御本社道を探る
―その2―
谷村 勉 (会員) 御本社道三叉路から腰折坂方面へ 腰折坂から八幡宮への道は現在は使われず、荒れるにまかされている。
腰折坂を越えて右側の資材置き場を通り過ぎ20m程ゆくと竹林の境目に下に降りる道がある。
しかし、今は古竹の倒木などで道が判別できない。実際にこの「荒れ道」を確認するには八幡宮方面から歩くのが解りやすい。
そこで、橋本道を歩き興正谷不動道と合流する地点にある筍の季節販売小屋やその向かい側にある「八幡大谷山上の道標」(注1)のある三叉路から出発した。
慶応2年(1866)の城州八幡山案内絵図(部分)には、最上部に三叉路が描かれ「右はし本道、左楠葉道」の道標(矢印)があった。八幡山名所案内記(注2)の記述に、「右は狩尾から橋本へ、左は足立寺より楠葉郷に至る」、とあり、左は楠葉への「御本社道」を案内している。(現筍販売小屋付近に道標があったことになる。)
三叉路から興正谷不動道を凡そ100m程下ると、右側にクヌギのやや大きな木が見え、根元に小道が見えてくる。右の小道が「御本社道」である。
藪中の小道を暫く下るとやがて石橋跡に到着する。昔は数本の石が架けられていたが、大雨の水流に土手がえぐられ、今では1本が架かるのみとなっている。石橋を渡るのは危険で、必ず右側から遠巻きして対岸に渡る。対岸に渡って歩き出すと、道には石で補強された痕跡があったが、これもかなり崩れていた。そこからは大きく荒れた道を倒木(竹)を踏み分けてやや急な登りを行くが、本来の道と思われる所は荒れて歩けない。左の土手沿いを登って、平坦な台地に出れば、この辺りから配水池の景色も見えてルートは明かになる。今の状態で実際に歩くには大変困難であるので、気軽な散策道としてはお勧めできない。
御本社道ではないが、男山団地に小学校ができるまで、橋本の小学生は京阪電車で八幡小学校に通う生徒もいた。しかし、腰折に近い小学生は腰折坂から興正谷不動の横道を抜けて八幡小学校に通った。小屋の左の道が当時のまま今も残っている。この道を登り、谷の北側台地から腰折に至る道が通じていたが、僅かな距離ながらも途中、道が崩れて歩けない。
不動堂北側の竹林作業用の道が唯一の道となる。聞き取りにより、通学路の証言を得ると共に興正谷不動を裏不動と言い、神應寺の杉山谷不動を表不動と呼んでいたことも確認できた。
地図には石不動堂から北に進む現在の道は「新道」とある。当時、志水から八幡宮へは、石不動堂の北側から左に回り、腰折経由で八幡宮に向かったようだ。
(つづく)
(注1) | 「八幡の歴史を探究する会」から平成31年(2019)1月に刊行された『増補版「石清水八まん宮道」に誘う道標群』p15に「八幡大谷山上の道標」として紹介されている。興正谷不動道と狩尾社からの橋本道の合流点にある宝暦四年(1754)建立の道標。
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(注2) | 慶応2年(1866)長濱尚次によって刊行された「八幡山名所案内記」、「城州八幡山案内絵図」と項目が一致する事から、どちらも慶応2年の刊行と推定できる(京都府立大学文化遺産叢書第3集・近世から近代の八幡宮案内図と案内記より)
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