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◆会報第83号より-02 八幡古寺巡礼5

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《歴探ウォーク》
八幡の古寺巡礼
―第5回:男山南部の寺を巡る―  

2017年12月 八幡市内 にて
高田 昌史 (会員)

 今年の八幡の古寺巡礼は「男山南部の寺を巡る」として、12月7日に第5回目を実施しました。
当日は晴天に恵まれ39名の方の参加がありました。その概要を報告します。

第5回古寺巡礼コース

◆会報第83号より-02 八幡古寺巡礼5_f0300125_9181325.png 例年の集合場所は八幡市駅前でしたが、今年は松花堂庭園前の昭乗広場でした。受付後に、配布の「しおり」によるコースの概要説明と移動時の注意事項をお話してから出発しました。
 左図にコース図を示しましたが、今年の巡礼のコースは昭乗広場から南方向の2寺を巡ります。
 今回の全歩行距離は約4kmで、途中は35m程度アップダウンがあります。移動中は先頭と最後尾の担当幹事が会旗を持ち交通安全に注意しながら、最初の訪問先の宝青庵に向かいました。


1.宝青庵

 昭乗広場を出発してから、10分足らずで宝青庵に到着です。◆会報第83号より-02 八幡古寺巡礼5_f0300125_933233.png入口の冠木門前の右側には「小野篁(おののたかむら)作 十王像 閻魔堂」、左側には「歌人吉井勇先生寓居の地」の石碑があります。
 宝靑庵に入ると手入れが行きとどいた苔のきれいな庭園があります。また、別名 “もみじ寺”とも呼ばれているだけあり、時期遅れでしたが紅葉もきれいでした。その奥に「お堂」があります。
 宝青庵は男山考古録(※1)には江戸時代の浄土宗36寺として紹介されています。また、宝青庵を管理されておられる西村安子様からは、もとは大阪の油問屋の隠居所として建てられたとお伺いしました。
 御本尊の阿弥陀仏は江戸時代後期まで八幡馬場ありましたが、この地に移されてお堂に祀られています。
 3班に別れて順番にお堂に入り、ご本尊と十王像(十三仏)を拝観しました。またご本尊右側の灯籠台座部に「城南八幡万称寺」の刻印があることから、この灯籠はお堂の後方にあって明治5年(1872)に廃寺になった万称寺から移されたものであることが確認できました。(万称寺については「会報第60号2015年3月―墓石をたどる⑧」記事で紹介されています。)(※2)
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 お堂左面の2段棚に十王像(十三仏)が置かれています。十王は冥土で死者を裁くという王様のことで初七日の秦広王(しんこうおう)から三回忌の五道転輪王(ごどうてんりんおう)まで死者を審判する10人の裁判官のことです。十三仏(じゅうさんぶつ)は、十王をもとにして、江戸時代になってから、七回忌、十三回忌、三十三回忌の3裁判官を日本で考えたそうです。
 また、本庵は〝放浪の歌人〟吉井勇が寓居(ぐうきょ)していたことでも知られています。昭和20年10月、勇は戦時中の疎開先であった富山県八尾から夫人孝子とともに移り住み、3年近くを八幡で過ごした。この間に作詞した「山城音頭」(現八幡音頭)は、八幡の風情を存分に歌いあげています。同庵付近の地名「男山吉井」は彼にちなんで付されたものです。
 お堂の拝観が終了後、西村安子様にお礼を申し上げてから、次の訪問寺の水月寺に向かいました。

2.水月寺(臨済宗)

 水月寺までは距離があり、しかも途中はアップダウンもありましたが、予定よりも早く着きました。◆会報第83号より-02 八幡古寺巡礼5_f0300125_9431967.png山門前で概要を説明してから本堂に上がらせていただきました。
 水月寺は由緒が書かれた山門前の石碑によると、元は阿弥陀堂と称し、天明初年(1781年)のころ、越前(現・福井県)から霊宗尼が二人の弟子とともにこの地にやって来て、近くにある円福寺の住職、海門禅師について修行。やがて、尼僧の禅道場を開き、これが全国に流布したことで、全盛時には50~60人もの雲水が修行されていたが、円福寺に近いので尼僧道場に相応しくないとの事で、尼僧の修行道場は京都・一乗寺の円光寺へと移され、水月寺はその役割に終止符が打たれました。先代までは尼僧が住職を務める尼寺でしたが、現住職は男性です。
◆会報第83号より-02 八幡古寺巡礼5_f0300125_9473493.png 本堂では椅子を準備していただき椅子に座り林拓龍住職の法話を拝聴しました。法話前、全員に前住職の林祖観尼の一代記「経よみて」の冊子をいただき恐縮しました。カラー版の立派な冊子で林拓龍住職は挿絵を描かれています。
 法話で水月寺は元は地域の集会場であり、念仏を唱える念仏道場でしたと説明がありました。
 また、水月庵には将軍家茂に降嫁した皇女和宮の深い悩みを慮った側女の一人が、和宮の死後、この庵で出家してその菩提を弔ったというエピソードが残っています。側女が和宮から賜ったという愛用の打掛けが寺宝として保管されていると事前にお聞きし、当日は見せていただく約束でしたが、見当たらないので心配していました。しかし、法話でその打掛けは屏風にされており、現物は祭壇の前に出されている屏風であるとの説明がありましたので、法話の後でじっくり拝見しました。◆会報第83号より-02 八幡古寺巡礼5_f0300125_955574.png
 ご法話の後半では、和宮の許嫁だった有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が、幼小の明治天皇とご一緒に水月寺に来られ、その時使われた御櫃(おひつ)があると伝えられています。その御縁で明治天皇の供養が行われています。それに、水月寺の寺紋として菊の御紋を賜っています。
 法話が終わり本堂を退出し、水月寺のお庭を通り円福寺までは林住職がわざわざ案内していただくことになり出発しました。

3.水月寺~円福寺

 竹林の中の切通し道を抜けると墓地があります。その墓地に南山焼の創始者の「浅井周斎」と明治の末に南山焼を再興した「帯山与兵衛」の墓があり、以前にその墓石を調査された会員の谷村勉氏にその場所に案内していただきました。(「シリーズ墓石をたどる⑥浅井周斎の墓石について」会報51号2016年6月参照)(※3)
 各ポイントでは林住職の説明をお聞きして円福寺に向かいました。◆会報第83号より-02 八幡古寺巡礼5_f0300125_105441.png
 円福寺の手前で「達磨堂円福寺の栞」と「萬人講の案内」を配布していただきました。最初に見える円福寺境内の建物が先ほど法話で説明された有栖川宮家の東京別邸から移築された建物(有栖川宮旧御殿)であると教えていただきました。円福寺山門に近づくと、現在、円福寺修行僧は大接心(おおぜっしん)(※4)◆会報第83号より-02 八幡古寺巡礼5_f0300125_1085365.pngの最中なので修行の邪魔にならないように「静かに!」との注意がありました。「江湖道場」の扁額が掲げられている山門前では、栞を見ながら境内の中を窺ってから円福寺を後にしました。洞ヶ峠と出発地の昭乗広場への分岐点で林住職にお礼を申し上げてからお別れして、この場所で解散としました。

3.水月寺~円福寺

 連続5年になる八幡の古寺巡礼」は、お陰様で無事終了しました。
 特に、水月寺の林拓龍住職には、ご法話の終了後にお庭を通り円福寺までご案内していただき大変お世話になり感謝致します。
 今回で八幡の古寺巡礼は5年間で12寺院を巡りました。次年度も「古寺巡礼」を継続開催して、八幡の歴史を探究して行きたいと思います。これからも八幡の古寺に関する情報等がございましたら、お寄せいただきたくお願いします。

(※1)石清水八幡宮叢書1男山考古録 巻第十四「寶青庵」の項目参照
(※2)会報第60号2015年3月「シリーズ」墓石をたどる⑧ 万称寺跡地の常念仏回向記念碑について(谷村勉)
(※3)会報51号2016年6月「シリーズ」墓石をたどる⑥ 浅井周斎の墓石について(谷村勉)
(※4)臨済宗の修行道場である円福寺では、十二月三日より十日の朝まで大接心(おおぜっしん)が行われます。この期間中は、ひたすらに坐禅・修行 をします。このような接心は年に6回行われます。

 
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by y-rekitan | 2018-01-26 11:00
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