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◆会報第83号より-06 三宅碑⑩

《続》 2016年1月度の講演会より

『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出
その10

―松花堂・東高野街道・天皇聖蹟・綴喜郡―

中村 武生  (京都女子大学、天理大学非常勤講師)


(3)明治天皇聖蹟
 八幡は南北朝期だけでなく、幕末期の古戦場でもあります。この付近は戊辰戦争の緒戦、鳥羽伏見戦争の決戦の地です。伏見で敗れた新選組など徳川方が最後に拠った楠葉台場(現大阪府枚方市)が、淀川対岸の梶原台場(現同府高槻市)から砲撃され、そのため戦意を失い徳川勢は、水路大坂城へ敗走します。その後一戦も行われず、前将軍慶喜は江戸へ退去し、西日本は明治新政府の手に落ちました。いわば明治天皇聖蹟です。そのため「戊辰役」を冠した三宅碑が計三基建設されています。「戊辰史蹟念仏寺」(1927年10月、現八幡市)、「戊辰役戦場址」(1928年春、現京都市伏見区)、「戊辰役橋本砲台場跡」(1928年11月、大阪府枚方市楠葉)です。すべて1928年(昭和3)か、その前年秋の建立です。この年の干支は維新から初めての「戊辰」でした。そのため全国的な維新ブームが起きました。それゆえの建碑でしょう。芳次郎が明治戊辰の生まれであったことにも注意すべきでしょう。ちなみに淀小学校にも「天皇御駐輦之趾」碑が建てられています。戊辰戦争後の行幸の地ですが、これも明治天皇聖蹟にちがいありません。
 ここで注目すべきは「橋本砲台場跡」碑です。さきに述べましたように現大阪府枚方市の楠葉台場跡に建てられています(1928年11月)。もちろん誤りです。橋本は京都府綴喜郡域(現八幡市)ですが、楠葉は大阪府交野郡(現枚方市)です。どうしてこのような混乱がおきたのでしょうか。
 馬部隆弘さんは安政5年(1858)に建設された橋本陣屋と混同したためと理解されていますが(『ヒストリア』206号所収論文)、前述の『山城綴喜郡誌』には「名趾城堡」のひとつとして「橋本陣屋」は立項されています。当然のことながら位置は「橋本」とあります(285頁)。『山城綴喜郡誌』を読んでいる西村芳次郎が、樟葉に「橋本砲台場」跡碑を建てるとは思いがたいです。
 真相は不明なのですが、可能性の一つとして指摘しておきます。当該事業の原則は京都府下への建碑です。樟葉は大阪府下であるため、建碑を憚られた。それゆえ至近である京都府下の橋本を冠して三宅清治郎の理解を得ようとしたのではないでしょうか。とはいえ天皇聖蹟として大阪府下に「樟葉宮」(1927年7月)や「水無瀬神宮」(建立年不明)などを建碑した例はあり、これらと同様に天皇聖蹟として理解を求められなかったのだろうかと思わなくはありません。

(五)自邸の由緒の創出

(1)継体天皇の遊宴地
 天皇聖蹟の顕彰は自邸にも及んでいます。少なくとも父井上伊三郎(忠継)時代までに当地は「月の岡」と呼ばれており、転じて「月の岡邸」と名づけられ、芳次郎はそれを刻んだ三宅碑を門前などに建設しています。「月の岡」の由来は、「継体天皇河内国交野郡樟葉にて御即位あって此地にて月見の御宴ありし」こととします。自邸を1400年以前、継体天皇由緒地と位置づけたのです。しかしその根拠は希薄で、地名「月夜田」以外にはありません。『男山考古録』や『山城綴喜郡誌』など先行する地誌にもかかる伝説は見いだすことができません。おそらく芳次郎の創作でしょう。その創作意図の考察は後述いたします。ここで想起されるのは樟葉宮跡の建碑です。同天皇の居所「樟葉宮跡」が碑によって現出され、「月の岡邸」の由緒は説得力をもつという効果が期待されたのではないでしょうか。

(2)「大筒木真若王御墓」と「参考地」
 前述しましたが、芳次郎の邸内には東車塚古墳が存在します。この被葬者を「記紀」伝承上の人物、開化天皇の孫山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)に治定し、それを示す三宅清治郎建立碑を建てています。ちなみにこれは事業終了後の行為のため、亡父安兵衛遺言による建碑の形を取りませんでした。「三宅清治郎建之」とあります。この建碑によって自邸の古墳を「陵墓」と位置づけたのです。現在でも被葬者の特定には墓誌の存在が不可分で、それがない以上、受け入れられることではありませんが、選ばれたのが山代之大筒木真若王であることに注意すべきです。芳次郎は「筒木、筒城、綴喜郡」などの地名がこの人物の名前から取られたものと判断するからです。すなわち自邸は「綴喜郡発祥」所縁の地と位置づけたわけです。なお同邸宅に西接する西車塚古墳にも、山代之大筒木真若王の妻「母泥之阿治佐波毘売(たにわのあじさわびめ)」墓と刻む清治郎建立碑が建てられています。
 あわせて注目すべきは、両碑には濱田青陵(耕作)の揮毫を得ていることです。濱田がこの治定を信じたとは思えません。両碑には「参考地」の文字が付記されているのはこれを意味しています。しかし京都帝国大学考古学教授の揮毫を得る目的として、「山代之大筒木真若王」墓に強い説得力を持たせようとしたと思われます。
 なお「参考地」を付した三宅碑が別に存在することを指摘しておきます。1929年春建立の「甕原(みかのはら)離宮国分尼寺遺阯参考地」です(現木津川市加茂町)。◆会報第83号より-06 三宅碑⑩_f0300125_1021571.jpgこれは三宅碑の存在を初めて広く紹介した岩永蓮代が、同碑に注目するきっかけとなった碑です。このことは最初のあたりでお話ししました。1960年代から80年代にかけて全国の国分寺・国分尼寺跡等の顕彰に尽力した岩永は、地名ていどの根拠しかもたない場所について、開発の危機から守るため自治体の協力をえて「参考地」と刻んだ建立を進めていました(兵庫県姫路市の播磨国分尼寺跡、群馬県前橋市の上野国分尼寺跡など)。そのさなかの1968年12月、訪れた京都府相楽郡加茂町法華寺野(当時)で「甕原離宮国分尼寺遺阯参考地」を確認、「参考地」建碑の先人の存在を知り感銘を受けるのです。碑銘にある建立者「三宅安兵衛」とはいかなる人物であろうかと捜索を開始し、7年後、平安博物館(当時)の大石良材の教示によって遺族と出会うことになります。この経過については岩永の著書『文化財保護ありのまま』に詳しいのですが、岩永は「甕原離宮国分尼寺遺阯参考地」建立の背景についてはふれていません。
 1926年、京都府が実施していた木津・加茂間の府道敷設工事中、法華寺野小字西ノ平の丘陵の桑畑を切り崩したところ、多数の古瓦が出土しました。これを受けて翌1927年7月および1928年1月から4月にかけて、京都帝国大学国史学教室の西田直二郎・佐藤虎雄をはじめとする京都府史蹟勝地調査会委員によって発掘調査が行われました。その結果、あらたな古瓦等が出土したほか、南北延長約55mの「遺壁」が検出されました。この遺構の性格は不詳ですが、佐藤虎雄はその報告「法華寺野の遺跡」に「甕原離宮或は国分尼寺に属するものなるかは将来の研究及び考古学的発掘を待ちて定め」るべきと記し、「此の遺蹟は古代の遺壁に属するものとして保存せられんことを希望する」と結びました。報告書は1930年3月刊行で、建碑以後です。報告書にはその後の建碑についてふれられていませんが、佐藤虎雄と芳次郎の関係を鑑みて無関係であるはずはありません。佐藤らの希望を受けて芳次郎が建碑地として選択したと考えられます。以上により当該碑に「参考地」とある事情は明らかでしょう。検出した「遺壁」は甕原離宮および国分尼寺に関わる可能性があるものの、確かなる根拠を得られなかった。そのため選んだ文言であったといえます。東車塚および西車塚両古墳に建てられた碑に濱田青陵が「参考地」と揮毫したのも同様の意図でしょう。確かなことは不明ですが、八幡の調査等で考古学教室および国史学教室はかなり芳次郎の世話になっています。両古墳を山代之大筒木真若王・母泥之阿治佐波毘売夫妻の墓に治定したい、芳次郎の希望を無碍にできなかった濱田の苦肉の処置だったのではないでしょうか。すなわち「参考地」文言は、安兵衛・清治郎父子はもちろん、芳次郎でもなく、濱田青陵や西田直二郎ら京都帝国大学の研究者によって付されたものと理解します。確実なこととそうでないことの区別を碑文で示そうとしたわけです。
 なお濱田や西田が揮毫したことを刻んだ三宅碑は四基現存していますが、◆会報第83号より-06 三宅碑⑩_f0300125_223042.jpgいずれも宮都や陵墓など天皇・皇族所縁の地であることを指摘しておきます。
 王塚について芳次郎は「宇智王子」の墓という「申伝」があると記しています。「宇智王子」とは大筒木真若王と同じく「記紀」伝承上の人物、味師内宿禰(甘美内宿禰)のことで、孝元天皇の孫(あるいは曾孫)です。武内宿禰の弟にあたります。◆会報第83号より-06 三宅碑⑩_f0300125_10534780.jpg「勅命ニ依リ南山城ヲ開拓シ此ノ所ニ住タマイ南山城ノ祖先タリ、又橘家武内家ノ先祖タリ、今ニ之ノ一族多し」と芳次郎は位置付けています。大筒木真若王とあわせて城南地域の「開拓」者である皇族への建碑を意識していることが分かります。なお井手町の橘諸兄(たちばなのもろえ)所縁の井堤寺跡、寿福寺等への建碑もこれに関わり選択されたのではないでしょうか。
 ちなみに『都名所図会』など近世の地誌のなかには、王塚の被葬者を「宇智王子」ではなく、継体天皇とするものがあることも注意すべきでしょう。継体天皇由緒地に三宅碑が多く建設されていることは前述しましたね。
(つづく) 一一ー




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by y-rekitan | 2018-01-26 06:00
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