祭に学ぶ

野間口 秀國(会員)


 私たちの住む八幡市にても季節を通して大小数多くの祭りや行事が催されていますが、それらの全てを知り、直接見たり参加したりすることは容易では無いのが実情ではないでしょうか。「勅祭・石清水祭」もその一つでした。五年前に一度、深夜に御鳳輦(ごほうれん)が八幡宮山上から頓宮へ降られるご遷座の行列を見学し、引き続き放生川(現在の大谷川の一部で、男山考古録(*2)に、 ・・上ハ飼屋橋より、下ハ禅昌寺前の石橋まで・・ とある)で執り行われた放生会の諸次第も見学いたし、とても興味を持っておりました。そんな中、この秋に幸いにも、石清水八幡宮で年間百余り斎行される祭典の中で、最も重要な祭典である「勅祭・石清水祭」(*1)の斎行に初めて参加できる機会をいただきました。本号では、そこでの体験談と学びを書いてみたいと思います。

 九月十五日未明から夜にかけて執り行われる「勅祭・石清水祭」に先立ち、同十二日午後二時半から石清水八幡宮の山上にある体育館で「ご奉仕のご案内」と題する説明会があり参加いたしました。小雨模様の中、開始時刻より少し早めに会場に入ると、体育館の広い床にはそれぞれの役割に対応した装束や履物などが大小おおよそ100ブロックほどに別けられ準備されており、係の方々が必要なものの確認や補充などをされておりました。参加できることへの緊張感が改めて感じられたひと時でした。定刻になると石清水八幡宮のご担当権禰宜様よりご挨拶をいただき、引き続いて祭りの意義や心構え、肌着は白色で首周りはV首もしくはU首のものなど、身に着ける衣服などの具体的な説明を受けました。

 その後、指定された所定のブロックに移り、参加する所属団体の係の人(先達)より当日のご奉仕概要やタイムスケジュールなど具体的な事項の説明がなされ、引き続き装束の説明とそれらの着付けの練習に入りました。◆会報第82号より-05 石清水祭_f0300125_10442726.jpgなにしろ初めてのことゆえ、指導していただく方に従って衣装を身にまとうことに集中しました。肌着の上に、先ず白衣(はくい)を身に着け、白い袴(はかま)をはき、黄色の衣装・黄衣(おうえ)をまとい、白足袋(しろたび)をはき、草鞋(わらじ)をはいて、最後に烏帽子(えぼし)をかぶります。上半身、下半身の装束はその殆どがフリーサイズで、特に袴は最下部にある紐を使って身の丈に合せられるように工夫されておりました。このことは、この夏、とある演奏会会場にて有名な和楽器奏者の説明されたことがとても役立ちました。こうして身に着けたすべての装束を脱いで元のようにたたみ、着付けの練習は終わりました。最後に開催当日の細かなスケジュールを再度確認の後、参加者用の駐車券や石清水祭用ケーブル臨時運転時刻表などをいただき午後四時頃に説明会は終わりました。

 ここで石清水祭について少し記したいと思います。石清水祭の起源は、清和天皇の貞観五年(八六三)旧暦八月十五日、宇佐宮の放生会に倣って始められた石清水放生会に遡るとされています。これは、そもそも諸々の霊を慰め供養するため、男山の裾を流れる放生川のほとりで生ける魚鳥を解き放つ法会を催してほしい、との八幡大神ご自身の願い(神願=じんがん)に基づくものでした。また、石清水祭は勅祭であり、天皇陛下の御使いである勅使が参向され、天皇陛下からのお供え物を奉献される祭典で、八万社ある神社の中でもこの勅祭が斎行される神社「勅祭社」は十六社しかありません(*1)。

 さて当日(九月十五日)は、真夜中、午前零時半までに前述の体育館に集合することになっておりましたので、遅れることなく日付の替わる頃には出向きました。十二日の練習どおり、全ての装束を順番に身に着けると不思議と緊張感が高まりました。ご奉仕の途中で緩むことがないようにと草鞋の紐は特にしっかりと締めました。当日私に与えられた役割は「御綱曳神人(みつなひきじにん)」であり、「黄衣を身に着けて各御鳳輦の前後に結びつけられた朱綱で参道の昇降を佐ける」ことでありました。今回参加して、石清水祭は思いの外祭りの次第が多く、実際には十四日の夕刻から十六日の午前中まで、足掛け三日にわたる行事であることも初めて解りました。装束を整えてから待つこと二時間近く、午前二時に「神幸の儀」が始まるまでの時間は、短くも、また長くも感じられました。私たちも御神霊のご移動に用いられる御鳳輦(ごほうれん)の近くへと移動して、午前三時ごろいよいよ「御鳳輦発御(ごほうれんはつぎょ)」を迎えます。三基の御鳳輦を中心に約五百名の神職・楽人、また神人と呼ばれるお供の行列が松明や提灯の灯りだけを頼りに山上の御本殿から山麓の頓宮へと向かいます。

 この時間帯にはさすがにほとんどの物音は聞こえませんでした。本殿から参道を提灯の灯りを頼りに降りることは容易なことでは無く、滑ったりしないように、油断なく一歩一歩と歩みをそろえて足で探るように進んでゆきました。おそらく四~五十分ほど経過したでしょうか、行列は麓の絹屋殿(きぬやでん:六本の掘立柱に支えられ、四方に白絹を張り廻らした臨時の建物)に到着します。ここでは里神楽(さとかぐら)の奉奏などがあり御神霊が奉迎されます。その後、「頓宮神幸の儀」に移り御鳳輦が頓宮殿に入御されます。ここで私たちの前段の役目が終わり、少し緊張が解けるのが分かりました。そのまま車を停めてある駐車場へと向かい一旦帰宅しましたが、祭りは御鳳輦の入御の後にも多くの次第が執り行われ、◆会報第82号より-05 石清水祭_f0300125_10522149.jpg午前八時すぎには放生行事がありました。これは前述のとおり宇佐宮の放生会に倣って貞観五年(八六三)に始まるといわれ、生類の殺生を慎み、捕らわれた魚鳥を山川に解き放つ善行が尊ばれて多くの人々が奉仕されます。安居橋で奉納された胡蝶の舞いも翌日の新聞にて報じられております(*4)。

 さて、夕刻(十七時)より執り行われる「還行の儀(かんこうのぎ)」に遅れることなく、再び頓宮へと集合いたしました。この儀式は十八時三十分頃の「御鳳輦発御(ごほうれんはつぎょ)」まで頓宮の内側にて執り行われました。この儀式のあいだ、浅葱幕(あさぎまく:薄い水色の地に白の矩形のある布)で覆われた頓宮の頓宮殿裏あたりで発御を待ちました。この間、私たち御綱曳神人とは異なる役目で行列を構成する、他の役目の人達の装束・用具・提灯などを直に目にすることができたことは貴重な時間でした。ところで、この行列の構成や順番は「八幡宮寺年中讃記 下」(*3)の項にとても詳しく書かれていることが解りました。八月十五日に行われるこの行事名をはじめ、御輿次第の項には、御綱引二十人、前左五人、右五人、後左五人、右五人とあり、これらは三基の鳳輦すべてに共通の内容でした。私の担当は次三御輿(三番目の御輿)の引手二十人の一人であり、位置は後右五人に該当していたことが理解できました。着衣に関しても、役割毎に記されてあり、とても興味ある内容でした。同時に、本稿冒頭の「ご奉仕のご案内」の個所にて「およそ100ブロックほどに区分して準備されており・・・」と書きましたが、これらの準備や管理がいかに大変なことであるかを改めて理解でき、お世話いただいた方々に感謝の念で一杯でした。

 「御鳳輦発御(ごほうれんはつぎょ)」は暗くなるのを待つようにして十八時三十分頃から開始されました。暗くなった参道を提灯の灯りを頼りに気を引き締め、御鳳輦に従って山上の本殿へと向かい、無事に著御(ちゃくぎょ)がなされると役目を終えることができました。文中で何回か使いました「御鳳輦」は、石清水祭における御神霊のご遷座(ご移動)が「御神輿」ではなく「御鳳輦」といわれるためであり、前号での「御輿」とは呼称が異なることや、直前の文章中にある「著御(ちゃくぎょ)」の表現なども「着」と「著」の独特の使い分けの用例であることも学びました。

 このような貴重な体験の一カ月後、10月15日には「森本家文書からみた近世石清水の神人構成と身分」と題する当会主催の竹中友里代氏をお招きしての講演(*5)を聴講する機会がありました。その講演にて話された、年中行事における神人招請の目的の成文(なしぶみ)と呼ばれる「補任状」が、現在でも石清水祭にて石清水八幡宮の印が押されて公布されていることも後日学ぶことができました。「動く古典」といわれる斎行の体験とその後の講演の聴講は、神人と石清水祭のこと、そして石清水八幡宮の活動に関する理解がさらに深まるものでした。本稿をまとめるにあたり色々ご教示いただきました石清水八幡宮の関係者の皆様に紙面より感謝申し上げます。
(2017.11.02記)一一
 
(*1)『勅祭石清水祭』 石清水八幡宮発行の冊子
(*2)『石清水八幡宮史料叢書一 男山考古録』 第十一巻 藤原尚次著
 石清水八幡宮社務所発行
(*3)『石清水八幡宮史料叢書四 年中神事・服忌・社参』
 石清水八幡宮社務所発行
(*4)京都新聞の2017.9.16付け朝刊記事
(*5)「講演と交流の集い」の配布資料、2017.10.15 八幡市文化ホールにて開催
講師:竹中友里代氏

 
 
by y-rekitan | 2017-11-27 07:00
<< ◆会報第82号より-04 三宅碑⑨ ◆会報第82号より-06 文化祭発表 >>