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◆会報第84号より-05 台場跡

「台場跡講座から学んだこと」

野間口 秀國(会員)


 人は何歳になっても新しい知見を得ることで、驚いたり、嬉しくなったり、「まさに目から鱗が落ちるとは・・」などと思うのは私だけではないだろうと考えております。日本近世史研究家の髙島幸次氏が 『月刊島民 中之島』(*1)にて私にとってとても興味あることを書かれていたので、そのまま引用させていただきます。曰く; 講義でも講演会でも、いつも「WAO」という話をしたいと思っているんです。「W=わかりやすい / A=新しい知見がある / O=おもしろい」。わかりやすくて面白いだけでなく、何か新しい知見を持って帰ってもらうことが大事じゃないかなと。= 引用終わり =

 今年の1月20日、高槻市立しろあと歴史館館長の中西裕樹氏による 「大阪周辺の台場と楠葉台場」 と題する講座に参加しました。 昨年の7月、9月、11月、そして今回と4回にわたり開催された “楠葉のお台場 – 激動の幕末と枚方 –“ シリーズの最終回でした。この回は私の日々の生活の場に近い楠葉台場跡に関する内容で、私にとっては前述の「WAO」のある講座でした。既に受講した3回の講座は、それぞれ、初回の家近良樹氏による “幕末維新期とはどういう時代であったか ~ペリー来航から西南戦争までを視野に入れて~ ”、続く第2回は笹部昌利氏より “勝海舟の政治抗争と「台場」の意義 ” を、更に第3回は冨川武史氏の “江戸湾防備から大阪湾防備へ ~台場築造にみる幕末の海防体制~” と題したお話しであり、台場の築造に関連する時代背景や政治的な動向と関わった人々、さらに幕末の海防体制など、台場に関しての多くの歴史的な事象や人との関わりなどを学べました。 従って第4回目は、そのような時代背景の中で造られた楠葉台場築造の目的や経過、存在意義、そして梶原台場との関連が良く理解できる「W=わかりやすい」講座でした。

 講座の中で、幕末の時代に京都を護るため、外国船の打ち払いを目的として、大阪湾岸に沿って、南は和歌山から西は明石にいたっておよそ26カ所の台場が存在したことが話されました。それらの台場跡で、和歌山の友ヶ島の砲台跡、大阪・堺市の堺南台場跡、兵庫県明石市の砲台跡、和田山の砲台跡など、既に以前に足を運んだことはありましたが、いずれの場合も今回の一連の講座で学んだことに関係なく訪れたこともあり今思い返すととても残念な思いでありました。それらの中で興味深く思えた一つは堺南台場跡のことでした。昨年5月に訪れたこの堺港台場跡一帯は広い公園となっており、テニスコートや相撲場などもあります。話は少し脱線しますが、公園の一角に「蘇鉄(そてつ)山」 と呼ばれる山があります。山に興味のある方はお気づきかも知れませんが、この山は一等三角点のある標高6.96mの日本一低い山として国内でも有名な低山なのです。山登り好きの私は、この低い山に登ったあと、近くのお寺で志納金を納めてはがきほどの大きさの “「蘇鉄山」登山認定証” をいただいておりました。認定証にも書かれてあるように蘇鉄山山頂には一等三角点があることからも、改めてこの山(場所)が台場としての適地であっただろうことも素直に頷けるものでした。このことに気づかされたのも正に「A=新しい知見がある」講座となったのです。

 さて大阪湾から離れ、淀川を遡り、川の左岸の京都の入り口(現在の枚方市楠葉の地)に攘夷派や長州藩の入京を取り締まる目的で、文久3(1863)年、松平容保(かたもり)によって八幡への台場の設置が建白されました(*2)。八幡には設置に適した場所の確保が困難なことより、現在その跡の残る楠葉に台場は設置されました。楠葉台場は、前述の大阪湾沿岸の台場などとは設置目的が少し異なる事も興味のある点ではないかと思いました。今日では国指定史跡として整備されており、現地に建つ石碑や説明板を訪れる人の姿にふれることが以前に比べて増えたようです。この楠葉台場と目的を同じにして、同時期に川向かい(淀川右岸)の地に今一つの台場である梶原台場も建白され設置されました。◆会報第84号より-05 台場跡_f0300125_20535544.jpg建白時の設置予定地は山崎だったのが、(左岸の八幡と似たような理由で)狭い範囲に多くの家屋が並んでいた事や、地元の神社を避けて現・高槻市神内(こうない)の地に場所を移して設置されたのです。講義で「この台場跡は平成19年(2007)に構造と立地が判明したものである」とのことが話されましたが、現在ではこの地は「文化財包蔵地」となっており、残念ながら楠葉台場跡のようなものを見ることはできません。しかし現地に足を運ぶと、そのわずかな痕跡から当時を偲ぶことができます。

 ところで、私たちが今日理解している多くの歴史的出来事は、石文や古文書など、何らかの形で文字として残るものに準拠していること、もしくは発掘等によって発見された遺物などに依ってその根拠が明らかであることが求められます。私の手許には平成18年(2006)3月発行の 『史跡をたずねて 改訂版』(*3)があり、その中には、楠葉台場跡と淀川を隔てた島本町高浜の地に設置された「高浜砲台跡」(碑本体の地名表記は高濱)碑の説明が記載されています。◆会報第84号より-05 台場跡_f0300125_2103814.jpgそしてこの碑が昭和55年(1980)に建てられたことも分ります。また、実際には 「これより北東六五〇米のところ」の河川敷にあったことも碑の右側面に併せて書かれております。しかしながら、梶原台場の研究によってこの「高濱砲台跡」は『ヒストリア 第217号』 に掲載の地図(同紙の51頁)にも見られますように、実際には「高浜船番所」であった場所であり、地図には「高浜台場伝承地」と書かれております。

 私は昨年の8月5日に、三川合流の地にて開催された夏祭り行事の一環で、祭り会場近くの宇治川に架かる御幸橋付近の乗り場から、ゴムボートで島本町に渡るイベントを体験しました。ボートは岸を離れ、宇治川を背割提に沿って下るとほどなく木津川の流れと合流します。さらに下ると進行方向右からの桂川と合流して三川が一本(淀川)となります。ボートを右岸に漕ぎ寄せて島本町の高浜渡し場跡あたりに接岸し、振り向けば橋本の地が望めました。上陸して、かつてはゴルフ場のあった河川敷を横切り、阪急電鉄京都線の水無瀬駅に向かう途中の堤防近くに「高浜砲台跡」碑は建てられています。

 前述のように「高浜砲台跡」碑が建てられたのは昭和55年(1980)です。手許の本(*3)の巻頭には、初版本は昭和63年(1988)3月に発行されたことも書かれてあります。そののち、時を経た平成18年(2006)に改訂版が発行されており、梶原台場跡の構造と立地の判明がなされたのはその翌年、平成19年(2007)です。このように、改訂版が刊行された1年後に新事実が明らかになっており歴史の不思議さを感じずにはおれません。講座では「楠葉台場跡の研究に続く梶原台場跡の研究が従来の歴史の記述の一部を改めた」とのことが語られ、私にとってまさに「A=新しい知見がある」講座となりました。

 講座が終わっての帰り道、改めて樟葉駅で列車を降りて楠葉台場跡を訪ね、現場にある説明板や石碑を読み直してみました。◆会報第84号より-05 台場跡_f0300125_21145086.jpg説明板には、平成23年(2011)に国の史跡になったこと、また「陣屋のあった橋本集落の南方にあったことから橋本台場とも呼ばれていた」などについても書かれてあります。また説明板にある台場の図面には “河州交野郡楠葉村関門絵図一分計”(全体を10に分割した絵図の1つ)との説明もあります。以前から石碑を何回ともなく見ており分かってはいたのですが、現場に建てられた三宅碑には「戊辰役橋本砲臺塲跡」と刻まれています。「何故、橋本なのだろう」と私なりに改めて考えてみたのですが、その第1の理由は、松平容保(かたもり)によってなされた台場設置建白の地が「八幡」であったこと、第2に、関門絵図に「交野郡楠葉村」と書かれていた事実が、碑が建立された昭和3年(1928)の時点で公表されていなかったのではないだろうか、そして第3には、戊辰役は鳥羽、伏見、淀、八幡、そして橋本と戦いの場所が南へ移り、京都方から見ると戦いは河州交野郡楠葉では無くて城州域内の橋本(前述のように橋本陣屋あたり)で終えた、との理解で石碑は刻まれたのではないのか、などと勝手に思いながら家路につきました。歴史に関する事柄について探究することはとても楽しくて、かつ「O=おもしろい」ことと改めて思っています。この原稿をまとめるにあたり貴重な助言をいただきました中西裕樹高槻市立しろあと歴史館館長に紙面より感謝申し上げます。
(2018.2.6)


参考文献等:
(*1)『月刊島民 中之島』 Vol.114 2018 1/1 月刊島民プレス刊
(*2)『ヒストリア 第216~218号(2009年)』 大阪歴史学会刊
(*3)『史跡を訪ねて 改訂版』 島本町教育委員会刊
(その他)枚方市教育委員会・公益財団法人枚方市文化財研究調査会の共催による平成29年度 文化財連続講座 “楠葉の「お台場」--激動の幕末と枚方—” の第1~4回の配布資料を参照

by y-rekitan | 2018-03-26 07:00
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