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◆会報第84号より-03 古墳と鏡⑧

シリーズ 「八幡の古墳と鏡」・・・⑧


八幡の古墳と鏡(8)


ー八幡茶臼山古墳と石棺せっかんの謎ー


濵田 博道 


はじめに

 八幡茶臼山古墳は1960年代(昭和40年代)からの日本住宅公団による八幡丘陵大規模開発に伴い峰もろとも消滅しました。◆会報第84号より-03 古墳と鏡⑧_f0300125_93738100.jpg現在、古墳のあった場所から約100m東方「男山第三中学校グランド」南東の道端に「茶臼山古墳跡」の石碑(三宅碑)が移築されています。それが古墳のあったことを示す現地での唯一のあかしです。古墳の最初の学術的発掘は1915年に行われました。すでに盗掘されており石棺(=死者を葬るのに用いた石製の施設。現在京都大学文学部に屋外展示。)も穿(うが)たれていました。八幡の他の古墳の副葬品から推察すると鏡も副葬されていたと考えられますが、副葬品はほとんどすべて持ち去られていて、鏡は出土していません。ですから今回の「古墳と鏡」いうテーマには合わないかもしれません。しかし、残されていた石棺は特筆すべきもので、八幡ではこの古墳を抜きに古墳時代は語れないと思いますので、取り上げました。

八幡茶臼山古墳とは

 梅原末治氏は『京都府史蹟勝地調査会報告 第四冊(1923)』の中で、次のように述べています。“この古墳は大正4年(1915年)5月、偶然の機会に発掘、竪穴式石室内に珍らしい石棺があったことで知られている。茶臼山古墳は淀川の南岸にそびえて京都西の要衝を占める男山鳩ケ峯の南方山続きにある。◆会報第84号より-03 古墳と鏡⑧_f0300125_10372764.jpg その位置は鳩ケ峯に接して山勢が著しく狭まったところを切り通して八幡市から枚方市楠葉に通じる道路の南側にある峰の最高部にあたり、標高82.8m(住宅公団調査:88m)を示している。東西は遮るものがない。南は遠く甘南備山に対し山城・摂津・河内の平野を見下ろす形勝の地を占めている。”(要約)。

古墳発掘に到る経過

 古墳は1915年と1965~66年の二回にわたり発掘されています。一回目の発掘のいきさつについて前掲書では、
 “この土地所有者・八幡市字志水の祝井源太郎氏の話によると、もとは塚の頂上に一老松があったが、国の陸地測量部が地形測量を行った際、測地の基点を定める必要があって伐採した。その樹の根が枯れたので薪にしょうと思い、掘り起こそうとしたところ、表面下約1.8mのところで偶然一大平板石を掘り当て、除いたところ、下に一つの大きな石棺があった。それで警察官立合の下、発掘し、天井石を除いて内部に入ったが、室はすでに盗掘に遭い、石棺のような蓋には身体が入るような穴が穿たれており内部には一つも遺物がなかった。棺の東側の土砂中から刀身、石釧等を発見しただけだった。よって石室も棺も原形を保っていない。”(要約)と述べています。

石室の構造

 古墳の主体部は石不動古墳・東車塚古墳・美濃山王塚古墳のような粘土槨と違い、石室でした。八幡では茶臼山古墳と西車塚古墳の二基が竪穴式石室です。茶臼山古墳はこれに加え葺石・埴輪を備えていることから被葬者の格は高かったといえます。この竪穴式石室については、次のように記述されています。
 “方向は山軸の方向と一致。頂部表面から約2mで天井石の部分に達する。天井石は全て取り除かれ、側壁はほとんど破壊せられて原形を残している部分は少なかった。残存部に8cmほどの小丸石を敷いて棺を置き、その周囲に長さ20cm内外の水成岩の小平板石を煉瓦状に積み重ねている。各石の空所には径1.5cm強の白色丸形の河石を加えて、4.3m×2m(他端1.5m)×高さ1.2m余の石室を作り、上部は凝灰岩の天井石4枚で覆って、さらに3cm弱の粘土で包んでいる。壁面及び天井石の内面には朱を塗っている。天井石の内面に朱がやや多量に付着。向日市の妙見山古墳の石室、寺戸大塚前方部発見の小石室と全く同式。同種の石室の例としては大阪府藤井寺市の津堂城山古墳がある。それらの古墳は年代が推定可能なので茶臼山古墳も推定可。天井の板石の一つは長さ1.8m×1m×10.6cm。原位置の順序は不明。”(前掲書要約)。現在、古墳築造年代は4世紀後半と推定されています。1990年頃までは八幡で一番古い古墳という説が有力でしたが、西車塚古墳・ヒル塚古墳の埴輪・副葬品などの研究が進み、現在では複数説あります。しかし古墳時代前期後半の八幡の中では古い古墳であったことは間違いありません。

石棺の形式

 “この石室内の石棺の位置は少し西北に偏り、西壁に接してあった。上部また天井石と非常に接近してその間はわずかに20cm弱。◆会報第84号より-03 古墳と鏡⑧_f0300125_10155100.jpg 棺は凝灰岩で作られ大形。身と蓋との二部から成っており共に一石を彫り抜き作られている。形式は身・蓋共に割竹形に近い。身は290cm×98cm(同他端63.6cm)×高さ54.5cm。内に250cm×70cm(同尾部42cm)×高さ44cmの遺骸を容れる部分を穿つ。大体の形状は河内玉手山安福寺の手洗鉢となっている割竹形石棺に似ているが、6個の縄かけ突起は茶臼山のものにはない、また安福寺石棺の側面下周の界線小突起は茶臼山石棺では著しく増大。長さ6.4cm、厚さ6.7cmの大形の突帯となって周りをめぐる。大形突帯は縄掛け突起の用途と異なる。身の外側と接する部分に前後各2、側4個の4.5×2.1cmの小穴を穿つ。この穴の配列は前後左右でその距離は異る。
 蓋は2.9m×1m(尾部70cm)×46.4cm。内面は身の掘込みに対応する精巧な湾曲の彫抜きを加え、外面には前後に各1個の長い縄掛け突起を造り出している。身と合わせて、現存する遺品中特殊な形式と云うべき。割竹形と家形棺との中間型を示しているのは、石棺発達の研究上重要。”(前掲書要約)。

遺物

 遺物については、「わずかに取り残した石釧(いしくしろ)等12の装飾品が酸化した刀身などと混じって雑然と棺の東側に散在していただけで、副葬品の原配列は不明。」です。発見の品目は次の通りです。
“一、石棺東側よりの発見品
石釧   完全なもの2個   破片2個分
刀身   ほぼ形が完全なもの2口
断片   十数口分
鉄族   数個
二、棺の西側の土砂中から発見
金薄片  1片
三、石室上部の封土中から
和同開珎 1個

 これらのうち、石釧はいずれも碧玉製で、一つは径7cm、厚さ1.2cm。表面に放射状の彫刻。もう一つは径7.9cm、厚さ1.5cm、表面に三重の突帯を巡らしている。
◆会報第84号より-03 古墳と鏡⑧_f0300125_1114223.jpg  破片の一つは現在の神戸市東灘区岡本町発見の釧と同式。その放射状の彫刻は表裏の両面にあって精巧なもの。他の3片は合してほぼ1個の釧の大部分にあたる。石質はなはだしく分解。同一の釧は八幡市西車塚古墳からも出土。
 刀身は破砕したものを合すれば十数口分。いずれも直刀。一つは長さ1m。他は鋒の部分が欠。さや以下79.4cm。
 和同開珎1個は壊れて2片。その発見の位置から考えると、石室の副葬品ではない。後代のもの。”(前掲書要約)と述べています。
 1969年の再調査では、“北面する全長50mの前方後方墳であること。主体部の墓壙は9.4m×6mの長方形で深さは3.2m、その南辺にU字形に彫り込まれた排水溝があり、南へ16m続き、その端末は墳丘斜面に露出して消滅している。古墳の前方部前面で径10cm~30cmの川原石、割石による葺石を確認。出土遺物は、墓壙主体部上面から埴輪5個、土中から埴輪片、鉄器片。古墳とは無関係の寛永通宝2個、前方部葺石上部から検出。(注1)”とあります。

埴輪について

 1915年の調査で“破壊された古墳の中腹の部分に円筒埴輪の破壊破片が無数に散在”とありましたが、1969年の調査報告では、“原位置を保った埴輪を5個検出し、墓壙上部に方形に並べられていたと推測される”と述べています。この残された埴輪がその後の円筒埴輪編年研究や古墳の築造年代研究に役立ちました。
 筑波大学教授川西宏幸氏は山城地域を中心とする円筒埴輪を研究し、その成果を1978年(昭和53年)『考古学雑誌』第64巻2号に「円筒埴輪総論」として発表しました。(注2、この論文の中に八幡茶臼山古墳埴輪名もみえます。)そこに掲載された古墳の編年表は、全国の古墳研究者を驚かせました。それまでの研究では、大阪府羽曳野市の誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(応神天皇陵)、堺市の大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵)は、古墳名と被葬者が確実に一致する古墳として、それぞれ4世紀末と5世紀初頭の基準古墳とされてきたのですが、川西教授の円筒埴輪研究によれば、両古墳に使われている円筒埴輪は5世紀中葉をさかのぼることはないというのです。当時、川西論文に接した古墳研究者の反応は、無視しようとする者、学問的な手続きに誤りがあると主張する者、諸手を挙げて賛同する者、そしてその内容をより精緻に深化させようと試みる者、と様々でした。その後、川西教授の提唱した円筒埴輪編年は、全国各地の円筒埴輪研究の中で検討され、その大綱の正しさが立証されることになります。円筒埴輪を古墳の築造年代を計る物差しに利用することができれば、これまで古墳の形や陵墓名を頼りに年代を求めていたのが、より確実な年代を与えることが可能となります(注3)。
 川西氏は円筒埴輪を「ハケ」「突帯」「焼成」「透かし孔」に四分類し、それらのポイントを組み合わせて、三世紀後半から六世紀までをⅠ~Ⅴ期の五期に区分しています。
   埴輪Ⅰ 3世紀後半~4世紀
   埴輪Ⅱ 4世紀中葉
   埴輪Ⅲ 4世紀後葉
   埴輪Ⅳ 5世紀前~中葉
   埴輪Ⅴ 5世紀後葉~6世紀
 その研究成果を山城周辺の地域の埴輪にも当てはめて考えることができるとし、同じ古墳から出土した須恵器や副葬品と比較することによって、その編年観を補強しました。川西氏によるこの研究は、製作技法から形式編年を確立したといえ、現在の円筒埴輪研究の基礎となっています(注4)。八幡市や京都府の『埋蔵文化財発掘調査概報』、埴輪関係の書物には、八幡の古墳出土の埴輪の年代を決定するのに「Ⅱ期」「Ⅲ期」「Ⅱ-B形式」などの言葉が出てきます。それは川西氏の編年表によるものです。茶臼山古墳出土の埴輪は「川西編年Ⅱ」です。

石棺

 先に茶臼山古墳の石棺について凝灰岩とありましたが、これは九州の阿蘇山の噴火によってできた石(阿蘇石)ということがわかっています。阿蘇石石棺の第一人者で宇土市教育委員会の高木恭二氏は次のように述べています。「遠距離を移動して畿内に持ち込まれた石棺は、すでに四世紀後半の段階から知られており、(中略)阿蘇石(阿蘇溶結凝灰岩)製舟形石棺が京都府八幡市茶臼山古墳、そして若干遅れた五世紀初め頃には兵庫県御津町中島石棺が持ち込まれている。この阿蘇石は基本的には九州にしか分布しない石であり、当然、遠路九州から運ばれたものである。(注5)」。畿内に持ち込まれた阿蘇石石棺は21例あり、それらすべてが西九州の有明海沿岸部の熊本県内で製作されています(1993年現在)。その中で、茶臼山古墳の石棺は最も早く畿内に運ばれています。高木氏はさらに“阿蘇石の石棺には3種類、製作地も3カ所ある。それらは①熊本県北部菊池川下流域②中部の宇土半島③南部の氷川流域である。そして製作された場所によって石棺の形態に相違が見られ、色調の違いなども製作地推定の根拠となる場合がある。”(要約)と述べています。茶臼山古墳の石棺は氷川下流域から運ばれた石材です。この石材は畿内では茶臼山古墳を含めた先の2例に加え、和歌山県大谷古墳石棺の計3例が報告されています。これらはすべて水運の要衝の地にあります。これに対し、継体天皇の陵墓とされる高槻市の今城塚古墳から発見された石棺は宇土半島製の阿蘇石で、ピンク色をしており、「大王の棺」といわれています。畿内には最多12例あります。

割竹形石棺と舟形石棺

 梅原氏は茶臼山古墳の石棺を割竹形石棺と述べていますが、現在では舟形石棺とされています。二つの石棺はどう違うのでしょうか。
 石棺は身を一石からくりぬいてつくった刳抜式(くりぬきしき)石棺と複数の部材を組み合わせてつくった組み合わせ式石棺とに分けられます。両方とも首長の石棺として用いられました。その中で刳抜式には断面が正円形に近い割竹形石棺と断面が扁平で両端が舟の舳先(へさき)のような弧状の舟形石棺に分けられます。舟形石棺は4~6世紀に熊本、佐賀、大分、島根、京都北部、福井、群馬、茨城、宮城など、王権から政治的に遠い地域で在地の石材を用いてつくられたとされています(注6)。

石棺の輸送手段とルート

 石棺は九州・熊本から1000km以上も離れた八幡までどのように運ばれたのでしょうか。
関西大学教授繭田香融氏は「(三世紀から四世紀初めにかけて)その時代の陸上交通は、樹木の繁茂、河川の氾濫、野獣・毒蛇の棲息などの自然条件によって阻害されていたばかりでなく、道路の開発や橋・渡しの設備も十分でなかったし、さらに『魏志倭人伝』に物語れたような小国の分立という政治的条件が、これをいっそう困難なものとしていた。したがって、人物の移動や物資の流通も、多くのばあい、海上もしくは河川を利用する水運によらねばならなかったであろう。(注7)」と述べています。高木氏は次のように言います。「西九州の有明海沿岸から東シナ海・玄界灘を通って瀬戸内海に入り、そして畿内まではかなりの距離がある。その距離を石棺という重量物を運ぶには海上輸送以外には考えられない。律令期における官物輸送が、大宰府から都まで約三十日かかり、それより長い距離でしかも二、三百年も前の時代において石棺を海上輸送するにはやや多めに見積もって四十日ぐらいはかかったであろう。
 古代の海上輸送においては、夜間の陽が出ていないときに航行したとは考えられない。そこには、当然泊りによって、しかも海岸にそって航行するいわゆる地乗り航法がとられたであろうから、船は必ず港に寄港したり、停泊したであろう。そうなれば当然、泊りや停泊地での水や食糧の調達が行われたであろうし、そこに人々の交流が必然的に生まれたものと思われる。単純に計算すれば、三、四〇カ所の地域と西九州の地域の人々との友好的な交流が生まれたのは当然のことで、そこに婚姻や養子等の、同族関係が生まれたとしても不思議ではない。そして、寄港地に近い海が見える丘の上に古墳が築かれ、そこに西九州地域と同族関係を結んだ人が葬られ、そこに石棺が使われたのではなかろうか。石棺が移動するという過去の出来事を調べることによって、古墳時代における地方と畿内との文化交流がいかに活発であり身近であったかがよくわかる。このような個々の現象を詳細に検討することが、古代社会の復元に近づく一歩となるのではなかろうか。(注5)」。

石棺の海上輸送実験と修羅しゅら引き

 石棺は本当に海上輸送によって九州から畿内に運ばれたのでしょうか。それを確かめる実験航海が2005年7月24日から行われました。熊本県宇土市から7トンの石棺を載せた台船を曳いて、手漕ぎの古代船が大阪に向けて出発したのです。漕ぎ手や伴走船は水産大学校に協力してもらい、途中22の寄港地を経て1か月以上をかけ、8月26日に大阪港に入港し実験は成功しました。漕ぎ手はたいへんな労働だったようです。今城塚古墳の石棺を運ぶ実験では陸上は修羅と呼ばれるそり状の運搬用具を用い、150人以上で石棺をひきました。これにより石棺が陸上では修羅によって運ばれることが証明されました(注8)。現在、古代の修羅はいくつかの遺跡から発掘されていますが、中でも1978年大阪府藤井寺市の三ツ塚古墳の周溝から見つかったものが最大で全長8.8m、最大幅1.9m、重さ3.2トンを測り、二股に枝分かれしたアカガシの一木から作り出されています。(実物が大阪府立近つ飛鳥博物館に展示されています。)
 茶臼山古墳の石棺はどの地で降ろされ、古墳の場所まで引き上げられたのでしょうか。最近の研究で、修羅で運ぶには最低4mほどの道幅が必要ということがわかってきました。ということは川津から茶臼山古墳がある峰の頂上まで修羅の通った跡には4m以上の道が通じていたことになります。150人ほどの人力を使って石棺を引き上げ、そこに道ができていったのです。この地には6世紀初め継体天皇が樟葉宮で即位したとの『日本書紀』の記述があります。また7~8世紀にかけて楠葉平野山瓦窯で瓦が焼成され、楠葉(樟葉)の津から水上輸送で大阪四天王寺まで瓦が運ばれていったことを考えると、男山から楠葉にかけた地域は、古代において興味深い地であったといえます。

石棺を輸送した人物・被葬者像

 このように多大な日数、人員、労力を使って九州から石棺を運ばせ、茶臼山古墳に葬られたのはどのような人物だったのか。大阪教育大学の江谷寛氏は次のように述べています。
「(茶臼山古墳の石棺は)九州の阿蘇溶岩で作られた舟形石棺である。舟形石棺は有明海沿岸を中心に西九州に最も多く、やがて各地の豪族層にとり入れられ、短期間のうちに広まったものである。(中略)水運を考えれば南山城でも南河内も九州とは直結していたということができる。とすれば、茶臼山古墳の被葬者と関連のある四世紀の豪族とは誰であったのだろうか。現在の京都市伏見区は古代の紀伊郡であり、これが紀氏と関連のあるものと考えるならば、大和政権を支えた水軍の紀氏の活躍は(中略)明らかである。(中略)茶臼山古墳に九州の阿蘇溶岩製の舟形石棺を運び込めるのが紀氏以外にないことが推定できる。(注9)。」「木津川、大和川、紀ノ川などが紀氏によって支配されていたとすれば、九州の阿蘇溶岩の石棺材は容易に運ばれたに違いない。(注10)」
 『播磨国風土記』(715年頃成立)に、景行天皇(第12代)が印南(いなみ)の別嬢(わきのいわつめ)に求婚しに行こうとして高瀬(大阪府守口市高瀬)の渡しにさしかかったところ、渡し守の紀伊国の小玉(おたま)が「私は天皇の家来ではない。渡りたければ舟賃を払いなさい。」といったので、天皇は頭の弟縵(おとかずら)を賃にすると舟の中は縵の光明で満ち満ちたという話があります。大阪府茨木市の将軍山古墳(古墳時代前期、前方後円墳、107m)の石室は紀の川の結晶片岩、海北塚(かいぼうづか)古墳(古墳時代後期)も緑泥片岩を用いており、淀川水系と紀伊との関係を示しているといわれます。紀氏の紀伊国は「木の国」とも書かれ、すぐれた木材を産出するところから名付けられています。船材の楠を求めて九州方面にも出かけ、造船技術が発達しており、同族が瀬戸内各地に点在し、内陸航路のみならず朝鮮半島にまで力をのばしていたとのことです(注11、注7)。茶臼山古墳の被葬者は誰か、他にも九州と深いかかわりを持つ豪族説、在地の豪族説などがあり、今後の研究が期待されます。
 次回は、「横穴墓と鏡」について考えてみます。
つづく一一

(注1)京都府教育委員会『埋蔵文化財発掘調査概報』,1969
(注2)論文は川西宏幸『古墳時代政治史序説』,塙書房,1988に再録されています。
(注3)大阪府藤井寺市教育委員会 教育広報『萌芽』第6号,1993
(注4)関本優美子「百舌鳥・古市古墳群と円筒埴輪研究」『百舌鳥・古市の陵墓古墳』,大阪府立近つ飛鳥博物館,2011
(注5)高木恭二「石棺の移動は何を物語るか」白石太一郎編『新視点日本の歴史2古代編』新人物往来社,1993
(注6)『日本歴史大辞典』小学館より抜粋
(注7)繭田香融「古代海上交通と紀伊の水軍」『古代の日本 第5巻』,1970
(注8)読売新聞西部本社編『大王のひつぎ海をゆく』海鳥社,2006
(注9)江谷寛「畿内隼人の遺跡と伝承」『舟ヶ崎正孝先生退官記念畿内地域史論集』,大阪教育大学歴史学研究室,1981
(注10)江谷寛「畿内隼人の遺跡」『同志社大学考古学シリーズⅠ 考古学と古代史』,1982
(注11)岸俊男「紀氏に関する一試考」,『近畿古文化論攷』,橿原考古学研究所,1963(注7)参照


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by y-rekitan | 2018-03-26 10:00
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